道教の神々:太上老君

太上老君は道教の中ではかなり位が高い神様です。
正式な神名は「一炁化三清太清居火赤天仙登太清境玄氣所成日神寶君道德天尊混元上帝」。
道教の最高神・玉皇大帝よりも位が高い三清の一柱道徳天尊でもあります。
最高神より位が高い神様がいる事情については↓に書いてあるのでそちらを御覧ください。
太上老君は老子の神格化として生まれ、その信仰の高まりによって、逆に老子のほうが太上老君の化身として現世に現れたのだとする考え方まで生まれました。
老子
老子は紀元前に無為自然を説いた思想家です。
『史記』列伝に「老子は160余歳あるいは200余歳とも言われ、道を修めて生命を養った」とあり、司馬遷の時代にはすでに伝説的な人物だったことがわかります。
「李耳は無為をもって自ら化した」とも記されるので、この時点で仙人になったというイメージもあったかもしれません。
老子は史書に記載があるとはいっても、老子著とされる思想書が残されるのみで、明確に実在したという証拠はないのです。
老子については、そもそも実在したか否か、そして実在したとしたらいつの時代の人物だったのか、現在に至るまで諸説紛々で、つまりは実在しなかった可能性も高いです。
とはいえ、その思想を最初に提唱した人がいるのは確かなので、その人物を老子ということにしても問題はないでしょう。
大雑把に言って『史記』の200年から300年後ぐらいに著されたと考えられる『列仙伝』には、老子が仙人の一人として記載されています。とはいえその内容は『史記』のものとほとんどかわりはなく、単に『史記』に常識はずれに長生きだったと記されていることだけを根拠に入れている雰囲気があり、この時点ではまだ信仰の対象となっていたようには思えません。
漢代には老子は不老ではなくとも長寿であったという認識が伝えられていただけだったようです。
後の時代に葛洪は『抱朴子』に
老子以長生久視為業
老子は長生久視を業となしたと記しました。
実際のところ老子は別に不老長生を説いたわけではありません。その内容の多くは、道と一体化した聖者が無為自然の治世を行うことを理想としており、儒教へのカウンターとして作られた思想と考えられます。
ただ、『老子』には解釈のしようによっては長生を説いたと思える部分もあります。
例えばこうあります。
致虚極 守静篤
虚を極めれば静は篤く守られる。
夫物芸芸 各復帰其根 帰根曰静 是謂復命
万物が生い茂り、それぞれその根本に帰るのが静であり、それが復命である。
これは、自らを虚とすることで天地の根本である道と一体化するのが「静」であり、それが命を復すことであるというような意味です。
老子は積極的に自ら動くより、消極的に身を処して天地の働きに従うことを説きました。
風を送るふいごはその中が虚であるから風を起こすことができ、天地は虚であるから万物を生み出すことができるというのが老子の考え方で、ゆえに天地と一体になるには虚であることが必要なのです。
しかし、神仙道、道教の立場から、虚を極めれば天地の根本である道に帰ることができるとは、寿命も天地とともにすることであると解釈することも可能です。
知人者智 自知者明 勝人者有力 自勝者強 知足者富 強行者有志 不失其所者久 死而不亡寿
人を知るのが智である。自ら知るのが明である。人に勝つ者は力があり、自ら勝つ者は強い。足るを知るのが富であり、その道を強く進むのが志である。それを失わない者は生きながらえ、死して失わないのが長寿である。
なんていう章もあります。このへんはちょっと無為自然を説く老子っぽくないと思うわけですが、「不失其所者久」は河上公の注釈によれば自ら節制して養うことができれば、天の精気を失わず長生きできるという意味で「死而不亡者寿」は、目は妄視せず、耳は妄聴せず、口は妄言せずにいれば、天下に恨むものはおらず、故に長寿であるという意味だとか。
素直に受け止めれば、自らを養い、事実ではないことをうがった目で見たり、聞いたことを勝手に曲解したり、妄言を吐いたりしなければ、心も体も平穏で寿命を全うできると言っているのだと思います。
ただ、このへんも不老長生を得ることと曲解することはできるでしょう。
「死而不亡者寿」は河上公の解釈では感覚を死なせてなお自らを失わない者が、本来あるべき寿命まで生きられるという感じだと思いますけれど、神仙道のフィルターを通せば死んでも魂を失わなければ長寿の仙人になれると解釈できるかもしれません。
まあ『老子』自体解釈しだいでどうとでもとれるし、余計なことをしないで寿命を保つことを説いたりもしていますから、老子がこれによって長寿を得て仙人になったと受け取る人が出るのもしかたがないことだったかもしれません。
老子の神格化
老子が実在したかはこの際どうでもいいことです。なぜなら、その名前と思想だけはしっかり伝わっているからです。
その名前と思想さえ伝わっていれば、あとはそれを崇拝する人によって神格化される準備はできていると言えます。
老子を神格化したのはおそらく天師道です。
現在の正一道では、五斗米道の創始者・張道陵は、太上老君により「三天正法」を授けられ、天師を名乗ったとされています。
ただ、それはかなり後の時代に作られた設定です。
張道陵、もしくはその孫の張魯の著とされる『老子想爾注』では、老子の思想を宗教的に歪めて解説してはいるものの、この中では老子自体を崇めたり神格化したりはしていません。
三国時代ごろの五斗米道では、老子は先人として敬われることはあっても神様として祀られてはいませんでした。
ただ、現在伝わっている『老子想爾注』にはこんな部分があります。
一散形為氣 聚形為太上老君
一は形を散じて気となり、形が集まれば太上老君となる。
ここで言う「一」は、天地の法則である「道」であるとされます。それが世界に広がったものが気であり、「道」が凝縮すると太上老君という神となるということです。
この一文は太上老君という神様が作られた後に挿入されたもので、三国時代にはなかったはずの一文です。原本が記された時代にすでに太上老君への信仰があったなら、もっと頻繁にその名が出てくるはずです。
葛洪の『神仙伝』には、張道陵と老子の関わりが記されています。
ただし、その表現は『神仙伝』のバージョンによって違います。
平凡社の『列仙伝・神仙伝』(澤田瑞穂訳)ではこうなっています。
こうして精神の練磨につとめていると、忽然として天人が降った。それは無数の騎馬、黄金の車に翡翠の羽を飾った車蓋、竜虎に駕して、その数は限りなく、柱下の史と自称するものもあれば、東海小童と称するものもあった。かくして道陵に新作の正一明威の道というのを授けた。
『神仙伝』より少し前に著された皇甫謐の『高士伝』では、老子は周の柱下史とされていますから、ここにある「柱下の史と自称するもの」はつまり自分は老子だと匂わせていたということになります。
このバージョンだと、たくさんの天人のうちの一人が老子を匂わせる発言をしていただけです。
しかし、別バージョンだと
於鶴鳴山隱居 既遇老君
となっています。
上述の『列仙伝・神仙伝』では、訳者の澤田氏がこう解説しています。
直言すれば、現行本は全十巻というトータルだけでは旧のままであるが、その内容たる仙人の顔ぶれ・員数・排列・文章などに関しては、真贋あい半ばし、精粗あい雑じり、新旧あい混じて、到底葛洪原作の旧本のままとは考えられない。
平凡社版の底本も、葛洪が書いたそのままではないと言いたいのでしょう。
とはいえ、バージョンとしては平凡社版のほうが古いはずです。
なぜなら、同じ『神仙伝』で葛洪は老子を神とすることに反対しているからです。
平凡社『列仙伝・神仙伝』(澤田瑞穂訳)の『神仙伝』にある老子の部分を引用します。
老子はもと人霊だったのである。それを見識浅い道士どもが、老子を神秘化しようとした結果、後世の学者がこれに追随して、それがやがては長生の道が学び得られるものであることを信じないようにさせるということに気づかなかったのである。なんとなれば、もし老子をば得道者であるというならば、人々はきっとそれを目ざして努力し、競いあうであろう。もしそれが神霊異類であったというならば、学び得るものではなくなるからだ。
葛洪は人間が金丹を練り上げて服用すれば仙人になれると信じていました。
『神仙伝』に記しているぐらいだから、葛洪も老子を仙人だとは思っていたのでしょう。しかし神だとは思っていませんでした。
葛洪にとって、老子は神様ではなく努力の末に得道して仙人になった人でなければならなかったのです。
その葛洪が、老子を神格化された太上老君とするはずはありません。
この記述からは、すでに葛洪が生きた晋代には老子の神格化が始まっていたことがうかがわれます。
ここで糾弾されている「見識浅い道士ども」は天師道を指すと思われます。
天師道ではまず創始者の張道陵を神格化しました。その神格化された張道陵に道を授けたのは、これまた神様でなければなりません。
かくして天師道では老子はその思想を学ぶものではなく、神様として信仰する存在となったわけです。
「既遇老君」とあるバージョンは当然太上老君という神名が作られてからのものです。
おもしろいことに、張道陵の項に「既遇老君」と記述されているバージョンの『神仙伝』からは老子の項が削除されています。
これは、葛洪の考え方で老子が神様ではないと否定されるのは都合が悪い天師道が意図的に削除し、そして張道陵の項では老君と出会ったと改竄した結果ではないかと思います。
太上老君の誕生
正直な話老子を太上老君という神様に仕立て上げたのが誰かはわかりません。
候補として挙げられるのは、新天師道を創始した寇謙之です。
寇謙之はだいたい葛洪の100年ほど後に活躍した道士です。北魏の第3代皇帝太武帝からの信任篤く、国師となっています。
寇謙之の事績は北魏の歴史を記した『魏書』釋老志に書いてあります。
それによれば
謙之守志嵩岳 精專不懈 以神瑞二年十月乙卯 忽遇大神 乘雲駕龍 導從百靈 仙人玉女 左右侍衛 集止山頂 稱太上老君
謙之が嵩山で志を守り怠らず専心していると、神瑞2年(西暦415年)の10月に大神と出会った。雲に乗り龍を駕し百霊と仙人や玉女、左右の侍衛を従えて山頂に集まり太上老君と称した。
そして寇謙之は太上老君より天師の位を授けられたと言っています。
このシーン、平凡社版『神仙伝』にある張道陵が山で修行中に天人と出会ったシーンと似ていますよね。
似ているというよりそれをパクった話をでっち上げたのだと思います。
天師位は本来張道陵の子孫の張家の道士が受け継ぐものです。家系という資格を持たない寇謙之は、張道陵のエピソードをパクって神託を得たと言い張ることで天師を名乗る正当性としたのです。
「太上老君」は、天師道によって神格化されていった老子を明確に神様として祭り上げ、自分が天師道の長となるために寇謙之が作った神格なのかもしれません。
あるいは『神仙伝』から老子の項を削除し、張道陵が老君と出会ったと改変したのも寇謙之だった可能性もあります。
それまでに老子に対する信仰が生まれており、国師までになった道士が奉じた神ですから、主に中国北部で太上老君への信仰は広まりました。
道教の最高神となる
太上老君が北方で作られたのに対し、南方では元始天尊の設定が作られて最高神に据えられていました。
中国が南北に分かれていた時代、それぞれの神はそれぞれの地域で信仰されていました。
寇謙之より微妙に後の時代、南朝で上清派の道士として活躍していた陶弘景は、神々のヒエラルキーを記した『真靈位業圖』を作り、上清派の経典である『霊宝経』で作られた元始天尊を最上位に、上清派が信仰していた玉晨玄皇大道君を第二位に、太平道の主祭神だった太極金闕帝君を第三位に、そして太上老君を第四位に置きました。
こうして神々に序列をつけたのは、自分たちの宗派が最上で、他の宗派はその下であると示す意図があったのでしょう。
隋を経て唐が中国を統一すると社会は安定して文化が発展しだします。
唐朝は、同じ李姓の老子を祖先だということにして、道教を国教に定めて優遇しました。
老子の思想と道教は別物だというのは現代人のツッコミであって、天師道が老子を神格化したおかげでそれより後老子は道教の創始者ということになっていました。
そうした中で『真靈位業圖』をもとに神々の設定が整理され、なんでか太極金闕帝君が省かれて太上老君が格上げされ、元始天尊、玉晨大道君、太上老君の三柱が、道教の最高神である「三清」としてまとめられました。
宋代に玉皇大帝が天帝に格上げされるまでは、三清が名実ともに道教の最高神で、玉皇大帝が天帝になって以降は三清は顧問のような立場となり、天庭の支配序列としては玉皇大帝が最上位、三清はそうした序列を超えた立場として、最高神の玉皇大帝より偉い神様ということになっています。
道教の最高神として信仰されるようになると、老子のほうが太上老君の化身の一つだとされる逆転現象が起きます。
『西遊記』だと太上老君は三十三天の上にある兜率宮に住み、八卦炉で不老不死になる金丹を練っています。
『封神演義』には太上老君ではなく老子として登場します。といっても「話説元始見太上老君駕臨」と、太上老君と記述されている部分もあり、人間の老子ではなくあくまで太上老君として描かれています。仙山の大羅宮玄都洞八景宮に住み、登場するときは青い牛に乗って来ます。
なぜか元始天尊の兄弟子とされていて、元始天尊は老子を「道兄」と呼んでいますね。
まあ『封神演義』には実際の道教の設定をかなり無視した独自設定が多いです。
実際の道教信仰では、三清の一柱として祀られる他、三教合一を表すため、道教の創始者である太上道祖として、釈迦如来、孔丘とともに並べられていることもあります。
場合によっては、太上老君と老子が別々に祀られていることもあります。


上・三清道祖の道徳天尊として祀られる老子、下・三教教主の太上道祖として祀られる老子:台北市松山慈祐宮







