道教の神様には誕生日がある

本日2月9日は農暦の1月9日。道教の最高神・玉皇大帝の誕生日にあたります。
道教では基本的に神様の誕生日に祭礼が行われることになっています。
位の高い神様、人気の高い神様の誕生日だと、神像を神輿に乗せて町をめぐる繞境=パレードが行われることもあります。
玉皇大帝の誕生日には、古い時代だと信徒が早朝から沐浴をして身を清め、玉皇大帝を礼拝してその年の豊作を願うというようなことも行われていました。
逆に言うと、農業社会で年頭にあたり豊作を願うために、最高神の誕生日が年の初め頃に設定されたのかもしれません。
玉皇大帝の場合、誕生日に繞境は行われないようです。道教のお祭りが盛んな台湾でも見たことはありません。
その理由は調べても探し当てられなかったのであくまで推測として言うと、天界の皇帝である玉皇大帝がわざわざ地上に降りてきて巡察をする必要はないということなのかもしれません。
神様の誕生日
日本の神様には誕生日はありません。
いや正確に言えば、実在の人間が神格化された神様なら人間時代の誕生日はあります。しかし、神道ではその人間時代の誕生日に合わせてなにか行事が行われることはないし、もしかしたら古代の人物がモデルかもしれないけれど、基本的には架空の存在である天照大御神のような神話の神々に誕生日の設定はありません。
例えば菅原道真が神格化された天神さまには天神祭があって、菅原道真の命日に行われます。あるいはこれは人間として命を落とし、神様として生まれ変わったという意味合いもあるのかもしれないけれど、由来としては禊祓い、つまり神様としてお祀りするので祟りを起こさないでね、てへぺろというものですから生誕祭ではありません。
徳川家康が祀られる日光東照宮の例大祭は春と秋の二回行われていて、これも家康の誕生日とは関係ないです。
そもそも日本では江戸時代までは年齢は年が明けると1つ繰り上がるという考えで、個人個人それぞれの誕生日という概念は明治時代になってから西洋から輸入されたものゆえに、神様の誕生日という発想はなかったのでしょう。
それに対し、道教ではほとんどの神様に誕生日が設定されています。
中国では古代より「生辰八字」を基準にその人の命運を占う習慣がありました。もちろん古代でその対象になるのは士大夫階層以上の人だったはずです。
生辰八字とは、生年、月、日、生まれた時間それぞれの干支2つずつを組み合わせたもの。ここで言う干支は、当然日本語の「えと」ではなく正しい意味での干支です。
例えば2022年1月1日の午前0時ごろに生まれた男性の場合、生辰八字は辛丑 庚子 甲寅 甲子となります。
生辰八字を用いた占い「八字命学」は現在でも行われていて、日本ではそれは四柱推命と呼ばれています。四柱とは生まれた年・月・日・時間のことなので、このどれかが欠けると正しい占い結果は出ません。生年月日だけで時間を省いて行われているのは四柱推命とは呼べないということですね。まあ占いに行くような日本人の大部分は自分に都合のいいことだけ言ってもらえれば満足するんだから不正確な情報から占われた適当な結果でもいいのでしょう。
この生辰八字はその人の一生の命運を左右すると考えられていたため、後によい生辰八字を持って生まれてくるように願う八字娘娘という神様も作られました。

八字娘娘:新北市石門四面仏金剛宮
そうした文化があったからこそ、神様にも誕生日があるという発想が生まれたのだと思われます。
定まった命運は変わらない
ところでよくフィクションなどで「どんな運命でも変えてやる!」みたいなセリフが出てきますね。「定まった運命」に逆らい、切り開く姿に思わず胸アツになった人も多いでしょう。
日本人が「運命」と呼んでいるものは、中国語では命運、もしくは単に命と呼びます。その命を読み解く技術が「算命」つまり八字命学など人の命運を扱う占いです。
生辰八字は変えようがありませんから、生辰八字によって定まった命運も変えようがありません。このような変えようがない命運を「宿命」とも呼びます。「宿」は寝泊まりするの意味ですが、そこから転じて停滞する、留まるといった意味を持ちます。宿命は自らがどうあがいても変えようがない留まった命運です。
だから現世でどんなにあがいても命運は変わらないんですよね。
どんなにがんばっても報われない人がいるし、どれだけ非道なことをしても長生きしていい生活をする人もいる。これは命運で決まっていることだからしかたない。と考えるのが宿命論です。
日本ではそういう考え方は嫌われます。「努力すれば報われる」のほうが日本人の好みには合っています。現実には努力しても報われなかった人のほうが多いけれど、ほとんどの日本人は努力すれば必ず報われる、あきらめなければきっとかなう、という呪いに洗脳されています。
私がその洗脳から逃れることができたのは『荘子』を読んだおかげでした。
『荘子』は天命論に立ちます。人の命運は天地を統べる「道」によって定められており、人はそれに逆らわず生きてこそ心を安んじることができるというのが荘子が説く無為自然のありかたで、それゆえに「死生命也=人の生き死にを定めるのも命運である」となるのです。
荘子の考える命運とは例えばこうです。申徒嘉という刑罰で足を切られた人物がそのことで同じ師につく友人に侮られたときに言います。
知不可奈何而安之若命 惟有德者能之
どうにもできないことを知り、その命運に安んじていられるのはただ有徳の者のみができることだよ。
そして、形にとらわれるのは間違いであると友人を諭し、友人もそれを聞いて反省します。
正直最初に『荘子』を読んだときはなんてネガティブな、後ろ向きな思想なんだと思いました。当時はまだ無駄にポジティブでいることが正しいと洗脳されたままでしたから。
しかし、なぜか気になって『荘子』を何度も読み返すうち、むしろ定まった命運を何事もそういうものだと受け入れて、無駄なあがきをしないほうが本当の意味でポジティブではないかと思うようになりました。洗脳が解けたのではなく『荘子』の洗脳に上書きされただけと言えるかもしれませんが。
少なくとも、成功した人を見てひがむより、成功した人はそういう命運で、自分はそういう命運ではないと受け入れたほうが、前向きな気持ちになれるんじゃないかと思いますね。






