道教の神々:孚佑帝君 呂洞賓

道教は古代中国のシャーマニズムやアニミズム、あるいは呪術やどこかの地方の土着の信仰、それに黄老の学や戦国時代から西漢のころに活躍した様々な方士の術などが混ざり合ってできた闇鍋のような宗教です。
元々神と仙人は別のものでした。神話に登場する人物や過去の偉人などを祀りあげたものが神、仙薬を飲んだり特定の修行を経てなるのが仙人です。しかし、道教はその成立→発展の過程で中国各地で信仰されていた神々を吸収したり、新しい神を作り出したりするのと同時に、仙人も神のように祀るようになっていきます。
さらには、神もまた羽化登仙した存在であるという設定を付け加えていきました。玉皇大帝や玄天上帝、天上聖母など羽化登仙により神になったとするストーリーが用意されている神も多いです。
確かに神と仙人は出だしは別のものだったけれど、現在では神と仙人の間に明確な線引きはありません。
孚佑帝君呂洞賓もまた、仙人かつ神として信仰もされている存在です。
呂洞賓は実在の人物?
宋代の范致明が撰したという『岳陽風土記』に呂洞賓の記述があります。
ちょっと長いけれど引用します。
岳陽樓上有呂先生留題云 朝遊北越暮蒼梧 袖裏青蛇膽氣麤 三入岳陽人不識 朗吟飛過洞庭湖
今不見當時墨跡 但有刻石耳
先生名岩字洞賓河中府人唐禮部尚書渭之孫 渭四子溫恭儉讓
讓終海州刺史 先生海州出也 會昌中兩舉進士不第 即有棲隱之志 去遊廬山 遇異人授劒術 得長生不死之訣
岳陽楼の上に呂先生が残した詩がある。曰く「朝には北越で遊び、日暮れには蒼梧にいる 袖の中には青蛇がいて胆力は盛ん 三度岳陽に入っても人は知らず 朗らかに吟じて洞庭湖を飛びすぎる」
今は当時の墨跡は見えず、しかし石に刻んである。
先生の名は岩、字は洞賓。河中府の人手礼部尚書呂渭の孫。呂渭には溫、恭、儉、讓の4人の息子がいた。
そのうち讓は最終的に海州の刺史となった。呂先生はその海州で生まれた。会昌のころ2度進士の試験を受けるも合格できず、隠棲しようと廬山に赴いたところ、異人と会って剣術を授かり、長生不死の秘伝を得た。
というような内容。冒頭の詩の部分の訳は適当なので合っているかどうかわかりません。
岳陽は現在の湖南省にある地名。中国で2番目に大きい淡水湖である洞庭湖の東沿岸に面しています。戦国時代に屈原が入水自殺したという汨羅江も洞庭湖に流れ込みます。
岳陽楼は同じ『岳陽風土記』に
岳陽樓 城西門樓也
と説明されています。岳陽楼の歴史は古く、孫権と劉備の同盟を主導した魯粛が築いた閱軍楼を礎として南北朝のころに楼閣にされたといいます。数々の詩人が詩の中に記していますが、中でも唐の杜甫が岳陽楼にて安史の乱の余波でなお戦乱が続く世を嘆いた『登岳陽楼』が有名です。
昔聞洞庭水 今上岳陽樓
吳楚東南坼 乾坤日夜浮
親朋無一字 老病有孤舟
戎馬關山北 憑軒涕泗流
昔に洞庭湖の話を聞いたことがあるが、今まさに岳陽楼からその洞庭湖をながめている
呉と楚は洞庭湖によって東と南に分けられており、天と地は日夜湖水に浮かんでいるようだ
家族や友からは一字の知らせもなく、老いて病の私は一人船で漂うばかりだ
岳陽楼に軒によりかかりながら、いまだ異民族が北方を騒がしていることを思うと涙が流れてくる
この詩が作られたころは、すでに安史の乱自体は鎮圧されていたものの、各地で乱が起こったり吐蕃のような騎馬民族が暴れたりと平和とは程遠い状態でした。
さて、『岳陽風土記』で呂洞賓の祖父とされている呂渭は実在の人物です。『旧唐書』に越州刺史、浙江東道節度使だったと記されています。『旧唐書』には溫、恭、儉、讓の名も記されており、父とされる呂讓も、東宮の側近である太子右庶子になったと記されているので、ここまでは実在と見ていいでしょう。
しかしそれ以降のことは史書には見えません。果たして呂讓の息子の呂岩(もしくは嵒)なる人物が本当にいたのかは不明です。実際その時代に科挙に2度落ちた息子がいて、それが呂洞賓のモデルになった可能性もなきにしもあらずです。
『岳陽風土記』の記録からわかるのは、すでに北宋のころには、不老長生の術を得た呂洞賓という仙人のイメージが確立していたということです。
呂洞賓の設定の変遷
南宋のころに成立した志怪小説集『夷堅志』には呂洞賓の名前が多く見られます。
その中に『岳陽呂翁』というエピソードがあります。
丘陽守の章騆なる人物が呂公祠宇にお参りに行ったところ、神像が黒くくすんでいたので修復を命じた。するとその夜家族の夢の中に「仙者」を名乗る人が現れ、家族が「どうして仙人なのに天におらず地上にいるのですか?」と問うと「私は地仙だ」と答えた。そこで役人の宿舎に『呂公金丹秘訣』を彫らせた。
前後のつながりがよくわからないけれど、古い時代の志怪小説にはよくある起承転結が定まっていないスタイルです。
それはそれとして、このエピソードから南宋のころにはすでに呂洞賓の廟が建てられ、信仰の対象になっていたことがわかります。
で、『呂公金丹秘訣』では呂洞賓の自序として「紫微洞天純陽真人」を名乗っていたとあります。なお『呂公金丹秘訣』は実在が疑わしい書物です。
宋代は天師道が隆盛を極める時代でしたが、同時に内丹法が発展していく時代でもありました。呂洞賓は内丹派の始祖とされる仙人ですから、宋代の内丹派道士が呂洞賓を「紫微洞天純陽真人」として祀っていた可能性も考えられるでしょう。
純陽真人は現在でも呂洞賓の別名として使われています。
本来陰陽説では「純陽」はありえません。太極とは陰陽が対立しつつ転変し、バランスを取っている完成状態です。陰陽どちらかが欠ければバランスを失い崩壊します。
中医学では人が陰陽のバランスを崩した状態は病気だと考えます。そして、陰気を失った状態=純陽を「格陰」と呼びます。「格陰」のような状態はめったに出ることはなく、もし「格陰」の状態になり陰気を回復させられなければ死の危険もあります。
しかし神様であればそうした人間の法則は適用されません。呂洞賓を純陽の真人だとしたのは、単なる仙人ではなく神として信仰していたからではなかろうかと思います。
時代は下り元の成宗、つまりクビライ・カーンの孫のテムルのころに撰せられた『唐才子伝』ではこうなっています。
巖字洞賓京兆人 禮部侍郎呂渭之孫也
咸通初中第 兩調縣令
更值巢賊 浩然發棲隱之志 攜家歸終南 自放跡江湖
先是有鐘離權字雲房 不知何代何許人 以喪亂避地太白 間入此閣 石壁上得金誥玉籙 深造希夷之旨 常髽髻 衣槲葉 隱見於世
巖既篤誌大道 遊覽名山至太華遇雲房知為異人拜
以詩曰
先生去後應須老 乞與貧儒換骨丹
雲房許以法器 因為著靈寶畢法十二科悉究性命之旨
坐廬山中數十年 金丹始就 逢苦竹真人 乃能驅役神鬼
巖、字洞賓、京兆の人、礼部侍郎呂渭の孫である。
唐の懿宗の咸通のころ科挙に合格し、県令を2期務めた。
黄巣の乱の時に隠棲しようと終南山に帰り、江湖に足跡を残す。
鍾離権、字雲房という先人がいた。いつの時代の人かは分からないが戦乱を逃れて太白におり、ここの家にひっそりと暮らして石壁の上で金誥玉籙を得て、霊芝の扱いに造詣が深かった。常に髷を結い、槲の葉っぱを衣にした世捨て人だった。
すでに大道をめざす志を立てていた巖は名山を遊覧して太華にいたり雲房と出会って、異人と分かったので弟子入りを願った。
詩に曰く
先生が去ってしまったら私はすぐに老いるでしょう だから私は先生についてこの貧儒の体を丹に作り変えたいのです
雲房は道術を学ぶのを許した。『靈寶畢法十二科』を著して生命の理を十分極めていたためだ。
廬山の中で座ること10年、金丹は成就し始め、苦竹真人に出会って神鬼を使役できるようになった。
だいぶ意訳気味に訳しています。
異人は日本語の外国人を指す異人さんではなくて、常の人とは異なる人を指します。要するに仙人です。
『唐才子伝』は『岳陽風土記』の200年ほど後の書物で、200年の間に呂洞賓の設定もだいぶ変わりました。
まず河中府=現在の山西省の出身とされていたものが、京兆=現在の西安の出身に変わっています。ここで京兆出身となったことが、さらに後の設定に影響します。
また、科挙に落ちて隠棲することにした設定が、科挙には合格していて県令を務めてから隠棲することにしたことになりました。
そして最も大きな違いは『岳陽風土記』ではただどこの誰とも知れない「異人」に剣術と不老長生の術を教わったとなっていたのが、鍾離権に弟子入りしたとなっていることです。
『夷堅志・岳陽呂翁』で『呂公金丹秘訣』からの引用という形で描かれてる呂洞賓の生涯には、仙術の師匠を「尊師」と呼ぶ部分はあるものの、鍾離権の名はまだ見られません。
鍾離権は呂洞賓と同じく宋代に作られた仙人のキャラクターです。少し調べた限りでは成立は呂洞賓より後です。それが北宋のころには明確になっていなかった呂洞賓の師匠に抜擢されたのでしょう。
鍾離権が呂洞賓の師匠キャラとして定着してから後、さらに新しい『呂洞賓黃梁一夢』という物語が作られました。いろんなバージョンがあるので最大公約数的に大雑把に説明するとこんなんです。
呂洞賓が京兆府、つまり長安の酒屋で酒を飲んでいると、そこである道士と出会いました。道士は呂洞賓に仙道の修行を勧めるものの、呂洞賓は科挙に合格して栄達する夢があるからと断ります。
道士は気にするでもなく黄粱を炊き始めました。昔は食事を自分で煮炊きして作れる店もあったのでしょう。
その間呂洞賓は居眠りして夢を見ます。
夢で呂洞賓は科挙に合格し、出世を果たして家族にも恵まれます。ところがせっかく栄華を極めたのに、讒言によって罪に問われて家財を没収され、一族郎党斬首されてしまいます。
呂洞賓がはっと目を覚ますと、道士の黄粱はまだ煮えておらず、現実ではごく短い時間が過ぎただけでした。
そこで呂洞賓は栄達と破滅は紙一重であることを悟り、道士に弟子入りを申し込みます。
この道士こそが鍾離権です。鍾離権は呂洞賓に10の試練を与えます。そして試練をすべてクリアして、鍾離権の弟子となり仙人になりました。芥川龍之介の『杜子春』では、主人公の杜子春が最後の試練で失敗してしまうけれど、呂洞賓は失敗しなかったわけです。
中国の西安市にある勅建萬壽八仙宮は、鍾離権と呂洞賓が出会った宿があった場所だと主張しています。

西安市勅建萬壽八仙宮:1995年に撮影した写真をキャプチャ
でも、このエピソード実は唐代に書かれた小説集『唐人傳奇』に収録された『枕中記』のパクりだということがわかっています。パクりが言い過ぎなら翻案です。
元ネタの『枕中記』を大雑把に紹介するとこんな感じ。
唐玄宗の開元のころ、呂翁という道士が邯鄲の宿に席を設けて座っていると、盧生という少年がやってきて「大丈夫がこの世に生まれてこううまくいかないなんてどうなってるんだ…」と嘆きました。
それを聞いた呂翁が「おまえさんは肌に張りがあって体も丈夫そうなのになにを嘆くんだ」と問いかけると「功名をあげ、偉くなって家を栄えさせたいのに、私は志だけあっても田畑で働くことしかできないのです。これがどうして嘆かないでいられるでしょうか」と答えました。
そのとき、店では主人が高粱を蒸し出しました。その横で呂翁は枕をとりだし「これは君の志を叶えてくれる枕だ」と盧生に渡しました。盧生はその枕に頭を乗せて眠ります。
盧生は夢を見ました。夢の中で盧生は有名な一族から嫁をもらい、進士に合格して役人として出世していきます。吐蕃を相手に大勝し、功名をあげて朝廷の中枢にまで登りつめました。ところが誣告によって罪を被せられ投獄されます。盧生は自害しようとするものの妻に助けられ、数年の後許されて中書令として政界に復帰。それから後はトントン拍子で出世して、子や孫に恵まれるのでした。
最終的に太常丞まで登りつめた盧生は老齢を理由に退職を申し入れるも許されず、やがて病気になって臨終を迎えます。臨終にあたり皇帝からこれまでの功績を称える詔をいただいた盧生は生涯を終えました。と、いうところで盧生は目を覚まします。横には呂翁がおり、黄粱はまだ蒸し上がっていない。盧生は呂翁に「人生などそんなものだよ」と諭され、栄達を求めるはかなさを知って去っていきました。
これは日本でも「邯鄲の枕」だの「邯鄲の夢」だのと呼ばれて広く知られている物語です。
元代の全真教の道士がまとめた『金蓮正宗仙源像傳』の純陽子、即ち呂洞賓の項では
枕授盧生
としていて、ここに出てくる呂翁が呂洞賓だと主張しています。だとしても『呂洞賓黃梁一夢』とは立場が逆です。
ちなみに大丈夫というのは日本で意味が歪められた日本語のだいじょうぶではなく、本来の意味での大丈夫です。
おそらく誰かが『枕中記』と『杜子春』を合体させて呂洞賓の弟子入り物語を作ったのだと思います。『杜子春』といっても当然芥川の翻案小説ではなく、唐代に成立した『玄怪録』にある元ネタのほうです。元ネタのほうでも杜子春は失敗するのに対し、呂洞賓は試練をクリアします。もっとも杜子春に与えられた試練より呂洞賓に与えられた試練のほうが多少マイルドにはなっています。
栄辱は紙一重である。だからそんなものは求めず無為自然に道と一体化することこそ正しい生き方だ。という思想は、道教というより荘子の考え方です。もっとも、この話が考えられたころには思想書としての『荘子』も『南華真経』として道教に取り入れられていました。
仙人から神へと
『岳陽風土記』が書かれた北宋のころは、呂洞賓の名前がある程度広まっていたとはしても、信仰されていたかどうかまではわかりません。しかし、『夷堅志』には呂洞賓廟の記述が見られるので、『夷堅志』が作られた南宋にはもう信仰の対象になっていたことがわかります。
北宋末、道教オタとして知られる宋の徽宗が呂洞賓を「妙道真君」に封じているので、南宋になる以前から呂洞賓信仰は広まっていたかもしれません。
『夷堅志』は民間に伝わる説話や不思議な物語などを収集して作られた志怪小説集です。その中には、例えば昔呂洞賓と出会ったことがある木の精霊の話、呂洞賓が作ったと称する方術を使う人の話などが収録されており、呂洞賓の絵だの呂真人の像だのといった小道具もいろいろ出てきます。このことからも呂洞賓が当時人気だったことがわかります。
呂洞賓が単なる仙人ではなく神として信仰されるようになったのは全真教の影響が強いように思います。
全真教は金の領土に生まれた道士・王重陽が興した内丹派の道教宗派です。金は北宋を侵略して宋の版図の北半分を占領した女真族の国です。
内丹派の道教といっても、王重陽の時代の全真教は禅宗の影響が強く、三教合一を標榜していたので、王重陽としては道教宗派ではなく、儒仏道を統合した新しい宗教を創始したつもりだったかもしれません。
王重陽はある道士に道を授けられ、その道士が呂洞賓だったと称しました。ゆえに正式には全真教の始祖は王重陽ではなく呂洞賓になっています。
南宋では天師道が威勢を誇っていましたが、金では全真教が少しずつその勢力を広げていきました。
特に王重陽の直弟子で七真人と呼ばれる道士のうち、丘長春の名声は高く、チンギス・カンの招聘を受けて現在のアフガニスタン方面まで謁見に赴いています。
モンゴル帝国が南宋を滅ぼして元朝を建てた後、世祖クビライ・カーンはチベット仏教を国教と定めたため、天師道は勢いを失って野に下りました。しかし全真教はチンギス・カンとの縁から保護を受け、さらに勢力を広げています。
『金蓮正宗仙源像傳』には、クビライが全真教の五祖と七真人に賜った封号が記されています。その中で呂洞賓には純陽演正警化真君の号が与えられました。
呂洞賓には宋と元、2代にわたる国の皇帝から封号が与えられたことになります。
さらに、クビライの曾孫・武宗カイシャンは呂洞賓を純陽演正警化孚佑帝君に封じました。「帝君」までつくとこれは確実に神号です。呂洞賓は元朝によって公式に神だと認められたことになります。
以降道教では呂洞賓の神名は孚佑帝君となっています。
呂洞賓を信仰するのは全真教だけではありません。
道教の神降ろしの占い扶乩から派生した鸞堂恩主信仰では、五恩主の一柱・呂恩主として信仰されています。

台北市大龍峒覚修宮
八仙
呂洞賓といえば八仙にも触れないわけにはいきません。
八仙は明代に考案されたと考えられており、現在では呂洞賓・鍾離権・李鉄拐・張果老・何仙姑・曹国舅・韓湘子・藍采和の八柱で定着しています。

呂洞賓と八仙:台北市大龍峒覚修宮
このうち、鍾離権は呂洞賓の師匠、何仙姑と韓湘子は呂洞賓の弟子、曹国舅は鍾離権と呂洞賓に道の真伝を与えられたという設定で、呂洞賓の人気を中心にして作られたものなのがうかがわれます。
八仙が作られてから八仙過海というお話が考案されました。八仙それぞれが船ではなく方術を用いて海を渡るような話です。この八仙過海をベースとした小説『東遊記』も作られています。






