卑弥呼の鬼道は道教か?

其國本亦以男子為王 住七八十年倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫壻 有男弟佐治國

その国ではもともとは男を王としていたが、その王の治世が70年~80年をすぎると倭国は乱れ、何年もの間お互いに攻撃するようになった。そこで共に女子を王に立てた。名は卑弥呼。鬼道に事え民を惑わすことができた。すでに歳を重ねていたが夫はなく、弟が治世を補佐していた。

日本では魏志倭人伝と呼ばれる『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝の一文です。

卑弥呼は魏に朝貢に赴いた使者が伝えた王の名に当て字したもので、日巫女あるいは日御子など太陽神を奉じる巫女だったのではないかと考えられており、また天照大御神のモデルではないかとの説もあります。

まあそこらへんはそれこそ江戸時代から議論があることで、真偽のほどはどうでもいいし「邪馬台国」がどこにあってもどうでもいいです。自分たちで記録を残さなかったのが悪いんで、陳寿は正しい倭国の情報を書いていないんだといちゃもんをつけてみてもそれは八つ当たりというものでしょう。保守論客()と呼ばれるある文筆家が、古代日本の王が中国に臣礼をとっていたのを認めたくなくて卑弥呼など実在しなかった倭に関する記述は全てフィクションだなんて主張しているのを見たことがありますが、中国人みたいな負け惜しみで強弁するのは哀れでしかたありませんでしたね。

星野之宣の漫画『ヤマタイカ』では縄文人を「火の民族」としてそれをを束ねる「火の巫女王」としていました。ちゃんと記録していなかったがゆえにどうとでも解釈できるってあたりが邪馬台国や卑弥呼の魅力となっているのかもしれません。

問題は卑弥呼がこれをもって民を惑わしたという「鬼道」です。

※トップ画像はStable Diffusion Demoに「japan god amaterasu」と入力して描いてもらったものです。

鬼道が初期道教だという説

『三国志』には、烏丸鮮卑東夷伝の倭人の条以外に「鬼道」が出てくる部分があります。

一つは魏書公孫陶四張伝にある張魯の条。張魯は曹操から鎮南将軍閬中侯に封じられていますから個人伝があります。国単位で大雑把にまとめられた倭国より張魯個人のほうが扱いが上です。

魯遂據漢中 以鬼道教民 自號師君

張魯は漢中を占領し、鬼道で民を導いて自らを師君と号した。

諸祭酒皆作義舍 如今之亭傳 又置義米肉 懸於義舍 行路者量腹取足 若過多鬼道輒病之

祭酒たちは皆義舍という今でいう亭伝のようなものを作った。そして義舍には義米肉を置いて道行く者たちの腹の足しになるようにした。義米肉を必要以上に取るような者は鬼道によって病気になるとしていた。

五斗米道は入信の際に五斗の米を必要としたことから、本人たちではなく外部の者がつけた名称です。張魯の後継教団は天師道を名乗り、本当に直系かどうかは不明ながら現代では正一道と名乗っています。しかし張魯の時代にどう名乗っていたのかはわかりません。信者を「鬼卒」と呼んでいたと言いますから、意外と本当に「鬼道」と名乗っていたのかもしれません。

張魯は病は悪い心が気を枯らすせいで起こると説いて、鬼卒=信者たちに懺悔を行わせていました。だから教団が提供する米や肉も、欲張って必要以上に取ると病気になると戒めていたのです。

もう一箇所、蜀書劉二牧伝の劉焉の条にも「鬼道」の記述があります。

張魯母始以鬼道 又有少容常往來焉家 故焉遣魯為督義司馬

張魯の母ははじめは鬼道によって、また見た目の美しさによって劉焉の家に出入りしていた。ゆえに劉焉は張魯を督義司馬として派遣した。

張魯は五斗米道の創始者・張道陵の孫で、張道陵の子・張衡の子として五斗米道を継いだというのが公式設定になっています。

しかし、張道陵も張衡も張魯以前の記録はなく、史書には張魯の祖父、父として記されるのみです。私は張道陵や張衡は張魯が自分の経歴を盛るために作り出した架空の存在という可能性すらあると思います。

五斗米道は張魯とともに劉焉に仕えた張脩が興したもので、張脩と対立して殺した張魯が張脩の教団を奪ったとの説もあります。こちらの説をとるなら、張魯の「鬼道」は劉焉の家に出入りしていた母親のものを受け継いだのだという可能性も出てきます。

そこらへんの考察はともかく、『三国志』に「鬼道」を行ったと記される人物は卑弥呼以外には張魯とその母親です。

卑弥呼と張魯はほぼ同時代の人なので、この張魯の「鬼道」が日本に伝わったのがそのまま卑弥呼の「鬼道」であり、つまり卑弥呼の「鬼道」とは初期道教であろうという説があります。

卑弥呼の「鬼道」は道教ではない

しかし、卑弥呼の鬼道が初期道教だという説は、一般的には否定されています。

私も卑弥呼の鬼道は張魯の鬼道とはまったく別物だったと思います。

皆教以誠信不欺詐 有病自首其過 大都與黃巾相似

誠心をもって騙さないことを教義とし、病気のものには過去の過ちを懺悔させた。その教えの大部分は黄巾と似ていた。

史書に記録される張魯の教えは、信者に正しい心をもって人を騙さないようにさせて、病人に懺悔を行わせることで治療とするものでした。黄巾、つまり張角の太平道も同じような教義だったようです。

張魯の鬼道が母親の鬼道を継いで発展させたものだと仮定するなら、張魯の母親は巫医だった可能性もあります。巫医とは祈祷などによって病気を治すシャーマンで、現代でも沖縄のユタというシャーマンは巫医の性格も持ちます。日本の寺社で行われる病気平癒の祈祷も巫医のようなものでしょう。

しかし古代中国の場合、巫医と言っても必ずしも非科学的な、オカルト的なものではなく、カウンセリングで精神的な安心を与えたり薬草を用いることでそれなりに根拠がある治療をしていたと思われます。

『黄帝内経』霊枢に

先巫者 因知百病之勝 先知其病之所從生者 可祝而已也

昔の巫医は百病に勝つ方法を知っており、まずその病気の原因を解明したゆえに祈祷で治すことができたのです。

とあるのは、古代中国の巫医が、日本の神道や密教のようにただむやみに祈祷を行うのではなく、医学的な対処を行った上で宗教的なパフォーマンスとして祈りを捧げていたことを示すと思われます。

古代の迷信深い人を相手にするには、ただカウンセリングや医学的な治療をするよりも、祖霊や神の力によって治療が行われたと示したほうが受け入れられやすかったのかもしれません。

これはあくまでそうした情報を元にした想像でしかないのですが、張魯は母親からそのような巫医の知識と技術を受け継いで、さらに信者に懺悔をさせることでポジティブなメンタルに導く方法を加えたのではないかと思います。

また、教団組織をつくり安定した食料を確保すれば、信者の栄養状態を向上させることもできたでしょう。栄養不足が原因の体調不良なら食生活を改善しただけで治ることもあったはずです。

これが張魯の「鬼道」ではないかと思います。だからこそ漢中を数十年にわたって占領する独立勢力になるほどの信者を集められたのではないかと推測します。

それに対して卑弥呼の鬼道はどうだったでしょうか?

卑弥呼については『三国志』が初出で、『後漢書』や『隋書』にある卑弥呼の情報は『三国志』の記録を継承しただけにすぎません。

もっとも『後漢書』東夷列伝では

有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道能以妖惑眾 於是共立為王

卑弥呼という女がいた。歳を重ねても嫁ぐことはなく、鬼神の道を使って民を怪しく惑わすことができたから、倭国共同の王として立てられた。

と、「鬼神の道」の能力があったから女王として立てられたのだとしています。儒教的な男尊女卑の価値観が高まっていく中で、『三国志』の記述ではなんで国が乱れたからといって女を王に立てた理由がわからないとなったために、鬼道で民を惑わす術を持っていたからこそ女王になったのだと解釈したのかもしれません。

統一国家としての統治機構が確立されていった漢以降でも、宗教と政治が完全に分離することはありませんでした。『史記』封禅書には皇帝たちが様々な神を祀ったことが記録されています。清代に至るまで皇帝たちは祭祀を絶やしませんでした。中国歴代の王朝の大部分で政治の中核に置かれた儒教の本質は先祖祭祀にあります。また歴代の中でも信心深い皇帝は、神々に神号を与えてきました。

しかし、漢代においてはすでに皇帝が神を祀ることはあっても、政治を神のお告げや占いに頼ることはありませんでした。それは商のような祭政一致の国家運営が行われていなかったということです。国家運営を占いに頼るような祭政一致の政治体制は商が滅びるとともに終わっていたのです。

同じ『三国志』でも張魯は「以鬼道教民」。それに対して卑弥呼は「事鬼道能惑衆」です。かなり扱いが違うことがわかります。

張魯の独立勢力は宗教王国とはいいつつも、「鬼道」によって善良であることを求め、民に奉仕するものです。商のように占いで神意をはかってそれを根拠に国家運営をしていたわけではなく、宗教を根拠に叛乱を起こしたりもしませんでした。ゆえに「教民」です。

それに対して陳寿が伝え聞いた卑弥呼は、シャーマニズムによって国を統べる女王でした。陳寿にとって、古代殷のような祭政一致の倭は非常に原始的に思えただろうし、祭祀に頼った国家運営は「民を惑わす」行いに映ったのだと思います。

実際のところ卑弥呼がどんな統治をしていたのかはさっぱりわかりません。魏から銅鏡を賜ったことにより、鏡に陽光を反射させることで自らの力としていたなんて説をどこかで見たことがありますが、

自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食傳辭出入

王となってからは卑弥呼を見たものはほとんどおらず、1000人の奴婢を侍らせていた。唯一1人の男が飲食物を運び、辭を伝えるために出入りしていた。

とあるので、民衆の前に出てきて鏡をぺかーと光らせるなんてパフォーマンスはやっていなかったはずです。

「辭」とは占いの結果です。倭人の習俗として

其俗舉事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法視火坼占兆

その習俗は、何か事を行ったり移動をするなどと言う時には、まず骨を焼いて吉凶を占った。その占いの結果から令亀法のようなやり方で亀の甲羅を焼き、甲羅にできたひび割れから占って辭を得た。

とあります。

卑弥呼は宮殿に1000人の女性だけの百合ハーレムを築いてキマシタワーしつつ、外で占いを行わせてその結果を伝えさせ、占いの結果によって国の運営を行っていたわけです。

ここには張魯が行っていた民を教化するような思想や信仰は読み取れません。

五斗米道と呼ばれた張魯の宗教が天師道となり、正一道に受け継がれていく過程で、張魯の時代に行われていた懺悔はほぼその姿を消すものの、善行をすすめる思想は受け継がれて、後に人の善悪をポイント制にした功過格へとなりました。古代の信仰は完全には残らないまでも、その断片は後代に受け継がれます。

卑弥呼の鬼道も、その痕跡ぐらいは後の時代の神道や修験道などに受け継がれているはずです。実際、移動に際して占うという習俗は平安時代にも「方違え」として受け継がれていました。方違えは陰陽師が考えたというよりは、卑弥呼の時代からの風習を陰陽道が理論付けして利用したものだと思います。しかし張魯が説いたような悪い心が病気を起こすとか、善行を積むことで長生を得るといった思想は神道にも修験道にも断片すら見られません。

あくまで状況証拠からの推論でしかないけれど、こうしたことから卑弥呼の鬼道は初期道教とはまったく関係がないと考えます。

纒向遺跡の桃は道教か?

2010年、奈良県の纒向遺跡で大量の桃の種が発見されました。これらの種を放射性炭素年代測定法で調べたところ西暦135年~230年ごろのものだとわかりました。これは卑弥呼が生きた時代と重なります。また、この桃が呪術に使われたものだとの推定から、これこそ卑弥呼の鬼道のために使われたものだなんていう意見も出てきて、これはもう邪馬台国は畿内で決まりですねーみたいな流れになって、邪馬台国九州説の人はキィーとヒステリーを起こしていました。

この桃の種が本当に邪馬台国の場所の証拠になるのかどうかはどうでもいいことです。しかし、卑弥呼のと同時代のものだということで、卑弥呼の時代に中国から何らかの祭祀、もしくは呪術が伝わっていたかを考える傍証としては興味深いです。

中国では桃は古代より祭祀に用いられていました。

『礼記』檀弓下にこんな記述があります。

君臨臣喪以巫祝桃茢執戈惡之也

君主が臣下の喪に臨む時は巫祝が桃の杖と箒を持ち、臣下たちは戈を執って死体の邪気を払った。

『礼記』は周以降の礼法をまとめて西漢のころに成立しました。つまり早ければ周代、遅くとも西漢には、桃には辟邪の力があると信じられていたわけです。

初唐に作られた『芸文類聚』には『莊子』からの引用としてこうあります。

莊子 插桃枝於戶 連灰其下 童子入不畏而鬼畏之 是鬼智不如童子也

『莊子』桃の枝を戸に挿して桃の木の灰をその下にまいておく。すると子供は恐れずに入っていくが、霊は恐れて入ることができなくなる。これは霊の知恵が子供ほどではないからだ。

この一文は現在の『莊子』にはありません。唐代にはあったものが後に散逸したのでしょう。

とにかく中国では古代から桃の木に邪気や霊を遠ざける力があると信じられていたようです。

では桃の実、もしくは種についてはどうでしょうか?

東漢末から三国時代、まさに卑弥呼と同時代に作られた本草書『神農本草経』に書いてあります。

桃核仁 味苦平 主淤血 血閉瘕邪 殺小蟲
桃花殺注惡鬼 令人好顏色

桃核仁(桃の種の中の成分)は味は苦で性質は平、淤血や血閉瘕を治し、小さい虫を殺す。
桃の花は悪鬼を殺して顔色をよくする。

性質はその薬が体を温めるとか冷やすとかいったことで、「平」なら温めも冷やしもしないということ。淤血は現代中医学で言う瘀血、つまり局所的な血行不良と同じ。血閉、瘕は瘀血が原因で起こる血流の停滞と腫瘍です。血閉瘕邪はそれらの症状を起こす病因という意味。小蟲は寄生虫でしょう。瘕には寄生虫症という意味もあります。

中医学では「邪気」には宗教的な意味はなく、六淫邪気=体に悪影響を与える気候変化を意味します。医学から極力宗教を排除している『黄帝内経』でもそれは同じです。

しかし、桃の花は悪鬼を殺すなんて書いていますから、『神農本草経』の作者は純粋な医師、医学者ではなく、宗教と医療を混同した巫医だったか、もしくはその知識を受け継ぐ人だったかもしれません。これはまた古代中国の巫医には薬草の知識もあったことの証拠になりえます。

纒向遺跡の桃の種は、こうした情報が断片的に伝わった結果、桃の種に辟邪の力があると思われ、使われたのではないでしょうか?

これより後の時代の中国でも桃は魔除けの祭具として用いられて、それは道教にも取り入れられています。ただ、辟邪に用いられるのは主に桃の木で作った剣や御札です。

中国では道教以前にも道教成立以後にも桃の種で祭祀を行った記録は見られません。

桃の実が西王母と結びついて長寿をもたらす仙果とされるようになるのはおそらく南北朝前後のことですから、纒向遺跡の時代に西王母の祭祀としてあるいは長寿を寿ぐために桃を捧げる意味はなかったはずです。

つまり、纒向遺跡で見つかった大量の桃の種は何らかの祭祀に使われたものには間違いないし、中国から伝わった情報が元になっている可能性も高いけれど、それは道教の儀式ではなかったと思われます。

それが本当に卑弥呼の鬼道の儀式だったとしても、仮に卑弥呼が大陸や朝鮮半島からの渡来人、あるいはその末裔で、鬼道が中国由来のものだったとしても、それは道教ではありませんでした。