仙人になる方法:仙薬はもらうものから作るものへ

道教はその中核に羽化登仙の思想を含みます。
これはなんらかの方法で不老不死・不老長寿の仙人となり、仙人や神々が住まう天上へ至ろうというものです。
よほど現実の社会がいやだったのでしょう。その気持はわかります。
ただ、仙人になるための方法は、時代によって変化してきました。
仙人は仙薬を飲めばなれるものだった
仙人や仙人になる方法は、後に道教と呼ばれることになる信仰が出現する以前からありました。
『史記』には公孫卿という方士が武帝に対して、黄帝が泰山に銅で鋳造した鼎を祭ると龍が現れ、黄帝は龍に乗って天に昇ったと聞かせます。銅の鼎は皇帝が自ら天地を祀る儀式「封禅」を行うための祭器です。後にこれが黄帝が龍に乗って仙人になった話にされました。
ただ、この方法はあまりに特殊な例で帝王、皇帝以外には真似できませんし、仙人になったというのも後付けです。
史書に見えるもっとも初期の成仙の方法は、仙人が作った特別な仙薬を飲むことです。
始皇帝が中国を統一した秦のころ、そうした方法を説いた人々は「方士」と呼ばれていました。
そして、それら方士は始皇帝に取り入り、仙人を探すためと称して莫大な資金を騙し取りました。
『史記』始皇帝本紀には、斉人の方士徐市(徐福)が、海上には蓬莱、方丈、瀛州の三神山があり僊人が居るので会いに言ってきますなどとして海に向かった。
韓終、侯公、石生などを使って仙人に不死の薬を求めさせた。
などの記述があります。
燕人の方士盧生は始皇帝に、行いを密かにして悪鬼を避ければ真人に到れる、今上陛下は天下を治めながらもまだ恬淡に能わざるので、宮中で人に知られないようにしていれば不死の薬を得られましょうなどとそそのかし、真に受けた始皇帝は自らの行幸をもらしたと疑った家臣を皆殺しにしたりしました。
ここに見られるように、始皇帝が生きたころには仙人には仙人が持つ不死の薬を飲めばなれるものとされていました。
一番最初の仙人はだれから不死の薬を得たのかと疑問に思う人はいなかったのかなと思いますけど。
しかし、韓終も徐福も不死の薬を持ち帰ることはなく、盧生は同じく方士の侯生と共謀して逃亡しました。
さてこの不死の薬、始皇帝を騙した方士たちが詐欺のネタとして考え出したものでしょうか?
私はそうは考えません。確かに『史記』に出てくる方士たちは、最初から始皇帝に不死の薬を差し出す気などなかったと思われます。
ただ、彼らが全てグルだったわけではないのに、共通して不死の薬を探してくるとか、行動を知られないようにしていれば不死の薬を得られるなどとしているところから、特別な仙薬を飲めば仙人になれるという共通認識があったのではないかと思います。
ここに出てこない方士で、実際に仙薬を探し求めて海や深山をさまよった人もいるかもしれません。
徐福は日本に来た?
佐賀県を舞台に、様々な時代から集められたゾンビィがアイドルグループ「フランシュシュ」を結成して佐賀県を救うためにアイドル活動をするというちょっと奇抜なアイドルアニメ『ゾンビランドサガ』。
1期から登場し、必ずフランシュシュの名前を間違える大塚芳忠さん演じるバーのマスターは、フランシュシュを集めたプロデューサーの巽幸太郎以外に唯一ゾンビィたちの事情を知っているふうの謎の人物でした。
ちなみにゾンビは英語の綴りが「Zombie」なので幸太郎のゾンビィという発音のほうが正しいです。
さてその謎のマスター。2期『ゾンビランドサガ リベンジ』でフランシュシュ5号ゆうぎりが生きた明治編にも登場し、その名が徐福であること、そして佐賀に数千年生きる不老不死であり、死者を蘇らせる術を持つことが明かされました。
これは徐福伝説を元にしたネタです。
徐福が日本に到来したという「徐福伝説」は、北は青森県から南は鹿児島県まで、日本国内に数箇所あります。
特に佐賀市には徐福にまつわるという伝説が数多くのこされており、徐福長寿館なる資料館まで作られ、姿かたちなど知りようがない徐福の像まで立っています。

佐賀県の観光情報ポータルサイトあそぼーさがより画像引用
さて、徐福は本当に日本に来たのでしょうか?
『史記』では徐福は仙人が住むという蓬莱、方丈、瀛州に向かって少年少女数千名を連れて海に出たとあります。
徐福が海に漕ぎ出したのは始皇帝28年=紀元前219年です。
日本だと弥生時代ですね。
中国から海に向け、子どもたち数千人を率いて旅立ったというところが、仙薬を口実にした移民のようにも思われるため、徐福が日本に来たのだという伝説が作られたものと思われます。
弥生時代には実際大陸から稲作文化などが伝わっています。
青森県や秋田県についたというのは無理がありすぎだけれど、日本の中では大陸に比較的近い佐賀県のあたりに除福がやってきたのは、可能性としてはゼロとは言えません。
とはいえ、蓬莱、方丈、瀛州は海中に見える山ですから、当然中国から日本が見えたはずなどなく、これらの神山は蜃気楼だと言われています。
当時にすでに海を渡る航海術はあったにしても、数千人を引き連れた大船団もしくは大型船が存在し得たとは思えないです。
仙薬は自ら作るものへと変わっていく
西漢の世宗武帝は、イケイケのころは儒教を重んじたものの、後に不老不死を求めて神仙思想に宗旨変えをするようになります。
そんな武帝に取り入ったのが、方士の李少君です。
李少君は豊富な知識を駆使して自らを数百歳の長寿であるかのように見せかけ、かまどを祀り穀道を行えば長寿を得られると説きました。
穀道がどういうものか明確ではありませんが、おそらく後の世の辟穀–穀物などを制限した食養生–のようなものだと考えられています。
李少君はまた、かまどを祀ると丹砂を黄金に変えられ、その黄金で食器を作れば長寿を得られる。蓬莱の仙人もそうしているなどとも説いています。
ここに、蓬莱の仙人と同じ方法で長寿を得ようとする発想が生まれました。
ただ、その時点ではまだ仙薬を作ろうという思想ではなかったわけです。
それが東漢のころになると、仙薬を自ら作ろうという流れができました。
秦が滅びてから300年ほどたった東漢から三国時代にかけて生きた魏伯陽という方士が著したとされる『周易参同契』なる本があります。
正直何を書いてあるのかわけがわからない本です。
内容に「汞白為流珠(汞白=水銀を流れる珠のようにする)」とか「丹砂木精」などあるので、水銀をもとに不死の仙薬を作る方法が記されていると考えられています。
あるいは特定の方法での薬の作り方を学んでいなければわからない符合によって記された奥義書かもしれませんし、ただの妄想かもしれません。
ただはっきりしているのは、不老不死の仙薬は300年ほどの間に仙人からもらうものから、自分で作るものという認識になっていたということです。
外丹から内丹へ
三国時代に続く西晋の時代には、より詳しい仙薬の作り方を記した『抱朴子』が記されます。
『抱朴子』を著した葛洪は、『三国演義』にも登場する仙人・左慈の弟子葛玄の兄弟の子。
葛玄の弟子の鄭隱から左慈の道統を受け継ぎました。
左慈の名前は『後漢書』方術列伝に見え、曹操の求めに応じて呉の松江の鱸や蜀の生姜など遠方のものを即座に用意する手品のような芸を見せたとあります。
また、曹操の息子・曹丕が著した『典論』には左慈は「補導之術」を知り房中術を修めたとあります。
補導之術は、他人の気を取り込む采補の術と、現代に言う気功の一種導引術のことだといいます。
房中術は男女の交わりによって陰陽の気を調和させて健康をえる術です。
左慈の術は、後に言う内丹法にも近いように思えます。
葛洪は『抱朴子』で「服薬は長生の本だが、もしそれとともに行気を行えばその効果ははやくなり、もし仙薬を得られなくても、行気の理を極めれば数百歳生きられる。また房中術も知らねばならない。陰陽の術を知らなければ労損となり行気でも力は得られ難い」
と言います。
行気も導引と同様気功の一種で、気のめぐりをコントロールする術。
そして、房中術も知らなければ行気から得られる効果は無駄になるというわけです。
仙薬の作り方が左慈から伝わったものかは不明ですが、こうした気の修練や房中術は左慈から葛玄、鄭隱を経て葛洪に伝えられたものでしょう。
葛洪はまた「呼吸導引、草木の薬の服用は寿命は伸ばせるが死は免れない。神丹を服用すれば寿命は無窮で天地の終わりまで続く」とも述べています。
呼吸法や導引、薬草には長生の効果はあるけれど、不死にまで至るには神丹、つまり丹砂や水銀などを原料に特別な方法で練り上げた仙薬を飲まねばならないということです。
『抱朴子』では、あくまで「服薬は長生の本」として、行気や房中術はその補助の扱いになっています。
道教では、仙薬を服用して成仙を目指すことを外丹術、自らの体内で気を練り成仙を目指すことを内丹術と言います。
隋唐ぐらいになると、水銀を含んだ薬を飲むことによる死亡事故が相次ぎました。
そのため、唐代ぐらいから外丹術が少しずつ廃れ、そのかわり内丹術が興隆していきます。
左慈から葛洪にまで受け継がれた補導之術は、外丹術から内丹術に移り変わる橋渡し的な役割だと言っていいかもしれません。







