王爺千歳信仰

最初に宣言しておくと、台湾と中国は別の国です。中国が主張する台湾は中国の一部だという妄言を一切認める気はありません。

ただ、台湾には17世紀以降断続的に大陸からの移民が移入し、1949年の国民党の敗北による敗残兵の流入でそれはピークを迎えました。

それゆえ中国文化の影響は強く、特に食文化と宗教にはその影響が顕著です。

例えば日本も台湾ほどではなくても中国文化の影響があり、もはやそれは日本文化と不可分です。だからといって日本が中国に属するわけではない。

それと同様に、台湾も中国と共通する文化を持つとはいっても、それゆえに中国の一部だとするのは牽強付会もいいところ。

台湾の道教文化を語るにおいて、国として台湾と中国を混同することは一切ありません。

王爺千歳信仰は瘟神信仰から始まる

台湾にはいくつかの道教宗派や中国の土着信仰由来の民間信仰が存在します。また、中国からの移民が台湾で独自に生み出した民間信仰もあります。

道教と民間信仰は厳密には違うものです。しかし現実には両者はすでに混淆し、特に台湾においては何が道教で何が民間信仰であるかを完全に選り分けるのは不可能だし、無意味です。

そんな台湾の信仰の中で一大勢力となっているのが「王爺千歳」信仰です。

これはもともとは福建で発生した民間信仰であり、福建移民によって台湾に伝えられました。

気候が温暖で湿度も高い福建周辺は、現在においてすら疫病が発生しやすい土地です。ましてや現代医学が広まる前となればどれほどであったか想像に難くありません。

そうした疫病を、人々は「瘟神」という、日本で言えば疫病神が運んでくるものだと考えました。

もちろん、細菌学などなかった時代とはいえ、医学の分野でもそのように認識していたわけではありません。

明末から清代にかけ、現代の中医学の元となっている伝統医学では、特に南方に多いこうした伝染性の疫病を「温病」というカテゴリーに入れて考えるようになり、治療法も研究されて有効な薬の処方も開発されていきました。

ただ、古い時代において医学とは、あくまで皇室や士大夫層、富裕層のためのものでした。一般庶民が医学の恩恵に浴することなどほとんどできなかったのです。

東漢末に太平道や五斗米道が隆盛したのは、庶民がまじないまがいの治療を受けられたからです。そうした事情は清代になってもそれほど変わりません。

瘟神の害を防ぐためには瘟神を奉って鎮めるしかありませんでした。バカバカしいと思うかもしれないけれど、現代の日本でさえ、武漢肺炎の流行に際して病気平癒の祈祷が行われたり、民家に疫病除けの御札が貼られていたりといった完璧に無駄なことが行われています。

近世以前ならそうしたことはより真剣に行われていたことでしょう。

それとともに、疫病とは地上の人間に懲罰を与えるために天帝が瘟神を遣わしたせいだとも考えられるようになりました。

たまたま祈ったのと疫病が終息するタイミングが同じだったこともあったにせよ、祈祷で疫病が解決できるはずはない。そうしたときに、昔の人々はそれを神の怒りだと解釈したのかもしれません。

瘟神から王爺千歳信仰へ

日本でもかつては祟り神を祭り上げ、その強大な力を逆転させて強いご利益を持つ神様にしてしまうというようなことが行われていました。菅原道真や平将門などがいい例です。

それと同様に、福建の人々は瘟神を逆に瘟神を征伐する神として祭り上げるようになりました。これが王爺千歳信仰の始まりです。

王爺千歳には、中国で特に功績があった実在の人物などが当てられるようになりました。

例えば唐建国の功臣李大亮、池夢彪、呉孝寬、朱叔裕、范承業の5人は「五府千歳」という王爺神にされているし、西秦王爺という王爺神には唐玄宗が当てられたりしています。

それとともに、王爺千歳はそれらの偉人が死後に玉皇大帝によって任じられたという設定もできました。

民間信仰とはいっても道教の影響は受けているわけです。民間信仰だから道教ではないとは言い切れない理由もここにあります。

この設定ができると、今度はその職能が玉皇大帝より職務を委託されたものであると考えられ、瘟神を征伐する他に、地上の悪霊なども取り締まるという職能まで与えられました。

こうした玉皇大帝に代わって職務をこなすことを「代天巡狩」といいます。


台北市集義宮

「巡狩」というのは本来は皇帝が国を巡って視察することをいいます。

王爺千歳の場合は、天帝たる玉皇大帝を代理して地上を巡り、霊的空間の秩序を正す役割を与えられているのです。

王爺千歳の中でも「池府千歳」池夢彪が王爺神になった故事は、瘟神信仰から王爺千歳への移行をよく表しています。

ある夜、池夢彪は夢で一人の瘟神と出会いました。彼は玉皇大帝の勅命により、地上に疫病を広めに来たのだといいます。

そこで池夢彪は瘟神を招いて酒を振る舞います。そして、瘟神が酔った隙に、疫病のもととなる毒薬を奪い、全て飲んでしまいました。

毒薬を飲んだ池夢彪は、顔が真っ黒に変色し、目が飛び出て死んでしまいます。

酔から覚め、勅命を果たせなくなったと知った瘟神は、しかたなく池夢彪の魂を連れて玉皇大帝に拝謁します。

池夢彪の民を愛する心に感激した玉皇大帝は、池夢彪に代天巡狩の職能を与えて王爺千歳としました。

だったらなんで瘟神を差し向けたんだよというツッコミはさておき、ここに古い瘟神信仰と新しい王爺千歳信仰が同時に描かれています。


池府千歳:台北市啟天宮

日本統治によって衛生環境がよくなるまでの台湾は「瘴癘の地」と呼ばれるほど疫病が多い土地でした。ゆえに、福建移民によって持ち込まれた王爺千歳信仰は台湾でも流行します。

日本統治以後、台湾では疫病学が発達し、今現在は中国とは違い疫病はほとんど発生しなくなっています。

武漢肺炎に対する対応を見れば、台湾の防疫は世界的にトップレベルだとわかります。日本の防疫体制は台湾の足元にも及びません。

現代の台湾で疫病の原因が瘟神だなどと信じている人はいないけれど、それでもなお、王爺千歳信仰は盛んです。

王爺千歳信仰は台湾北部にも広がる

平河出版社の『道教』シリーズは、出版された1980年代当時の道教研究を網羅したもので、日本人が道教を知る手がかりとしては最適だと思われます。

ただ、それをそのまま鵜呑みにできない部分もあります。

シリーズ第1巻『道教1 道教とは何か』「道教と宗教儀礼」の項にこんな一文があります。

王爺廟の分布は、台南地方を中心に、嘉義、雲林、高雄などが多く、北部や特に東部にはほとんど見られない。

確かに台湾には「北城隍、中媽祖、南王爺」という言葉があります。

台湾の北部は城隍爺、中部は媽祖、南部は王爺信仰が強いということ。

しかし、東部はともかく台湾北部に王爺廟がほとんどみられないなんてことはありません。

台北市だけでも私が巡った廟の1/10ほどは王爺廟だし、王爺千歳が配されている廟はもっとあります。

台北南部の萬華地区で龍山寺と並んで広く信仰を集める青山宮。その主祭神の靈安尊王は本来福建省泉州の山の神様でした。しかし、台湾に将来されて以降は、日本の学者の鈴木清一郎が青山宮の靈安尊王には代天巡狩の職能があると指摘する通り、王爺千歳の属性を持っています。


靈安尊王:台北市艋舺青山宮

そもそも青山宮創建は疫病を鎮めるためだったという逸話があります。王爺千歳信仰の影響がなければ代天巡狩の職能が付与されたりはしません。

台湾北部は南部に比べると少ないというだけで、明確に王爺千歳の信仰も根付いています。

王爺廟が「北部や特に東部にはほとんど見られない」などと書いたのは松本浩一という人物です。この本が出版された1983年当時は図書館情報大学の助手で、現在は筑波大学の名誉教授だということですが、よくもまあこんないい加減なことを書けたものです。

おそらく台湾でフィールドワークを一切していないのでしょう。

だから、ちょっと台湾の道教廟を巡っただけの素人にもわかるようなことがわからないのです。

やはりフィールドワークは重要。歴史の分野でも、歴史学者が机上で史料を見てこねくり回した学説が、現場主義の考古学にひっくり返されるなんてことはよくあります。

代表的な王爺千歳

王爺千歳は、基本的には対象となった人物の姓+府千歳・府王爺という神名になっています。

台湾で特に人気があるのは李大亮、池夢彪、呉孝寬、朱叔裕、范承業から成る五府千歳です。

台北では特に朱、池、李王爺からなる三府千歳に人気があります。


台北市玉碧三王府

一方台南で人気なのが朱府千歳。同じ朱府千歳でも朱叔裕ではなく、鄭成功が当てられています。


朱府延平郡王=朱府千歳としての鄭成功:台南市三老爺宮

鄭成功は亡命政権の南明皇帝隆武帝より明朝朱家の姓を賜っています。

といってもだからといって朱府千歳に鄭成功を当てるのはいささか強引です。

あくまで推測として言うならば、清朝統治の後おおっぴらに鄭成功を祀ることができなかったので、鄭成功を朱府千歳だということにして祀ったのかもしれません。

五府千歳の他に五年千歳もあります。


五年千歳:台北市北巡代天宮

五年千歳は十二瘟王という別名から示されるように、もとは瘟神を祀る信仰でした。

十二支に対応する十二柱の瘟神が年ごとに入れ替わるという設定で、現在はその瘟神と王爺神が入れ替わっています。

5年に1度祭儀が行われるので五年千歳と呼ばれます。

特殊な例では「西秦王爺」がいます。この王爺は演劇や音楽の守り神で、もともと福建の一部の劇団が信仰していたものです。


西秦王爺:台北市啟天宮

西秦王爺は唐の玄宗だというのが定説ですが、他に唐の太宗だとか玄宗に仕えた楽官だとかいろいろ説があります。

私が思うにそれらは全て権威付けのための後付け設定でしょう。

他におもしろいところでは、包府千歳。これは宋代に実在した政治家の包拯。厳格に賄賂を取り締まり腐敗根絶に努めた人物で、朝廷では恐れられ、民間では人気がありました。


包府千歳:台北市艋舺善徳堂

といっても包拯が王爺千歳になっているのはそのためではなく、包拯死後にいろいろ盛られた「包公故事」で民間でより人気が高まったからです。

いわば、現実の大岡忠相ではなく、フィクションの「大岡政談」で人気が出た大岡越前を祀ったものだとも言えます。