龍と道教

龍は中国文化とは切っても切れない存在です。かつては皇帝の象徴あり、中国そのものの象徴でもありました。龍を抜きにして中国を語るのは不可能だと言っても過言ではないでしょう。

そんな龍は当然のことながら道教にも取り入れられています。

取り入れられたというよりは、道教が形成されていく時点ですでにそこに存在していました。

道教の廟に行けば、そこら中に龍の絵や彫刻などを見ることができて、龍は道教という宗教を形作る不可欠な要素の一つであるとも言えます。

今回はそんな龍と道教との関わりについて見ていこうと思います。

龍は実在の動物?

まず前提として、ここで扱う「龍」は中国文化の中に生まれた「龍」に限定しています。日本では西洋のドラゴンも龍の仲間に入れられたり、逆に龍もドラゴンと言われたりするけれど、ドラゴンはまったく別物として考えます。

十二支から十二生肖が作られた時に、辰に相応する動物として龍が選ばれました。龍は十二生肖で唯一の架空の動物です。

ただ、歴史が始まるか始まらないかというはるかな古代の中国では「龍」は実在する動物だったかもしれません。

中国の考古学者・衛聚賢教授は龍の原型はワニにあると指摘し、日本の爬虫類学者・青木良輔氏は龍とはかつて中国に生き残っていたマチカネワニの仲間ではないかと推測しました。

青木氏の説は、最近の日中共同研究からも補強されています。

つまり、夏か商のころは大型種のワニのことを「龍」と呼んでいた。これが事実であるならば「龍」と呼ばれた動物は実在していたことになります。商代の遺物にある龍の意匠を見ると、現在の龍より体が短く地面に四つ足をついた姿で、ワニがモデルと言われたら確かにそうかもしれないと思わせられるものもあります。

青木先生は、商の末期に起きた寒冷化によって温暖な気候を好むワニが絶滅した可能性を挙げています。

でっかいワニが絶滅し、龍という言葉とイメージだけが残ったところに想像が加わって、現在の幻獣としての龍が作られた。という説はなかなかに説得力があります。

青木先生の著書『ワニと龍』は非常におもしろい内容でぜひ読んでほしいところですが、残念ながら絶版です。私は図書館で借りて読みました。興味があったら近所の図書館にないか探してみてください。

古代の龍蛇信仰

龍の正体は古代のワニだったという説とは他に、古代の蛇神信仰が発展し、龍の信仰になったという説もあります。

というより、蛇、蛟、あるいは中国に伝わったインドのナーガ信仰が龍という形になったとする説のほうが一般的です。

蛇の信仰は世界中に見られ、日本にも蛇神信仰はあります。現在でも蛇神を主祭神としたり、蛇を神の使いとして祀る神社が日本各地にあります。ヤマタノオロチの神話は、蛇をトーテムとする民族と牛をトーテムとする民族の争いの歴史を描いたものだなんていう説もあるようです。

中国の新石器時代、だいたい紀元前5000年から紀元前3000年ぐらいにあったという仰韶文化の遺跡からも龍をかたどった遺物が発見されています。


http://yn.people.com.cn/n2/2022/0302/c372453-35155852.htmlより画像引用

仰韶文化の一つ・西水坡遺跡から出土したこの龍の図案を見ると、これもやはりワニかトカゲがモデルではないかと感じます。足が体の外に向かって生え、踏ん張るように歩くのはトカゲやワニの特徴です。

古代中国では異民族とされていた百越の民族の中にも龍蛇信仰を持つものがあり、日本に龍蛇信仰をもたらしたのも百越の渡来人だという説もあります。

龍はもともと水と関係が深いものでした。

5月5日の端午節にドラゴンボートレースをするのは、百越の民が川に住む龍、もしくは龍の原型となる蛇神のような神に供物を捧げるため船で競争をしたのが由来だと言われています。そのときに捧げた供物が粽となり、後に屈原の伝説と結び付けられました。つまり元々中国南方の越の方で信仰されていた龍なり蛇神なりは水に住む神様です。

時代が下るにつれて、越が「中国」の枠組みの中に取り込まれていくのと同時に、そうした信仰も取り入れられて、龍の信仰を形作る要素になったものと考えられます。

古典籍に見られる古代の龍蛇信仰

『山海経』には古代の龍蛇信仰の断片が見られます。

南山経には龍身で鳥首を持つという神、西山経には人のごとき顔に龍身の鼓という生き物、東山経には人身龍首の神が記されています。

中山経には、人身龍首の神やら馬身龍首の神やら龍身人面の神やら、頭が龍だったり体が龍だったりする合成獣がいろいろ列記されています。

龍の一種として特によく目にする應龍も『山海経』が出典ですね。

『山海経』大荒東経に

應龍處南極 殺蚩尤與夸父 不得復上 故下數旱 旱而為應龍之狀 乃得大雨

應龍は南の極みに住む。蚩尤と夸父を殺したために天に帰れなくなった。そのため旱魃が起きても應龍がいるために大雨を得られた。

蚩尤は黄帝に対してクーデターを起こし征伐された神、夸父は巨人の神です。

大荒北経にも

應龍已殺蚩尤又殺夸父 乃去南方處之 故南方多雨

應龍はすでに蚩尤と夸父を殺し、南方に住んだ。故に南方には雨が多い。

とあります。

同じ大荒北経には、黄帝が蚩尤と戦った時に應龍に冀州之野を攻めさせたともあります。

『山海経』が作られたのは紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてと考えられており、そのころにはすでに龍は天に住むもの、そして雨を司るものとして考えられていたことがわかります。

おそらく『山海経』より成立が古い『周易』にも、

飛龍在天

雲從龍

とあるので、龍が天に昇るものだったり、あるいは雲が龍に従うものだという認識は、春秋時代かそれ以前にあったのですね。

紀元前2世紀にまとめられた『淮南子』墬形訓にも

土龍致雨

とあります。ここに言う土龍はもぐらではありません。もぐらに土竜と当てたのは日本人です。

『礼記』に

何謂四靈 麟鳳龜龍謂之四靈

何が四霊だと言われるのか。麟、鳳、亀、龍が四霊と言われるのだ。

とある四霊。このうち、龍は後に應龍のことだと考えられるようになりました。

また、『淮南子』天文訓には、天の五行=五星に対応する瑞獣として蒼龍、朱鳥、黄龍、白虎、玄武が挙げられ、

中央土也 其帝黃帝 其佐後土 執繩而制四方 其神為鎮星 其獸黃龍

中央は土である。その帝は黄帝、その補佐は后土、法令を執行して四方を制した。その神は鎮星、その獣は黄龍である。

と説明されています。

后土は後に道教で天帝を補佐する四御の一柱とされる地母神です。

ここで黄帝と黄龍が結び付けられたせいか、蚩尤との戦いで黄帝について戦った應龍が、後に黄龍と混同されることになります。

非常に多くの龍の種類が列記されている『淮南子』墬形訓には黄龍、青龍、赤龍、白龍、玄龍の「五龍」も見えます。黄龍は正土之氣から、青龍は偏土之氣から、赤龍は壯士之氣から、白龍は弱土之氣から、玄龍は牝土之氣からそれぞれ生まれると記されています。

ワニの古代の名称ではなく、架空の霊獣としての「龍」への信仰は、大雑把に春秋戦国時代ごろから広まり、漢代にはその設定がだいたい固まっていったものと見られます。

龍は神の乗り物扱いだった

龍が皇帝の権威と結び付けられるようになったのは漢代です。

『史記』高祖本紀に劉邦を形容してこうあります。

高祖為人隆準而龍顏美須髯

高祖は鼻が高く龍顔で、ひげが美しかった。

またこんな記述もあります。

常從王媼武負貰酒 醉臥武負王媼見其上常有龍怪之

高祖はいつも王媼と武負に酒をもらっていた。高祖が酔って寝ると、いつもその体の上に龍がいるので武負と王媼は怪しんでいた。

龍顔は龍のような立派な面相だったというただの形容だと思います。ただしこれより後「龍顔」は皇帝のご尊顔という意味で使われるようになりました。日本でもこれをパクって、太平洋戦争が終わるまでは天皇のお顔を龍顔と言っていました。

その下は劉邦が泗水の亭長だったとき、王媼と武負という人の店で酒をたかっていたという話。そんな時代から劉邦には龍の気があり、皇帝になる瑞兆を現していたと持ち上げているわけです。劉邦が飲みに行くといつも売上が倍増するので、この2軒の店は劉邦から酒代をとらないようになったと続きます。実際には亭長という立場を利用してタダ酒をせびっていただけだと思いますけどね。

とまあ、もう漢代には龍は皇帝をあらわす偉い瑞獣になっていました。

しかし『山海経』が書かれた戦国時代から西漢初期ぐらいだと、龍はそんなに偉い獣ではありません。

『山海経』初期に作られた南山経・西山経・北山経・東山経・中山経に出てくるのは、辺境にいる頭か体のどちらかが龍の怪しい神たち。これは地方の民族が信仰していた神々が元ネタかもしれません。

続く海外南経では、後に火の神として祀られる祝融が獣身人面で龍に乗る。海外西経では、夏の后啟が大楽の野で九代舞って龍に乗る。海外東経では、東方の勾芒は鳥身人面で龍に乗ると、龍は神の乗り物として描かれます。

海内北経でも冰夷は人面で2体の龍に乗ると相変わらず乗り物扱い。

大荒東経になってやっと雨を降らす能力が示唆される応龍が登場します。

『史記』より少しはやく作られた『淮南子』ではどう扱われていたかというと、まず原道訓にはこうあります。

泰古二皇得道之柄立於中央 神與化遊以撫四方 是故能天運地滯轉輪而無廢 水流而不止與萬物終始 風興雲蒸事無不應 雷聲雨降並應無窮鬼出電入 龍興鸞集

伏羲と神農の二皇が道の根本を得て中央に立ち、神気と造化の働きが交わって四方を安撫した。それゆえに天は動き地は安定して、その転変に終わりがなくなった。水は万物が終わるまでその流れを止めず、風と雲は応じ合わないことはない。雷と雨の反応は無窮で、霊が出て電撃が入るかのようにその変化は計り知れず、龍と鸞が集まる。

伏羲と神農が道の根本を得る。これは道教では成仙したと解釈されるところですが、『淮南子』は道教ができる以前の書物であり、老荘思想の影響が強いので、世界の根本である道と一体となったと解釈するべきでしょう。そうして世界が安定し、安定しながらも変化し続けるようになって、龍と鸞が集まってきた。

鸞は『山海経』だと

有鳥焉 其狀如翟而五彩文 名曰鸞鳥 見則天下安寧

鳥がいる。その姿はキジのようで五彩の文様がある。名を鸞鳥といい、見ると天下が安寧になる。

とあって、瑞鳥として信仰されていたことがわかります。

また『淮南子』墜形訓では

羽嘉生飛龍 飛龍生鳳皇 鳳皇生鸞鳥

と、鸞は鳳凰から生まれるとしています。

原道訓では文脈的に龍を陽、鸞を陰の象徴として描いているように思います。

時則訓では

天子衣青衣 乘蒼龍

と、『山海経』では神の乗り物だった龍を皇帝の乗り物としています。これにより皇帝を神と同等の貴きものだと言っているのかもしれません。

『淮南子』の時点では、龍はまだ神や皇帝を天に連れて行く乗り物という扱いでした。黄帝が龍に乗って昇天したという伝説もその認識の上に立っているものと考えられます。

雨をもたらす瑞獣である一方で、単なる乗り物扱いだった龍は、西漢を境に皇帝と一体のものとして神聖視されていきます。

しかし一方でこんな記述もあります。

東漢になってから作られた現存する最古の漢字辞典『説文解字』の「龍」の項。

龍 鱗蟲之長 能幽能明 能細能巨 能短能長 春分而登天 秋分而潛淵

龍、鱗蟲の長。ステルス状態にもはっきり見えるようにもなるし、小さくも大きくもなる。短くも長くもなれる。春分になると天に登り、秋分には淵に潜る。

姿を消したり出したり、大きさを変えられたりというのはウルトラ怪獣っぽいですが、しかししょせん鱗蟲=うろこを持つ蛇やトカゲの長という扱いです。そこには偉さは感じられません。

宋代に著された『爾雅翼』には

龍春分而登天秋分而潛淵 物之至靈者也 淮南子言萬物羽毛鱗介皆祖於龍

龍は春分に天に登り秋分に淵に潜る。霊妙な気の至である。『淮南子』には万物の中で羽や毛、鱗や殻をもつ生き物は全て龍が祖であると言う。

となっています。しかし現代に伝わっている『淮南子』内篇にはこの一文はありません。出典を間違っていないのであれば、散逸した外篇にあった一文なのかもしれません。もし『淮南子』にこの文があったのであれば、それより後の『説文解字』は『淮南子』の記述を参照して「龍 鱗蟲之長」と記したのでしょう。

『淮南子』が淮南王劉安の生前に完成していたのであれば、遅くとも紀元前122年には完成していたはずです。司馬遷が『史記』を書き出したのが紀元前108年といわれています。とすると、20年から30年の間に龍は爬虫類の長の天への乗り物から、皇帝の権威を象徴する聖獣へと大出世したことになります。

さてこれは、当時の社会の風潮としてそうだったのか、それとも司馬遷が何らかの意図をもって仕込んだことなのかわかりませんが、まあそれについてはテーマと異なるのでどうでもいいです。

道教興隆後の龍の扱い

漢帝国の終わりと期を同じくして、それまでの方士の術、神仙道、シャーマニズムに老子の思想などをいろいろ取り混ぜて道教が形成されていきました。

そんな初期の道教では龍はどういう扱いだったのか?

『抱朴子』にこんな一節があります。葛洪が、始まりがあれば終わりがある。不老不死の仙人などいるものか。と非常にまっとうな理論で仙人を否定する人に対して、仙人はいるんだい!と言い張るシーンです。

若謂受氣皆有一定 則雉之為蜃 雀之為蛤 壤蟲假翼 川蛙翻飛 水蠣為蛉 荇苓為蛆 田鼠為蛆 腐草為螢 鼉之為虎 蛇之為龍,皆不然乎

もし気を受けた者が一定の変化をするというなら、キジが蜃になったり、スズメが蛤になったり、地面をはいずる虫に翼が生えたり、川のカエルが飛び上がったり、貝がカゲロウになったり、荇や苓などの草が蛆になったり、田鼠がウズーラになったり、腐った草がホタルになったり、ワニが虎になったり、蛇が龍になったりするのも間違っているというのかね?

間違ってるだろ!

このツッコミどころ満載なところが『抱朴子』のおもしろいところです。仙人を否定する意見のほうがまるで現代人のような合理性があり、葛洪がそれに対してイミフな屁理屈で反論するのを見ると、葛洪君って現代に生きてたらやっかいなオカルトオタになってただろうなと思います。

キジが蜃という幻獣になったり、スズメが蛤になるとかアホかと思いますが、これは一応出典があります。

『国語』晋語に

趙簡子歎曰 雀入於海為蛤 雉入於淮為蜃 黿鼉魚鼈莫不能化 唯人不能 哀夫

趙簡子こと趙鞅が嘆いて言った。「雀は海に入れば蛤になり、キジは淮河に入れば蜃になる。すっぽん、ワニ、魚など変化しないものはないというのに、人だけが変化できないなんて、はふぅ

『礼記』に

桐始華 田鼠化為鴽

桐は花をつけはじめ、田鼠はうずらになる

と書いてあります。なんでそうなるかは書いていないので、古代人にとってはこれが常識だったのかもしれません。

葛洪は文献バカなところがあり、劉向みたいな博学の人が『列仙伝』を撰して70人以上の仙人をとりあげているから仙人はいるんだい!と言い張っています。

なので、過去の文献に書いてあることは本当のことなんだよ!と思っているようです。勉強ができるアホとは葛洪のことです。

で、葛洪がアホなのはおいといて、葛洪は蛇が龍になると思っていたのですね。この部分は出典が不明なのだけれど『淮南子』墬形訓の「介鱗生蛟龍」あたりが元かもしれません。

葛洪がご執心だった外丹術、つまり丹砂などを使って仙薬を錬成し、それをもって仙人になろうとする術は東漢末ごろから行われるようになりました。葛洪はその系統を継ぐ道士というか外丹オタです。

多分三国時代ごろに書かれたんじゃないかなという外丹の書が『周易参同契』です。『周易参同契』には数多くの「龍」の字が見られますが、これは丹薬を作る火加減や段階などのメタファーとして使われており、このように道教、特に外丹や内丹の書では龍は幻獣として以外に、例えやイメージを表現するものとしても使われるようになっていきました。

一方、古代よりあった龍が雨を司るといった信仰を引き継いだ宗派もありました。

晋代から隋に至るあたりのどこかで作られたと考えられている『太上洞淵神呪經』には「龍王品」があります。これは、様々な龍王に対して雨乞いをする内容になっています。またこの経典はおそらく「龍王」が初めて出てくる経典でもありますが、「龍王」については別記事で詳しく触れる予定なのでここでは触れません。

龍はまた風水とも結び付けられました。

晋代に書かれたと言われる『葬書』に

夫氣行乎地中 其行也因地之勢 其聚也因勢之止 葬者原其起 乘其止

気は地中を進み、気が進む道は地勢に左右される。気が集まるのは地の勢いが止まるからであり、そのような気が集まる起点や留まるところに死者を葬るのがよい。

とある地中を流れる気の道、唐代に書かれた風水書『雪心賦』では、そうした地中の気の流れは「龍脈」と呼ばれました。

同じく唐代の風水書『撼龍經』では龍脈の中で気が集まる龍穴の概念を説いています。

龍脈や龍穴は鍼灸の経絡や兪穴から発想を得たものかもしれません。

風水は元々は道教とは別個の文化だったものが、道教にも取り入れられています。

台湾の道教廟の中には「龍井」を設けているところもあります。

台北市の大稻埕慈聖宮にある龍井にはわかりやすい説明があります。


龍神興地脈
井水煥財源

龍神が地脈を興し
井戸の水が財源を照らす

台湾道教だとどんな神様も財神の要素を持たされる傾向があります。それを差し引いて考えると、龍神が地脈を活性化させることで地下水が生まれ、井戸水となると認識されているのだと思います。

古来よりの龍が水を司るという信仰と、後に結びついた風水が結合し、こうした形になったわけです。

皇帝の象徴にまでなったけれど、道教では天帝をはじめ様々な人格神が作られたために、龍の信仰は薄れました。

幻獣としての龍は、道教の中では結局こうした祈雨や井戸水の確保を祈るものとなり、しかし逆に雨や井戸といった生活に密着したライフラインを確保する存在として、より身近な存在になったとも言えるかもしれません。

道教の廟に行くと、様々な霊獣たちで装飾されています。その中でもよく見るのが龍のレリーフや彫刻です。

道教廟の入り口は「龍門」だし、門や屋根など至るところに龍があしらわれています。廟内の柱には龍が巻き付き「龍柱」と呼ばれます。


龍柱:台北市法主公廟

龍自体を神として祀る信仰は薄れたけれど、そのかわり道教では廟を守る守護獣になっているようです。


高雄市龍虎塔

しかし、その一方で龍は擬人化されて「龍王」という神にもなりました。それについては代表的な龍王「四海龍王」を中心に別記事で見ていこうと思います。