道教の宗派:武当道

仏教とはあくまで最大公約数的な大雑把なくくりに過ぎず、その中には上座部仏教のような初期仏教の気風を残すものから、密教のような本来的な仏教とはかけ離れたものまで含まれます。日本の葬式仏教のようなもはや仏教の要素などほとんど残っていないものまで仏教に含まれていますから、どれだけ大雑把なくくりかわかります。

「道教」についても似たような傾向が見られます。道士が修練によって成仙を目指すものもあれば、大衆の需要に迎合して祈祷やお祓いで金銭を得るものまで含まれます。

道教の歴史の中では様々な宗派が出現しました。あるものは消え、あるものは現在まで生き残り、また生き残った宗派の中には消えた宗派が吸収されていることもあります。

現在まで存続している宗派の代表は主に中国北部に広まった全真教(全真道)、中国南部や台湾などに広まった正一教(正一道)がありますが、もう一つ、独特の存在感を示している宗派に河北省の武当山で行われている武当道があります。

そして武当道の創始者・張三丰(日本語読みではちょうさんぽう/ちょうさんほう)は太極拳の創始者としても知られています。

※画像はAI画像生成ツールBing Image Creatorで生成しました。

張三丰の伝説

武当道及び太極拳の創始者とされる道士の張三丰は、一応実在の人物だということになっています。

『明史』方伎伝に

張三豐 遼東懿州人 名全一 一名君寶,三豐其號也

張三豐は遼東懿州の人。名は全一といい、またの名を君寶。三豐はその号である。

とあります。丰と豐は同音で、『明史』が作られた清代には三丰と三豐が混同して使われていたことになります。

現代中国では丰は豐の簡体字として使われています。ただ丰は草木や作物が茂った様子を表す字として古代から使われていた字でもあります。その丰を器に山盛りに盛って台に乗せ神に捧げた様子を描いたのが豐です。神に捧げるほど丰=実りがあった状態が豐というわけです。つまり豐は丰から派生した字だとも言えます。丰と豐には明確な繋がりがあります。一方日本の常用漢字の豊は原義を無視して上部をただ簡略しただけのもの。ですから豊より丰のほうが豐の略字としてはふさわしいと言えます。

閑話休題。『明史』での張三豐の記述に戻ると、張三豐は体格がよく大きな耳に目が丸く、ひげが戟のようであったとか。

底なしの大食いかと思えば数ヶ月不食でもいられて、経典は読み尽くして忘れず、空に浮かんで1日に千里を行けたとか、自ら宣言して死んだものの棺のなかで復活したなどといかにも仙人じみた伝説が記されます。

明の太祖朱元璋がその名を聞いて武当山に使者を送ったものの会えず、かと思えば朱元璋の11男・蜀王朱椿には会ったとか、それなのにその兄の永楽帝には会わなかったとか。

そして「或言」の但し書き付きで、張三豐は金代の人で、元のはじめにフビライ・ハーンの宰相となった儒者・劉秉忠と同じ師についたなどともあります。

劉秉忠の没年は1274年、朱椿の生年は1371年で蜀王に封じられたのは1378年。この2人に会ったというなら軽く100歳は超えることになります。

とまあ当然そこに疑問を持つ人もいるわけで、張三丰の実在そのものを疑う説もあります。なんせ史書に記述があると言っても全て伝聞で書かれたものですから。

私個人の意見では、武当山に武当道があるのは本当のことなので、張三丰その人は実在し、後に伝説が盛られただけではないかと思います。要するに平安時代の占いカレンダー制作官僚だった安倍晴明が後にいろいろ伝説が盛られたのと同じようなパターンです。

洪武帝や永楽帝が会おうとしたというのも疑わしい話で、清代なって明の皇帝にそういう伝説があったのをそのまま記しただけではないでしょうか?あるいは武当道が権威を高めるためにそういう話をでっちあげた可能性もあります。

張三丰が長春真人丘処機の弟子だという説もあります。それが本当なら、張三丰は金から元にかけての人ということになりますし、武当道は全真教の流れを受けた宗派だということになります。ただこれには明確な史料がありません。おそらく『明史』にある劉秉忠とともに儒教を学んだという伝説は明代ぐらいからあり、その同時代で高名な丘処機の弟子ということにしてしまっただけな気がします。

清代に著された『三丰全集』という張三丰の伝記的な書物では、終南山で師についたとなっています。そこに丘道人という人物が山中で修行する張三丰を訪ねてきて道について語り合ったとの記述があるものの、これが丘処機のことなのかはわかりません。

張三丰は太極拳の創始者か?

張三丰は太極拳の創始者として知られます。ただ、その話の出処がわかりません。

現在張三丰の太極拳創始説として確認できる最も古い史料は、明末清初の学者・黄宗羲が記したという『王征南墓誌銘』の一文です。

少林以拳勇名天下 然主於搏人人亦得以乘之 有所謂內家者 以靜制動 犯者應手即仆 故別少林為外家 蓋起於宋之張三峰 三峰為武當丹士 徽宗召之 道梗不得進 夜夢玄帝授之拳法 厥明以單丁殺賊百餘 三峰之術百年以後流傳於陝西 而王宗為最著 溫州陳州同從王宗受之以此教其鄉人由是流傳於溫州

少林寺は少林拳をもって天下に勇名をはせる。人と打ち合うことを主とし、それによって人に勝つ。内家拳というものは静をもって動を制し、それに抗うものに応じて即倒す。それゆえ少林拳は外家拳として内家拳とは分けられる。この内家拳は宋の張三峰が起こしたものだ。三峰は武当山の道士で、徽宗に召し出されたものの都への道が(賊徒によって)塞がれ進めなかった。その夜三峰は夢で玄天上帝に拳法を授けられ、翌朝一人で賊を100人以上殺した。三峰の術は100年後陝西に伝わってその伝人の中でも特に著名なのが王宗である。温州陳州の人々に王宗がこれを伝え、それより温州に伝わる。

外家拳は少林拳に代表され、主に筋骨を鍛えて戦う武術です。それに対し内家拳は太極拳・形意拳・八卦掌の内家三拳に代表され、内功の運用を重視した武術です。

ここに記された内家拳が太極拳だとは明言できないものの、静をもって動を制するという特徴は内家三拳の中で最も太極拳に符合します。

現在の武当道は八卦掌の源流を主張しているけれどそれは嘘っぱちで、八卦掌は実際には清末に董海川によって作られた武術なので、墓誌銘が記された時代には存在しません。またここで言う温州は中国東南部の温州ではなく、現在の河南省温県のことだと思われます。河南省温県には太極拳発祥の地である陳家溝があります。

なお張三丰と張三峰は読みが同じでどちらも武当山の道士ではあるが、別人ではないかという説も一応あります。

ただ『三丰全集』では

王漁洋先生云 奉勇之技少林爲外家 武當張三丰爲內家 三豐之後有關中人王宗 宗傳溫州陳州

王漁洋先生がおっしゃるには、勇を奉ずる技は少林を外家、武当の張三丰を内家とする。三豐の後代には関中の王宗がおり、王宗が温州陳州に伝えた。

となっていて張三丰と張三峰が同一人物だと認識しているようです。

ここにある王宗は『太極拳論』を著した王宗岳のことだと思われます。

張三丰の太極拳創始伝説にはこんなのもあります。張三丰は少林寺で修行する僧侶だったが、後に武当山に移って道術の修行を行い、少林拳に道教の内功を加えて太極拳を作った。

張三丰が山中で修行していると鶴と蛇が戦っている場面に出くわした。その戦いを観察していた張三丰はそこに陰陽太極の理を見出し太極拳を作った。

また、楊家太極拳3代の楊澄甫は『太極拳用法図解』で張三峰が武当山で経典を誦読していると、窓の外から鳥が争う音がした。見てみると雀と蛇が戦っており、そこから柔をもって剛を克する理を悟り太極拳を作ったと書いています。

張三丰が少林寺出身だという伝説は、ジェット・リーの『太極張三豐』で採用されています。

まあいずれにせよ信用度は非常に低い話だと思います。

私は太極拳は陳家溝の陳王庭が家伝の武術を発展させて作ったという説が一番信憑性があると思っています。とはいえ、その源流に王宗岳の武術があり、王宗岳が張三丰が作った内家拳の数代後の伝人だったという可能性も100%は否定できないと思います。現在武当山で行われている太極拳が張三丰から現代まで伝えられたっていうのはまず嘘っぱちですが。

武当道の内容

武当道が内丹を修行の要とし、道士が出家であるという点は全真教と共通していますから、張三丰が丘処機の弟子というのは嘘にしても、全真教の流れをくんでいるのは確かなことだろうと思います。

武当道が遅くとも元代にあったのは確かなことです。なぜなら元末に武当山が兵火にあって焼き討ちされていますので。その時に武当道は壊滅的な被害を受けているため、張三丰からの道統はその時点で失伝した可能性が高いです。

では、一度滅んだ武当道がなぜ復活できたのかといえば、明代になり明朝朱家が武当道の主祭神である玄天上帝を守護神としたためです。張三丰が夢で玄天上帝に武術を授けられたという伝説もそこから作られたものでしょう。

現代の武当山は太極拳の聖地をアピールして観光資源にしています。改革開放後に少林寺が映画の影響で観光地として一山当てたことから、うちでもそれやろうぜとなったのかもしれません。

でも、武当山で行われている太極拳はどう見ても楊式太極拳を改変したものです。どうせ源流をうたうなら陳式太極拳を改変すればよかったのに。太極拳を売り物にしようぜってなったときに、陳式太極拳の先生が見つからなかったんでしょうね。

簡単にまとめれば、武当道は玄天上帝信仰を主軸とした内丹派系統の道教宗派の一つで、現在は張三丰の伝説を利用して武術を見世物にしている観光地です。