道教の神々:干支と六十太歳星君

本日は農暦の1月1日。正月初一です。
本日から干支は壬寅となります。
「干支」を「えと」と読んで「十二生肖」と混同するのがいかに間違っているかは以下の記事に書いてあります。
どっちも読むのはめんどくさいという人のために一応説明しておくと、
・干支:十干と十二支による60パターンの組み合わせ
・えと:十干の陽を兄(え)陰を弟(と)としたもの。要するに十干そのもの
・十二生肖:十二支に後付で動物を当てはめたもの
干支はえとではないし、えとは十二生肖ではありません。「今年は寅年です」は正しいけれど、「今年の干支はとら年です」はなんもかんも間違っています。
正しく言うなら今年の干支は壬寅で、えとは壬(水の陽・みずのえ)、十二生肖が虎です。
道教と六十太歳星君
道教には六十太歳星君という六十柱の神々がいます。
これは、60種類の干支にそれぞれ一柱ずつの神様を割り当てたものです。

六十太歳星君と斗姥元君:新北市淡水清水巖祖師廟
教養や他国の信仰への敬意に欠ける日本人がその奇抜な見た目から由来もなにも知らずにただ面白がっている甲子太歳金辨大将軍は、その名の通り甲子年、つまり最初の干支に対応した神様です。
広い廟の場合は六十太歳星君すべての像が祀られていることもあります。
また、廟によっては特にその年の干支にあたる神様がその年の太歳神として祀られます。その年の太歳神は値年太歳と呼ばれます。

値年太歳、撮影時の干支は戊戌だったので姜武大将軍:基隆市奠濟宮
それほど広くない廟では、位牌やボードの形で太歳神が祀られ、その年の値年太歳の神名が記された札がかけられています。

値年太歳パネル。撮影時の干支は丙申だったので管仲大将軍:台北市醒心宮仙公廟
値年太歳は、日本で言うところの年神様にあたります。今年壬寅年の太歳神は壬寅太歳賢諤將軍です。
壬寅太歳賢諤將軍の人間時代の名前は賀賁。現在の湖北省鄂州市にあたる鄂縣で生まれました。『元史』列伝に、世祖フビライに仕えた漢人の賀仁傑の父として記されています。
それによれば、賀賁には才略があり、よく戦って数々の軍功をあげたと言いますから軍人だったようです。
関中での戦で戦死者が積み重なっているのを見て、私財をなげうって土地を買い、戦死者を弔った有徳の人でした。
ある時上司に賄賂を贈らなかったことから無実の罪で投獄されるも、それを聞いたフビライが怒ってその上司を誅殺し、フビライ即位後には金符を与えて現在の陝西省あたりにあたる京兆諸軍の総管に任じ、死後には忠立義功臣等の名を贈られて雍國公に追封されています。
とまあ、歴史的にはそれほど有名ではないけれど、なかなかに立派な人物です。
六十太歳星君には、管仲や郭嘉などそれなりに有名な人もいるものの、大部分は史書に小さく記されているような人物が選ばれています。
値年太歳の他に、六十柱の太歳星君のうち、自分の生まれ年の干支に対応する神様が自分の守り神になるという考え方もあります。台湾の指南宮、松山慈祐宮、松山奉天宮などは六十太歳星君全ての像が祀られる太歳殿が供えてあり、自分の守り神の太歳神を拝することができるようになっています。
太歳の由来
古代中国では、木星を「歳星」と呼び、すでに春秋戦国時代には歳星が天上を約12年かけて一周することを発見していました。
それを利用して寿星、大火、析木と名をつけて1年ごとの経過を記録するようにしたのが歳星紀年法です。
古代中国には十二辰という天を十二等分して十二支に当てはめたものがありました。これは東から西に向かって周回することになっていました。ところが歳星、つまり木星は西から東に向けて周回します。
そこで、運行を十二辰と合致させるために、歳星と対角線上を動く星が想定されました。それが太歳です。太歳は歳星とは異なり実在しない星で、東から西に向けて運行し、十二辰の順番で天を巡ります。
こちらにも十二箇所それぞれに困敦、赤奮若などの名前がつけられました。太歳を基準とした紀年法を太歳紀年法と言います。
しかし年の名称が12個なのは少なすぎました。例えば困敦年になにか事件があったと記録しても、それいつの困敦年だよって話になるわけです。そこで太歳紀年法には十干も付け加えられて、十干それぞれに名前がつけられ、十干の年を歳陽、十二支の年を歳陰として、陰陽を組み合わせて紀年法としました。
これが後に干支、即ち十干と十二支を組み合わせた干支紀年法となります。
干支紀年法ではすでに太歳の運行は無視されるようになったものの、その成立には歳星、そして太歳が強く関係しています。
太歳信仰
古代中国では占星術が盛んで、太歳紀年もまた占いにも利用されていました。
また、風水にも応用されていたようで、東漢の思想家王充が著した『論衡』にはこんな記述があります。
世俗起土興功歲月有所食 所食之地 必有死者 假令太歲在子 歲食於酉 正月建寅 月食於巳 子寅地興功 則酉巳之家見食矣
世俗では、土を起こすときに歲と月の食により功が興るという。食べられる地では必ず使者が出る。例えば太歳が子の位置にあると歳は酉を食う。正月に寅に家を建てると、月は巳を食い、子寅には功が興る。即ち酉と巳の家は食を見る。
いや直訳するとわけわかんないですけれど、要するに太歳の位置と家を建てる方角に相関関係があって、その相関関係によって吉凶があるよというようなことだと思います。
ちなみにこれについて王充は
如考實之 虛妄迷也
現実的に考えたらこんなのは虚妄の迷信だ。と切って捨てています。王充は2000年も前の人なのにとにかく思想が合理的で、例えば黄帝が龍に乗って昇天したという伝説に対しても、そもそも黄帝って誰だよ、龍に乗って天にいくはずないんだから、それ死んだってことだろ。などと現代のネット民のツッコミのようなことを書き記していておもしろいです。
太歳を用いる占いは、他の占い同様吉凶を見るものでした。
『論衡』にはまた、避太歲という日本で言うと方違えのような、太歳の方角を避けるような風習も記されています。まあこれについても王充は、こんなこと言ってたら天下の民はみな凶じゃねえかとツッコミを入れています。現代人なら当たり前の感覚を2000年前の人が持っていたのはすごいですね。
とにかくそんな調子で、王充のような考え方をできない迷信深い一般人は太歳の占いを信じ、特にその凶の部分を必死に避けるようになりました。王充の時代には、すでに太歳そのものが凶星だという誤解が生まれました。
王充も
太歲 歲月之神 用罰為害
太歳は歳月の神で、罰をもって害を為す。と記しています。
その太歳が人格神になったのは南宋のころだと考えられています。
南宋のころに著された『道法會元』は、その名の通り道教の方術について記した本です。その中に「天心地司大法」という方術があり、そこに「太歲大威力至德元帥殷郊」あるいは略して「太歲殷郊」と記されています。
殷郊は『封神演義』に紂王の王太子として登場する架空の人物で、最終的に執年歲君太歲之神に封じられます。
さてここで私は大きな間違いに気づきました。殷郊は『封神演義』で作られたキャラクターだと勘違いしていたのですが、『封神演義』よりもっと以前に太歳神として作られていたわけです。
ただ、太歳神が人格神としてキャラクター付けされるために殷郊が作られたのか、それともこれ以前に殷郊という存在が作られていて、それが太歳神として利用されたのかはわかりません。
元代に著された『三教源流搜神大全』では「太歳殷元帥」として記されて、より明確なキャラクター設定が作られたというのだけれど、一次資料がないのでここでは詳しくは触れません。いずれにせよ、宋から元にかけての時代に殷郊が太歳神として設定され、それが『武王伐紂平話』に取り入れられ、『封神演義』にも受け継がれたという流れのようです。
六十甲子太歳の誕生
太歳神の人格神化は殷郊という架空のキャラクター1人に擬せられることで始まりました。では、なぜ一柱の人格神にされた太歳神が、60の干支に対応する60柱もの神々になったのでしょうか?
そのヒントになりそうなのが、明代に著された『三命通會』にある「論太歳」です。ここにはこう記されています。
又有真太歲 征太歲之說 經云生時相逢真太歲 假如甲子生人又見甲子年 謂之真太歲又名轉趾煞 要大運日主與太歲相和相順其年則吉
また、真太歳と征太歳という説もある。経典にいわく、生まれた年の太歳が真太歳で、例えば甲子生まれの人にとって甲子年は真太歳もしくは轉趾煞と言う。日主と太歳が和して順であれば、その年は吉となる。
日主は生まれた日の十干のことを言い、日主とその年の太歳が相性がよければ吉だということだと思います。
つまり、ここではすでに干支と太歳が結び付けられているということです。ただ、この記述を見るとここで言う太歳は人格神を指しているようには思えません。
では人格神としての六十太歳が作られたのはいつか?
南北朝の時代にはすでに60の干支それぞれの太歳神が作られていたなんていう情報もありますが、これまで見てきた経緯を考えればそれは信用できません。
現在の六十太歳が明確に記されているのは清代に全真教龍門派の道士が著した『太上靈華至德歲君解厄延生法懺』だと言います。六十太歳の中に元代の武将が入っているのだから、元以降に作られた設定であることは間違いありません。また、元を北に追いやることで成立した明の時代に、フビライに仕えた武将が神格化されることも考えにくい。となれば、やはり清代に作られたと考えるのが妥当ですね。
なお、殷郊は六十甲子太歳には入っていません。
殷郊は現在では、道教の一部宗派で四大護法神の一柱となっています。

護法神殷郊元帥:坂戸市聖天宮





