道教の宗派:正一道

一言に道教と言っても宗派は多く、実のところ「道教」というのは数多くの宗派を最大公約数的に大雑把にまとめた名称でしかありません。
ただ、その中でも代表的な宗派が2つあります。全真教と正一道(正一教)です。
全真教が主に中国北方に広まっているのに対し、正一道は中国南方で盛んで、福建移民などの移動に伴い台湾、シンガポール、マレーシアなど中国以外の国々でも信仰されています。
五斗米道
東漢末、西暦にすると184年に世に名高い黄巾の乱が勃発しました。
黄巾の乱をきっかけに曹操や孫堅といった英傑が台頭し、ここに三国時代の幕が上がります。
その黄巾の乱を起こしたのが、張角が興した太平道です。
そして、太平道とほぼ同時代に張道陵が興した五斗米道がありました。
太平道と五斗米道は、道教ができる以前に生まれた史上初めての道教的教団で、道教史からみても重要な意味を持ちます。
張道陵は現在の江蘇省あたりに生まれ、若いころに今の重慶あたりにあたる江州に州令として赴任しました。
ほどなく職を辞し、洛陽の北邙山にこもって長生の術を修行したといいます。
葛洪の『神仙伝』では、山で修行する張道陵の前に大量の天人が降り立ち「正一盟威之道」を授けられたとしています。また、後にはこの天人が太上老君だったということになりました。
張道陵はその後成都の鶴鳴山で信徒を集めて布教をはじめました。これが五斗米道です。
五斗米道は、入信料として五斗の米を取ったことからそう呼ばれています。といってもおそらくは本人たちがそう名乗っていたわけではありません。
米五斗はおよそ7.5kg。もっとも、中国語では「米」は日本語で言う狭義の米以外に粒状の穀物全般を指す言葉なので、粳米や糯米に限らず粟などの雑穀も含まれていた可能性はあります。
それほど裕福でなくても入信できたはず。そうでなければ勢力は広められません。
五斗米道は、貧しい人に食べ物を施し、符咒招神驅鬼なる呪術による病気治療を施して人気を集めました。このへんは太平道と共通しています。
張道陵が著したとされる『老子想爾注』は『老子道徳経』の解釈という体裁をとって、欲や怒りが悪心を生み、それが五臓の気を見出して病気を生むと説いて、心をしずめて争いを戒める宗教としては非常に穏当な教えとなっています。
張道陵の教えはその子張衡、孫の張魯に受け継がれて、張魯の代には漢中を占領して独立自治組織を成立させるまでになりました。
五斗米道についての異説
五斗米道については別の説もあります。
実際には、五斗米道を興したのは張脩なるシャーマンで、黄巾の乱に乗じて反乱を興し、それを劉焉麾下の張魯が滅ぼして、教団を乗っ取ったとするものです。
その説を採るならば、張道陵の伝説も張魯がでっち上げたものという可能性もあります。
天師道
祖父から受け継いだのか他人から奪ったのか、真相を確かめるすべはありません。
ただ、張魯が漢中に宗教王国を打ち立てたのは事実です。
張魯王国は善政を敷き30年続きました。
しかし曹操に攻められて張魯は国を捨て逃亡。そのおり、国庫に封をして財宝を持ち出したり火をかけたりしなかったため、その行いに感心した曹操は使者を立てて張魯を慰撫し投降を促しました。
曹操に降った張魯は鎮南将軍に封じられています。
張魯は張道陵を「天師」として崇め、それゆえ五斗米道は天師道と呼ばれるようになりました。
後に「天師」号は張氏代々に受け継がれ、その代の教主は「張天師」と呼ばれることとなります。
天師道=正一道?
天師道を正一道に改めたのは、張魯の子の張盛だということになっています。
張盛は現在の江西省にある龍虎山で龍虎正一道を立教し、それが現在まで伝わっているというのが正一道の公式設定です。
ただ、これは少し疑わしいです。
張盛は曹操に奉車都尉散侍朗加都亭侯に封じられているので一応実在と見ていいでしょう。ただ、龍虎正一道なる宗教を実際に作ったという証拠はありません。
また、その後の「張天師」の系譜が非常にあやしい。
第5代の張天師は張盛の子の張昭成ということになっていますが、その没年は119歳。
それ以降も100歳超えとか90歳超えの人が続きます。
もちろん古代といえども90歳を超えて生きた人はいたでしょう。しかし、代々そんな長命の人が続いたのはちょっと怪しい。
第28代張天師の張敦復になって、53歳没という常識的な没年となり、それ以降は疑わしいほど長命の人は絶えます。
ここから推察されるのは、張敦復が本当に張道陵の子孫かどうかはさておき、とにかく張天師を名乗っていたのだろうということ。
そして張盛以降から自分までの張天師をでっち上げ、辻褄を合わせるためと正一道の修行によってそれだけ長命を得られるのだという箔付けのために、むやみに長命だったと設定したのではないかということです。
日本の古代天皇のうち、第5代孝昭天皇から第13代成務天皇までがのきなみ非常識な長命に設定されているのと同じつじつま合わせが行われたと見ていいと思われます。
要するに、張魯の天師道がそのまま直接的に正一道になったというのはまったく信用できない情報だということです。
東晋のころの断片的な五斗米道の存在
張盛以降、五斗米道もしくは天師道がどうなったのかははっきりしません。ただ、葛洪が『神仙伝』で批判していた「見識が浅い道士」とは、老子を神様として扱っていた天師道を指すと思われます。
葛洪が生きていた西晋から東晋にかけての時代は、おそらく張盛も存命でした。
その後、東晋の末期に孫恩の乱が発生します。これが五斗米道による反乱でした。
まず、東晋の都建康で、方術の高さにより土豪や貴族から声望を集める杜子恭という道士がいました。当時、五斗米道はこの人物が教主だったと言われています。
そして教主の座は杜子恭の弟子の孫泰に受け継がれました。その孫泰は、反乱を目論んだものの事前に露見して誅殺されました。
五斗米道の教主の座は、孫泰の甥の孫恩に引き継がれ、孫恩が叔父の志を引き継いで挙兵します。
孫恩は自らを征東将軍と称して中国東南部にあたる会稽を占領、呉など周囲の地域も呼応して反乱軍の規模は大きくなりました。
孫恩は官軍に攻められては海上に逃げるという戦法をとり、最終的には追い詰められて海に飛び込んで死にました。しかし反乱軍は孫恩の妹の婿である盧循に引き継がれて、孫恩から盧循にわたる反乱は10年以上に及びます。
孫恩、盧循の反乱は司馬氏の弱体化と腐敗が招いたもので、この反乱自体は鎮圧されたものの、結果として桓玄の簒奪による東晋滅亡につながっています。
さてこの乱には張天師はまったく登場しません。杜子恭から孫泰、そして孫恩に受け継がれた五斗米道が、張盛から続く直系だったのか、それとも分派だったのかは不明ですが、少なくともすでに東晋のころには張天師以外の教主を擁する五斗米道があったことになります。
正一道は宋代に流行
宋代は道教が大きく発展していく時代です。首都を開封に遷した南宋では特に正一道が勢力を伸ばして、第35代張天師の張可大は南宋の5代皇帝理宗により朝廷おかかえ道士になりました。
朝廷おかかえとなったことで張天師の名声は非常に高まりました。
北宋末期を舞台とする『水滸伝』の最初の章は「張天師祈禳瘟疫」張天師が瘟疫を祈禳する。祈禳は厄払いのような術のことです。
悪疫が流行したため、当代の張天師・虚靖天師を招き、祈祷させようとしたところ、使者の洪信が過去の張天師が封じ込めた天?星地?星108の魔物を解き放ち、それがやがて梁山泊に集うという流れになっています。
明代に成立した『水滸伝』は、現実にあった宋江の乱を題材に南宋のころには講談の題材として語られていたといいますから、南宋での張天師の名声もここに反映されているようです。
宋代にはすでに正一道を名乗っていた可能性もありますが、確実に正一道を名乗っていたと言えるのは元代に第38代張天師の張與材が「正一教主」に封じられてからでしょう。
しかし、元を経て明になると、帝室は全真教を公認したため、正一道は民間の信仰として受け継がれていきました。
別系統の天師道
天師道は実際のところ張盛以降どうなったのかさっぱりわかりません。
ただ、後に張氏とは別系統の天師道が生まれました。
一つは南北朝時代の北魏の道士寇謙之が作った新天師道。
寇謙之は成公興なる道士とともに嵩山で道術の修行をしていたところ、そこに太上老君が降臨し天師号を授かるとともに『雲中音誦新科之誡』なる経典を授けられたと主張します。
そして老君から「道教を整理し、張道陵、張衡、張魯の偽法と租米銭税、男女合気の術を除け」とお告げを受けたと言います。
つまりそれまでの天師道の教えは偽物で、五斗米道の名の元となった米の徴収や、道教教団で行われていた房中術を一切行わないことにしたということです。
そのころ房中術は、その目的を失って単なる乱交パーティーと化しており、風紀を紊乱するものとして批判の対象でした。
そうしたそれまでの古く形骸化した天師道から、服気導引と辟穀を主とした健全な修行体系に刷新しました。これには仏教の影響も受けているようです。
寇謙之の新天師道は結局一代で失われたものの、その思想や修行体系は、後の内丹に受け継がれているように思います。
もう一つ、寇謙之とほぼ同時代人で、こちらは南朝の方の宋、いわゆる劉宋の道士陸修靜も、自らの天師道を興しました。
陸修靜は張道陵以下三代を否定せず、「三張を祖述し二葛を広める」をスローガンとしました。二葛とは葛玄と葛洪のことです。
陸修靜は山中で修行して自ら道を得たという感じになっていますが、天師道の分派である茅山宗の第7代位宗師に数えられているので、実際には茅山宗の師匠について修行したのでしょう。
陸修靜は道教の祭儀を整理し「洗心潔行」心を洗い清めて修行する方向性を打ち出しました。
陸修靜の目的もまた、乱れた教団風紀を粛清することにあったようです。
茅山宗のほうはその後も代を重ね現代まで伝わっています。
正一道の内容
一応五斗米道が正一道の源流と仮定します。
五斗米道はすでに述べたように祈祷による病魔退散を主とした宗教でした。
東漢末は帝室が十常侍の専横により乱れ、気候の寒冷化による不作や疫病の蔓延により民衆は塗炭の苦しみを味わいます。
祈祷で病気が治るはずはないけれど、それまで食うや食わずだった人に食事を与え、祈祷というパフォーマンスで精神的な安心感を与えれば、病気になった人の回復率も高まるのではないかと想像できます。
栄養状態の改善とメンタルケアと解釈すれば「祈祷で病気を治した」というのも決して荒唐無稽とは言えません。
実際五斗米道はそれで小さな国を作れるまでに大きくなりました。
さて張道陵が著したとされる『老子想爾注』は、東漢のころの内容がそのまま残っているかどうかは別として現代まで伝わっています。
その内容は
則民不爭亦不盜
民に争わせずまた盗まず。です。
悪心を絶ち心に善性を育てるのが基本方針となっています。
是以人當積善功其精神與天通 設欲侵害者天即救之
人が善行を積み重ねれば、その精神は天に通じ、もしその人を侵害しようとする者がいても天がこれを救う。
「信じる者は救われる」というふわっとした教えではなく、善行を積めば自分を救うことになると教えられれば、信者は積極的に善行を行うようになるはずです。
ただ、そうした理想論は得てして堕落しがちなもの。
五斗米道では行気や導引など現代の気功に通じる修行の他に房中術も行われていました。
房中術とは要するに性行為によって男女陰陽の気を交流させ、健康を得るというものです。
いずれ別に解説する予定ですが『素女経』などに記される房中術は、男女が性行為を共にしてお互いに健康になろうという目的があり、性行為そのものが目的ではありませんでした。
しかし、実際教団で男女の交わりが行われて、房中術の本道を守ろうとする信者はいたでしょうか?
戒律で邪淫を戒めていたにも関わらず、天師道の教団は乱れました。
幸い寇謙之や陸修靜の改革によってそうした風紀の乱れは治まりました。もちろん全てなくなったわけではないだろうけれど、少なくとも宗教の皮を被った乱交パーティーは下火になっていったようです。
ただ、それ以降の天師道がどうなったかはさっぱりわかりません。
正一道として再び歴史の舞台に立った時は主に厄払いの祈祷を生業とするものになっていたのではないかと思われます。
張道陵が授かったことになっている「正一盟威之道」は妖魔を払って民を救う道だとされます。
『水滸伝』で張天師が瘟疫を払う儀式を行うのも、正一道とはそういうことをするものだと社会的に認知されていたからでしょう。
元を過渡期とし、正一道は北方での信仰のシェアを新興の全真教に奪われ、南部を中心に栄えました。
代々張天師を頂く本家の他に、いくつかの分派もわかれ、それぞれの土地で民間信仰の神々を吸収して、膨れ上がった設定を整理しきれないまま伝えられていきました。
現代の張天師
実は張天師はごく近年まで継承されていました。
第63代張天師の張恩溥は、中華人民共和国成立後香港経由で台湾に逃れたため、正一道の正統は台湾に移ったと言えます。
張恩溥の唯一の子息が病逝したため、第64代張天師は張恩溥のいとこの息子張源先が就いていました。
しかし張源先には息子がおらず、第65代が決まらないまま亡くなりました。
その後台湾で勝手に65代を名乗った人はいるものの、自称しているだけで正統張天師とは認められておらず、事実上張天師は第64代で途絶えています。
一方、中国の龍虎山嗣漢天師府は張天師の世襲は停止すると表明しています。
現代の正一道
中国の正一道がどのような活動をしているのかは見ていないので、実際台湾で見聞きしてきた正一道の活動を述べると、やはりその内容は厄払いのような儀式が主となっています。
信徒が道教廟で道士のお祓いを受けている様子はたまに目にするものです。
また、台湾で実際に道士となった三多道長氏の著書によれば、風水の鑑定なども行っているとの由。
ここで言う風水とは、ドクターなんちゃらが風水だと言いはる室内インテリアのおまじないではなく、土地を見るもの。
特に問題になるのは、人間が住む陽宅と墓場=陰宅の位置関係が適正かどうかのようです。
算命、つまり占いも道士の仕事。台湾で見た道士を養成する学校の案内では、カリキュラムはほとんどが占いのやり方でした。
台湾の正一道の道士は他に正業を持つ兼業の人も多く、自らが修行して羽化登仙を目指すというタテマエはほぼ失われているように見えました。






