鸞堂恩主信仰

台湾の信仰文化の中で大きい勢力を占めるのが「鸞堂」です。
行天宮や指南宮など多少台湾に詳しい人なら知っているはずの廟も鸞堂の系譜を引きます。
鸞堂は元々扶乩(扶鸞)という道教の占いから発展しました。
中国では弾圧されたため、現在では台湾が鸞堂の中心となっています。
なおどこかで「鸞堂(一貫道)」としてある記事を見たことがありますが、鸞堂信仰と一貫道はまったく違うものです。
扶乩とは?
『山海経』には、西王母が杖をついて三羽の青い鳥に食べ物を運ばせていたという記述があります。
この青い鳥が、後に鳳凰の一種「青鸞」だとされました。
扶乩は道教の神降ろし占いです。
伝説によれば、神農の時代に西王母から地上につかわされた青鸞が、天界の秘密をぺらぺら漏らしていたので、鴻鈞老祖という仙人に捕まり、その嘴を奪われてしまいました。
そのせいで神意を知ることができなくなった地上の人間は、青鸞をかたどった木彫りの鳥を作り、そのくちばしに筆がわりの柳の枝をつけて、神霊を降ろして神意を伝えてもらうことにしたといいます。これが扶乩です。
周の平王が西周を滅ぼし東周を興せたのは扶乩で神意をはかったおかげとか、漢の明帝の時代に文昌帝君の17世の転生を称する士大夫が黄帝、老子、孔子を祀り『黄庭経』を念じて扶乩を行っただとかいう話もあります。
もちろんこれは信憑性のない話で、扶乩を行う教団がその権威付けのために作った話でしょう。
『後漢書』方術列伝には、道教成立以前の東漢代に活躍した方士たちが列挙されています。
その中には占いをよくしたとされる方士も多いです。しかし、方術列伝に記されている占いは風角という風の方角や強さを用いる占いや、占星術などで、扶乩らしき占いの記述はありません。
扶乩は、東晋のころに天師道から分派したと言われる上清派が伝えてきました。
上清派は魏華存という女性道士を始祖とします。ただ、実際には第2代の楊羲が扶乩により三茅真君と魏華存にお告げを受けたと称して始めた宗派です。
もともと中国南方に扶乩に類する占いがあったのか、楊羲が作ったのかは不明だとはいえ、歴史上扶乩を実際に行ったとされているのは楊羲からだと言えます。
現在行われている扶乩は、まず砂を敷いた枠を用意します。そして西王母の杖をかたどった木の棒「乩筆(鸞筆)」を持ち、青鸞の到来を待ちます。筆がわりの木は青鸞が止まるためのものでもあります。もちろん青鸞は見えません。霊的存在です。
神降ろしと書いたけれど、正確には神様そのものを降ろすのではなく、天界の神様からのメッセージを青鸞を通して伝えてもらうという形です。
術者が青鸞から神意を受け取ると、棒は勝手に動き出して詩文の形でそれを伝えます。
こういうのは思い込みが大切なので、術者本人は本当に神意に従って自動筆記したと思っているんじゃないでしょうか?
扶乩から発生した鸞堂
その扶乩から鸞堂、もしくは鸞門という信仰が発展しました。
これは、扶乩によって神様や先賢の霊を降ろしてその教えを賜り、それによって天に代わって民を教化し、世直しをしようというものです。
とはいえいつごろ生まれたものなのかさっぱりわかりません。
鸞堂では教えを賜るべき神明を「恩主」を信仰します。
関聖帝君、孚佑帝君、司命真君を「三聖恩主」とし、三聖恩主に加え、文昌帝君、玄天上帝を加えて「五聖恩主」とされ、他に太上老君や観世音菩薩、そして青鸞の飼い主である西王母も信仰されます。
中華人民共和国成立後は世を乱す迷信だとして弾圧されました。
これは、神意をはかるという占いの形式が反政府活動に利用されることを恐れたからですね。中国共産党がガラスハートの繊細さんだというのは周知のことです。
台湾の鸞堂
鸞堂恩主信仰を台湾に伝えたのは李望洋という人物です。
李望洋は清朝統治時代の台湾に生まれました。おじいさんが中国出身の移民で、客家に属します。
清朝統治時代末期に役人試験に受かり、中国北西部の甘粛に知県として赴任しました。
1890年、故郷の宜蘭に戻ると、師爺つまり師匠の師匠にあたる柯錫疇のお母さんが病気を患っていたので、恩主を請来して効く薬の教えを請うことを提案。
扶乩によってその病気に効果がある薬を教えてもらった結果病気がよくなりました。
さて、ここでいくつか推測できることがあります。
まず、この時点で台湾には鸞堂信仰はありませんでした。師爺のお母さんが病気になっているのは台湾に戻ってからのはず。
多分鸞堂の鸞生(道教でいう道士)や扶乩の術者を連れてきてはいませんでした。
正一道系道教にも扶乩はあります。ただ、正一道では神様を恩主とは呼ばないし、このとき扶乩を行ったのが正一道の道士だったら、李望洋は鸞堂の布教をしなかったはずです。
そこからわかるのは、李望洋自身が甘粛で鸞堂を信仰し、扶乩の技術を修めていたのではないかということです。
これをきっかけに、李望洋は病気の治療に効果があったことを知った宜蘭の人々に請われて新民堂を建て、布教を始めたといいますから、李望洋自身が鸞生だった可能性は高いです。

宜蘭市新民堂
やがて台湾が日本に割譲され、日本軍が侵攻して来ました。上で話がついたことではあっても、それは現地住民の頭越しで行われたことだったので当然抵抗勢力が発生します。
抵抗勢力は主に2つ。単に中央の命令で台湾に赴任していた役人や軍人、そして元々の住民だった原住民や台湾に根を降ろした移民。
赴任してきただけの勢力は多少抵抗してみたものの即中国に逃亡しました、しかし原住民や移民はかなりねばり、日本軍を苦しめました。
そんな中、李望洋は信徒とともに宜蘭の治安維持に努めたので、総督府からの覚えもよかったようです。
儒宗神教を名乗る
さて鸞堂はそのころの台湾では「降筆会」として活動していました。
1919年になると台北の楊明機が「儒宗神教」を提唱し、1937年にはそれが鸞堂の正式な名称になりました。
つまり道教ではなく儒教の系統の神学であるということですね。
これには明確なきっかけがあります。
1915年、台南の王爺廟「西来庵」の信徒・余清芳が扶乩によって王爺神「五福大帝」のお告げを受けたとして、武力蜂起して抗日運動を行いました。いわゆる西来庵事件です。

五福大帝:台南市全台白龍庵
扶乩はもともと上清派の占いですから、それ以降の正一道にも受け継がれており鸞堂の専売特許ではありません。
これ以降、総督府は扶乩への警戒を強めました。
台湾総督府は、明治に行われた廃仏毀釈や、その後中国の文革期に行われたようなドラスティックな宗教弾圧は行っていません。
しかし、寺廟整理と称して廟や神像を破壊したり、道路工事と称して廟を接収し補償しなかったり、新しい廟の建築をなかなか認めなかったりなど実にいやらしくネチネチとした弾圧を行っていきました。
そんな中で、儒教の系統を名乗ったのは、弾圧を避ける目的もあったのではないかと思います。
儒宗神教を名乗って以降は、表向きは四書五経を学ぶ場として面従腹背し、総督府が行ったアヘン撲滅運動に協力するなどして恭順を示していました。
現在の鸞堂
現在台湾には鸞堂の廟が多く、すでに挙げた行天宮や指南宮の他、松山慈恵堂などが有名です。
台湾の鸞堂では主に関聖帝君、孚佑帝君、司命真君の三聖恩主に豁落靈官王天君と岳武穆王を加えた五恩主が主祭神として祀られています。

台北市行天宮
西王母を祀る鸞堂の廟も多いです。

西王母:台北市醒心宮
ただし、現在の鸞堂にはだいぶ正一道の影響も浸透してきています。もっとも鸞堂も正一道も元をたどれば同じ天師道です。
実際台湾の鸞堂の廟が他の正一教系統の廟と明確な違いがあるというわけでもありません。
台北郊外の指南宮はもともとは呂恩主孚佑帝君を祀る廟でした。でもその後、もともとあった純陽殿以外に凌霄宝殿を建て、玉皇大帝を中心とした神々を祀っており、また「中華道教学院」を併設しています。
もう儒宗神教を名乗ってごまかす必要はないので、道教に回帰しているということなのかもしれません。
ある程度知識がなければ、どこが鸞堂でどこが正一道なのか見分けはつかないでしょう。






