道教での黄帝の影の薄さについて

『史記』本紀は黄帝から始まります。『史記』では、黄帝は姓を公孫、名を軒轅といい神農氏の治世に生まれた。しかし神農氏は衰えて炎帝や蚩尤が反乱を起こしたので、これを討伐し、その功によって諸侯から推戴され、神農氏に変わって帝位につき、土徳の瑞があったので黄帝と称したと記されます。
他に、黄帝が神農氏に生まれただとか、神農が炎帝だとかいう別設定があり、総合すると炎帝=神農から黄帝が生まれて中華民族の始祖となったみたいな話になっています。そこから中国人は「炎黄の子孫」を称しており、称するだけなら勝手だけど少数民族にもそれをおしつけて統治の根拠としているのでろくなもんじゃありません。
他に女媧という邪神ちゃんみたいな神様が泥をこねて人間を作ったとか、女媧と兄の伏羲があれこれして人間が生まれたというおそらくは少数民族にあった神話を取り入れたお話もあるけれど、今回はそれはおいときます。性癖のマニアックさでは中国神話も日本神話に負けてないぞとだけ言っておきましょう。
さて、中国人をして祖先とまで言わしめる黄帝は、古代において神としても信仰されていたわけですが、なんでもかんでも取り入れる道教の中ではなぜかすっかり影が薄い存在になっています。道教を見ていると黄帝どこいった?と言いたくなるわけで、今回はそのことについて考えてみようと思います。
黄帝のでどころ
黄帝の名はすでに『山海経』西山経に見えます。
又西北四百二十里曰峚山 其上多丹木 員葉而赤莖 黃華而赤實 其味如飴食之不飢 丹水出焉 西流注于稷澤 其中多白玉 是有玉膏 其源沸沸湯湯 黃帝是食是饗
また西北に420里行くと?山がある。その山上には丹木が多い。丹木は葉が丸く茎は赤く、花は黄色で実は赤い。その味は飴のようで食べれば飢えることはない。?山からは丹水が出る。西に流れて稷澤に注ぎ込み、その中には白玉が多く、玉膏もある。その源流では玉膏が湧きい出ているので黄帝はそれを食べ、またそれで客人をもてなしている。
玉膏は白玉から作られる仙薬です。『山海経』は戦国時代ごろから少しずつ作られていった書物で、西山経はその中でも初期に作られたと考えられます。
たくさん湧き出る玉膏を日常的に食べていたということから、黄帝が戦国時代の時点ですでに不老不死の神仙と考えられていたことがわかります。帝を冠してはいるけれど、西北の山奥に住む不老不死の神仙というキャラクター付けだったのでしょう。ここに描かれる黄帝は、しかし『史記』に記される公孫軒轅かどうかはわかりません。
同じ『山海経』に後の時代に付け足された大荒北経には、黄帝の神話の原型があります。
有人衣青衣 名曰黃帝女魃 蚩尤作兵伐黃帝 黃帝乃令應龍攻之冀州之野 應龍畜水 蚩尤請風伯雨師縱大風雨 黃帝乃下天女曰魃雨止 遂殺蚩尤
青い衣をまとった人がいた。名を黄帝の娘・魃という。蚩尤が黄帝に歯向かったとき、黄帝は應龍に冀州の野を攻めさせた。應龍が水を溜め込むと、蚩尤は風伯と雨師にたのんで雨と風を起こさせた。そこで黄帝は天より魃という天女を呼び寄せて雨を止めさせ、ついに蚩尤を殺した。
その者青き衣をまといて冀州の野に降り立つべしって感じで黄帝に呼ばれた魃はここで雨を止めたことにより旱魃の語源となったともいいます。天女が娘ということから、ここでの黄帝は天上の神という扱いなのでしょう。
冀州は実際にある地名というか地域分布で、大雑把に言えば今の中国の山西省と河北省あたりを指します。ただ『山海経』では「東北海之外」の辺境の話ってことになってるはずです。
大荒北経にはもう一つ黄帝の記述があります。
大荒之中有山名曰融父山順水入焉 有人名曰犬戎 黃帝生苗龍 苗龍生融吾 融吾生弄明 弄明生白犬 白犬有牝牡 是為犬戎
大荒の中に融父山があって海の中まで続いている。そこに犬戎という人がいる。黄帝が苗龍を生み、苗龍が融吾を生み、融吾が弄明を生み、弄明が白犬を生んだ。白犬には牝牡がいてそれが犬戎となった。
一応書いとくと、中国の史書には父親に子が生まれたことを「生んだ」と書いてあります。女性はそれこそ「産む機械」扱いだった時代で、よほどのことがなければその女性のことは書かれないし、書かれても氏族の姓+氏で記述されます。
犬戎と呼ばれた民族は実際に存在します。申侯の反乱を手伝って西周を滅ぼし、春秋時代をもたらしたのが犬戎でした。ただ、実際の犬戎は現在の四川省からチベットあたりにいたとされるので、大荒北経に語られるこの犬戎が、現実に犬戎と呼ばれた民族かどうかはわかりません。
とにかくこの記述を見ると、黄帝は北の辺境にいた犬戎の始祖です。
そんな黄帝がなんで「中華民族の祖」なんて扱いになっていったのか?そのきっかけは、戦国時代に周と春秋の諸侯の歴史を記した『国語』晋語の晋の文公・重耳の部分の記述から見いだせます。
昔少典娶於有蟜氏 生黃帝炎帝成而異德 故黃帝為姬 炎帝為姜 二帝用師以相濟也 異德之故也 異姓則異德 異德則異類 異類雖近 男女相及 以生民也
昔少典が有蟜氏を娶って黄帝と炎帝を生み、異徳を成した。故に黄帝は姫で炎帝は姜である。二帝は軍をもって助け合った。それも異徳故である。異姓はつまり異徳である。異徳はつまり異類である。異類は近い関係だが男女は婚姻して民を生むことができる。
ここではなんと黄帝と炎帝が兄弟のような扱いになっています。しかし黄帝は土徳、炎帝は火徳。徳が異なるので姓も違うから通婚できるとなっています。黄帝を神と戴く民族と炎帝を戴く民族の連合と政略結婚があった歴史が反映されているのかもしれません。
注目すべきは、黄帝が姫姓だとしてあることです。周朝は武王姫発が殷を滅ぼして建てた国で王室は姫姓です。『史記』では周室の始祖は黄帝の子孫の后稷としてあるんですが、周朝のころは黄帝の直系を名乗るために黄帝の姓が姫だったとでっちあげた可能性もあります。
『国語』は周の5代穆王が犬戎を攻めようとしているのを祭公が諫めるところから始まります。しかし穆王は諫言を聞かず結局犬戎征伐を強行します。
もし、この犬戎が『山海経』にある犬戎なら、このときに穆王は犬戎にあった黄帝が始祖だとする神話を盗み、黄帝の姓が姫だったことにして、自分の家系の先祖にしてしまった。なんてこともなくはないんではないかと思います。
そして、黄帝が姫氏の先祖となったことから、後代の王朝が拡大解釈し、最終的に「中華民族の祖」に祭り上げられた。ってことはないですかね?
黄老の学
戦国時代から漢代初期ぐらいにかけて「黄老の学」が流行しました。これは黄帝と老子の学問ということです。
老子はまあわかります。書物としての『老子』は、統治者が無為自然であれば民は自ずから治まると説きます。
そして、
不尚賢 使民不爭 不貴難得之貨 使民不為盜 不見可欲 使心不亂
賢さを重んじなければ民は争わず、得難いものを貴重だとしなければ民は盗みを働かず、欲するものを見せなければ心が乱れることもない
変に知恵を与えなければ戦争は起きないし、これが高価なものだってものがなければ誰も盗みなんかしないし、欲を起こすものを目にすることがなければ心が欲にとらわれることもない。っていうミニマリズムみたいな治世を説きました。まあ中共なんかはこれを悪用して愚民政策をとっているので、あくまで理想論でしかないんですが。
じゃあなんで黄帝かっていうと、黄帝はこの老子が説いた無為自然の治世を行っていたために世が平穏だったっていう妄想想定から来ているんですね。
結局のところ「黄老」といいつつ老子の思想に基づいた学問です。
ただし『荘子』では黄帝は民に仁義を押し付けた野郎で、得道者の広成子に「至道」のことを聞きに行っても追い返されるという扱いになっています。なので道家の共通認識として黄帝を無為自然の天子としていたわけではないようです。
この時期黄帝に仮託した書物がやたらめったら作られました。『漢書』には黄帝四経だとか黄帝泰素だとか黄帝雑子気だとかたくさんの書名が記録されており、とにかくなんにでも「黄帝」とつけとけばいいというノリを感じます。現代日本でも「魔王」だの「転生」だの「異世界」だの「悪役令嬢」だの、何か一つのテーマが受けるとそれをタイトルに冠したラノベが大量に作られますけど、そういうノリだったのでしょう。
『漢書』に記された漢代にあったはずの「黄帝」を冠した書物で現存しているのは、医学書の『黄帝内経』のみです。
『黄帝内経』は黄帝が岐伯や伯高、少師等医師たちに医学を学んだり、弟子の雷公に医学を説いたりする書物で、素問・陰陽應象大論に
是以聖人為無為之事 樂恬憺之能 從欲快志於虛无之守 故壽命无窮 與天地終 此聖人之治身也
これをもって聖人は無為を為すことで恬淡を楽しみ、欲するところに從っても虚無を守った故に寿命は天地が終わるまでの無窮となった。これが聖人の健康法である。
とあるように、老荘思想に基づいた養生を説いたりもしているとは言っても、医学を論じる以上無為を主軸とするわけにもいかず、内容的には「黄老の学」ではありません。多分「黄帝」の流行にのっかってタイトルをつけただけで、当時の医家は黄老の学の徒ではなかったでしょう。
同じく漢代にはタイトルに「黄帝」こそついていないものの、黄帝が仙女の素女に房中術のレクチャーを受ける『素女経』もありました。
こうした現象は、黄老の学が流行ったことで黄帝の知名度と権威が高まったことを示しています。
黄帝の成仙譚
黄帝の名前が道教成立以前に方士たちに利用されていた証拠が『史記』孝武本紀にあります。孝武本紀は秦始皇帝と同様不老不死を求めた漢の武帝について記したものです。
まず、方士の李少君が武帝にこう吹き込みます。
祠灶則致物 致物而丹沙可化為黃金 黃金成以為飲食器則益壽 益壽而海中蓬萊僊者乃可見 見之以封禪則不死 黃帝是也
竈を祀れば鬼神を呼び出すことができます。鬼神は丹砂を黄金に変えられるのです。その黄金を食器にすれば長寿が得られます。そのようにして長寿となれば、海の向こうの蓬莱山で仙人に会うこともできるでしょう。仙人に会ってから封禅の儀式を行えば不死となります。黄帝もそうだったのです。
さらに公孫卿なる方士がこう申し上げました。
黃帝采首山銅鑄鼎荊山下 鼎既成 有龍垂胡髯下迎黃帝 黃帝上騎群臣後宮從上龍七十餘人乃上去 餘小臣不得上乃悉持龍髯 龍髯拔墮黃帝之弓 百姓仰望黃帝既上天 乃抱其弓與龍胡髯號 故後世因名其處曰鼎湖 其弓曰烏號
黄帝は首山で銅をとって荊山で鼎を作りました。鼎が出来ると龍がひげを垂らして黄帝を迎えに来ました。黄帝と群臣、後宮の女性たち70人ほどが龍に乗って天に昇っていきました。その他の家臣は龍に乗れなかったので龍のひげをつかんだけれど、ひげは抜け、黄帝が取り落とした弓とともに地上に落ちてしまいました。地上に落ちた家臣たちは黄帝がすでに天に昇ってしまったのを仰ぎ見て、黄帝が落とした弓と龍のひげを抱いて泣きました。ゆえに後世それにちなんでその場所を鼎湖、弓を烏號と呼んだのです。
それを聞いた武帝はこう言います。
嗟乎 吾誠得如黃帝 吾視去妻子如脫屣耳
ヤッフー!俺も黄帝みたいになりたいぜ!妻と子供なんて靴みたいに脱ぎ捨ててな!
嗟乎って感嘆の声を表したものなんだけど読みはjiē hūなので、「あぁ」とかよりヤッフーのほうが近いなと思ってそうしましたよ。
五帝本紀には「黃帝崩葬橋山」と、普通に死んで葬られたと書いてあります。黄帝が封禅によって長寿になっったとか龍に乗って天に昇った=仙人になったってのは、明らかに方士による虚言。李少君と公孫卿で言ってること違いますし。ただ、これらの方士が長寿もしくは成仙を果たした人物として黄帝を選んだのは、『山海経』に仙薬の玉膏を食べているとの記述があるのが根拠になっていると推測します。
さて『史記』より後にはこの黄帝が仙人になったという方士の虚言は広まっていたらしく『列仙伝』に黄帝の項が設けられこうなりました。
黃帝者號曰軒轅 能劾百神朝而使之 弱而能言 聖而預知 知物之紀 自以為雲師有龍形 自擇亡日與群臣辭 至於卒還葬橋山 山崩柩空無屍唯劍舄在焉 仙書云 黃帝采首山之銅 鑄鼎於荊山之下 鼎成有龍垂鬍髯下迎帝乃昇天
黄帝は軒轅と号す。百神を従えて使役することができた。幼くして言葉を話し、神聖にしてあらかじめ知ることができ、物の理を知っていた。自らを雲師とし龍になることができた。死ぬ日を自ら選んで群臣に別れを告げ、死ぬと橋山に葬られた。だが橋山が崩れたときに棺は空で、ただ剣があるだけだった。仙書に黄帝は首山で銅をとって荊山で鼎を作った。鼎ができると龍がひげをたらして迎えに来て、帝は昇天したとある。
『列仙伝』は司馬遷が死んでから10年ほどして生まれた劉向の作と伝えられているけれど、本当の作者は定かではありません。ただ『史記』より後に書かれたのは確かです。
死して後、その人を葬ったけれど棺の中には服とか靴とか、その人が身につけていたものしか残っていなかったという表現は仙人の紹介に多く見られます。これは、死んでから仙人になって昇天する「尸解」という現象で、そうしてなった仙人は「尸解仙」と呼ばれます。
現存の文献で「尸解仙」の名称が使われるのは晋代の『抱朴子』が最初だと言われているけれど、すでに漢代には「尸解」の現象が考えられていたことがわかります。
『列仙伝』の作者は五帝本紀にある「黃帝崩葬橋山」というごくまっとうな黄帝の死を利用し「黄帝は死んだと見せかけて成仙していたんだよ!」「な、なんだってー!!!」という設定を付け足しました。龍に乗っていったというのは仙書ではなく『史記』にある記述ではありますが、公孫卿に連なる方士が『史記』の記述を丸パクリしてそう書いた本を出していたのかもしれません。
さらに、さらっと黄帝龍フォームになれる設定も付け加えられています。
とにもかくにも、紀元0年を前後して、黄帝が天に昇って仙人になったという設定は定着しました。
では道教が形成されていく晋代では黄帝はどういう扱いだったのでしょうか?『抱朴子』の記述で知ることができます。
按荊山經及龍首記 皆云黃帝服神丹之後 龍來迎之 群臣追慕 靡所措思 或取其几杖 立廟而祭之
荊山経及び龍首記によれば、黄帝は神丹を服用したのち龍が迎えに来た。群臣はそれを追慕し、黄帝を思わない日はなく、黄帝が使った椅子や杖を取って廟を建て祀ったという。
荊山經は現存せず、本当にあったのかどうかも不明な書物です。龍首記は『黄帝龍首経』という似た名称の書物が現存しはするものの、内容を見ると黄帝の成仙については記述がないので龍首記とは違う書物だと思われます。
『抱朴子』は、特殊な材料と製法で作った丹薬を飲まないと仙人になれないと説く立場をとります。幸いすでに『山海経』に仙薬を飲んでいたらしき記述はあるので、あとは後に作られた伝説と合わせて、龍が迎えに来て天に昇ったのは、封禅の儀式のための鼎を作ったからではなく、神丹を飲んだからだと改変するだけです。
葛洪的には、黄帝が仙人になったのであれば、必ず神丹を飲んでなければいけないという思いがあったのでしょう。自分の主張を通すためにそれまでの歴史やら伝説やらを改変することに古代人はためらいを持ちません。
また、ここで黄帝の廟が建てられて信仰されていたこともわかります。方士たちの宣伝によって仙人になったことにされた黄帝は、晋代にはすでに信仰の対象だったのです。
道教の発展と黄帝のフェードアウト
廟が建てられ信仰の対象となっていた黄帝。それまでの方士の術や神仙道の集大成として道教が作られていく中で当然神として吸収されました。ところが取り入れられたものの、道教神としては高い位にはなれませんでした。
そうなった理由はいくつか考えられます。
まず、天師道による老子の神格化です。葛洪が生きた晋代には老子の神格化が始まっていたらしく、葛洪は『神仙伝』で老子はあくまで得道者であり、神霊異類ではないのに世の道士たちは老子を神秘化しようとしていると批判しています。
しかし葛洪の批判も虚しく、老子の神秘化は進んで「太上老君」という神として祀られるようになりました。
葛洪より100年ほど後の南北朝のころ、北魏で活躍した道士・寇謙之は嵩山での修行中に太上老君に出会い、天師の位を授けられるとともに、張道陵、張衡、張魯ら三代による「三張の偽法」を改めるようにお告げを受けたと称してそれまでの天師道を改革した新天師道を興しました。
老子を太上老君として天師道の最高神に祭り上げたのは寇謙之ではないかと思われます。
老子の地位が最高神にまで引き上げられたのと相対的に、黄帝の位は低くなったのでしょう。
一方、寇謙之が死んだ後に南朝側に生まれた陶弘景は、南方に伝わった天師道から派生した上清派を基礎として茅山宗道教を立ち上げ、『真霊位業図』で神々のヒエラルキーを定めました。その最上位に置かれたのが元始天尊です。
元始天尊は、東晋の末ごろに葛洪の曾孫の葛巢甫ら霊宝派道教の道士が作った霊宝経の中で作られた神です。霊宝経の一つである『霊宝無量度人上経』では、元始天尊が道法の宗主、玉宸道君が霊教主となり、霊書五篇真文を撰した。それが黄帝に伝わったとしています。
つまり南方では元始天尊という新たな神格が作られて、黄帝は元始天尊が撰した経典を伝えられたにすぎないという設定になったわけです。
そして黄帝は『真霊位業図』では7段階あるヒエラルキーのうち第三中位左位に入れられました。ちなみにそれぞれのランクにもまたヒエラルキーがあり、第三中位の最高位は太極金闕帝君です。黄帝はというと第三中位の中の左右に分かれた左位の24位「玄圃真人軒轅黄帝」になっています。黄帝の上には老子に老子五千文字を伝えられた尹喜や、蓬莱山の仙人だという安期生、南極老人といった有名な神仙がおり、葛洪の大おじさんの葛玄や孔丘、顔回まで黄帝の上に置かれています。
もっとも、太上老君はランク自体下の第四中位と黄帝よりも下にされています。これは太上老君を最高神とする新天師道に対して「おまえのところよりうちの神様のほうが偉いんだからな!」と小学生男子みたいなマウントをとるために作られたヒエラルキーだと見てもいいでしょう。第四中位の首座とはいえ、老子の弟子的存在の尹喜より下位に置かれてるのが嫌味ったらしいんだよなあ。
とまあ、こんな具合に黄帝は南北に分かれた道教の宗派間でのマウントのとりあいに巻き込まれる形で位が低くなっていきました。
隋がまた南北を統一させ、唐が国を奪って発展すると、道教が興隆していく中で南北道教それぞれが作っていた設定は融合していきます。そんな中で太上老君は三清という元始天尊と同格の最高位に引き上げられました。でもそれに対して、黄帝の地位は上がりませんでした。
宋代に入り、三清に代わって玉皇大帝が最高神の地位につくと、道教での神様の設定はだいたい固まります。
三清は玉皇大帝の相談役的な地位となり、玉皇大帝の補佐官である四御、九天応元雷声普化天尊を頂点とした雷ぶちかまし部隊の雷部など、玉皇大帝の朝廷の陣容が明確に決められて行きました。そうなると、たかが龍に乗って昇天した程度の古代の帝王の居場所はなくなるんですよね。
明代に作られた『歴代神仙通鑑』だと、黄帝が「九天應元雷聲普化真王」に封じられたなんて書いてあるけれど、黄帝と雷は関連性が薄いですし九天応元雷声普化天尊の中の人は経典によってバラバラなので逆になんでその設定作ったの?って思います。
こうして黄帝が道教のなかで辿ってきた歴史を改めて見てみると、黄帝が道教の中で高位の神とならず、微妙な立場になってしまった理由は、キャラとして使いにくいってところに尽きるんじゃないかと思います。
特に、神と仙人が混同されていく中、神様でも自らの力で昇仙したなんて設定が作られていくと、なんか知らんけど龍が迎えにきたから乗っかって天に昇りましたというのはキャラ設定として弱すぎます。
あくまで道教の世界内ということで言うならば、黄帝は話の展開でどんどんキャラがインフレ化していく中、それについていけなかった初期キャラです。ヤムチャよりも不憫な立場だと言えます。
ガンダムで例えるならRX-78-2。昇天したというマグネットコーティング的なテコ入れはしたし、世間的な人気は高いけれど、モビルスーツとしてはZガンダム以降の世界では使い物にはならないやつって言えばわかりやすいですかね。
黄帝を主祭神とする台湾の新興宗教
道教ではすっかり影が薄い黄帝。しかし、台湾には黄帝を主祭神とする道教系の新興宗教があります。その名も軒轅教。
軒轅教は1957年に台湾で作られた新興宗教です。
軒轅教の創始者・王寒生はもともと国民党の立法委員で、1949年に台湾に渡ったというから国共内戦に負けて台湾に逃げ込んだ蒋介石についていったってことですね。
蒋介石ってのは台湾を占領して台湾人を弾圧したクソ野郎ですが、その仲間です。
王寒生は「中華民族の精神と文化を復興するんじゃー!」などと言い出して、1957年に黄帝を主祭神とする軒轅教を創始しました。黄帝が宗教的に影が薄かったのが、新興宗教の主祭神として採用しやすかったのでしょう。軒轅教の教義的にも合ってますし。
軒轅教は淡水に総本山を置き、現在では台湾各地に「黄帝神宮」を名乗る廟があります。

一応儒仏道三教合一を標榜しているけれど、様式的には道教っぽいので大雑把に道教系新興宗教でいいと思います。

まあ今どき台湾で中華民族云々言っても「だったら中国に帰れ」と言われるだけですから、結局黄帝と同様影が薄くなっていくだけじゃないかなと思います。






