道教の神々:四海龍王

古代中国にあった龍蛇信仰、もしかしたら「龍」と呼ばれていたかもしれないワニを象った遺物、仏教とともにインドから伝わってきたナーガ、そんな様々な要素が入り混じり、現代まで伝わる「龍」のイメージが作られていきました。
古代より神の乗騎だと考えられ、あるいは祈雨の対象として信仰された龍は道教の中にも入り込んでいきます。
そんな龍と道教の関係は↓龍と道教に書きました。
支配者階層の中では皇帝の象徴とまでなった龍は、道教の中ではそれほど高い地位を得られませんでした。
しかし時代が下ると龍から「龍王」という擬人化された神が作り出されました。
その中でも代表的な龍王が「四海龍王」です。
龍王の誕生
龍は中国で生まれた霊獣です。
戦国時代ごろから作られだした『山海経』には、おそらく周辺の部族が信仰していたのであろう龍の頭や龍の体を持つ神がいろいろ記されています。龍が雨を司るとする記述も『山海経』に見られます。
そういう意味では道教に龍の神が作られる下地は道教が生まれるずっと前からできていたようなものです。
後の時代に道教という名称で総称されるようになる宗教は、東漢末の五斗米道や太平道を萌芽として晋代以降に花開いて行きます。
道教経典『太上洞淵神咒經』はいつ成立したか明確にはわかっていない経典で、大雑把に東晋から隋の成立ぐらいの間にできたと考えられています。
その『太上洞淵神咒經』にある『龍王品』には様々な龍王の名前が挙げられています。
道言 昔於三天之上以觀世界 伏見諸天諸地 疫炁流行 人多疾病 國土炎旱 五穀不收 兩兩三三 莫知何計 爾時 天尊乘五色雲 來臨國土 作大神通 變現光明 與諸天龍王 仙童玉女七千二百餘人 宣揚正法普救衆生
太上道君がその昔三天の上から世界を見ていると、あらゆる天地に疫気が流行し、多くの人が病気になるとともに国土は旱魃となって五穀が収穫できなくなっていた。問題が多すぎてどうすればいいかわからない。そんな時に元始天尊が五色の雲に乗って現れ、神通力で光明を現し、諸天の龍王や仙童、玉女ら7200人あまりとともに正法を宣揚して衆生を救った。
『龍王品』はこんな感じで始まります。
そして、東方青帝青龍王、南方赤帝赤龍王、西方白帝白龍王、北方黒帝黒龍王、中央黄帝黄龍王の五方の龍王から始まり、数えるのもめんどくさい大量の龍王が列記されます。
この五方の龍王は、『淮南子』墬形訓に記される五龍に王を付けてみたって感じです。
この『龍王品』に「四海龍王」が登場します。
道言 告諸衆生吾所說諸天龍王神呪妙經 皆當三日三夜燒香誦念 普召天龍 時旱即雨 雖有雷電 終無損害
其龍來降 隨意所願 所求福德長生 男女官職 人民疾病 住宅凶危 一切怨家及諸官事 無有不吉
汝等魔王及諸邪鬼 若聞此經不去者 頭破作七分 令絕根本 吾所說此經所厭者伏 所禳者卻
如有國土城邑村鄉 頻遭天火燒失者 但家家先書四海龍王名字 安著住宅四角 然後焚香受持 水龍來護
太上道君が言った。「諸々の衆生に告げる。我が説く諸天龍王の神呪妙經をみな三日三晩焼香して誦読すれば、天龍が召喚され旱魃でも即雨を降らすだろう。雷が落ちることもあるがそれで損害を得ることはない
天龍が来臨したときに願えば、福徳長生、男女の就職、病気や住まいの危険、一切の恨みや諸々のお上の事業など吉でないことはない
汝ら魔王や邪なる霊ども、この経典の誦読を聞いてもなお去らぬなら、頭は7つに裂けて一族は滅ぶであろう。我が説くこの経典を憎む者はひれ伏し、避ける者は去れ
もし国土城邑村郷が天の火によってしばしば失われることがあったとしても、家々で四海龍王の名を書いておけば住まいは安んじられ、香をたいて捧げれば水龍の加護を得られるであろう
そして
東方東海龍王 南方南海龍王 西方西海龍王 北方北海龍王
と、書いておくべき龍王の名称が示されます。
なんとも便利な神があったものです。しかし、本当にこの経典が東晋から隋の間という戦乱の世に作られたものならば、祈ればなんでも叶えて、災害からも守ってくれる神様は時代の要請として作られたものだったかもしれません。
南北朝から初唐ぐらいまでの間に作られたと考えられている『太上元始天尊説北帝伏魔神咒妙経』にも龍王の名前が見られます。
當先立吾形像 置三官之位 建九龍之壇 晨夕三時焚香行道禮念九龍名字 召五方龍王
まず我(元始天尊)の像を立て、三官大帝の位牌を置き、九龍の壇を建て、朝夕の三つ時に香を焚いて九龍の名を念じる儀式を行い、五方龍王を召喚せよ。
ここで言っている五方龍王は『太上洞淵神咒經』にある東方青帝青龍王、南方赤帝赤龍王、西方白帝白龍王、北方黒帝黒龍王、中央黄帝黄龍王のことだと思われます。
晋代には元始天尊という新しい神が作られて、晋から唐に至るぐらいの間に元始天尊が説いたとする仏典の様式をパクった経典がいくつも作られました。『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙経』もその一つです。
『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙経』と『太上洞淵神咒經』は実際のところどちらが先に作られたのかははっきりとはしません。ただ、道教の勃興期にはすでに「龍王」という神格が作られていたことは確かです。
『太上洞淵神咒經』には「與諸天龍王 仙童玉女七千二百餘人」とありますが、これは「諸天の龍王と、仙童玉女7200人」なのか、それとも「諸天の龍王仙童玉女7200人」なのか判断できないですね。後者であればこの時点で龍王は擬人化されていたと解釈できないこともないと思うけれど、多分この時点ではまだ龍王は霊獣の姿をした龍の中の王というイメージではないかと思います。
龍王と仏教の影響
「龍王」という神格が道教で独自に生まれたかというとちょっと疑問です。
中国に仏教が伝来したのは東漢の第2代皇帝明帝のころだというのが定説で、それ以降少しずつ中国に仏典がもたらされ、訳されるようになっていきました。
道教が形作られていく西晋の頃に活躍した訳経僧が竺法護です。竺法護が漢訳した仏典の中に『正法華経』があります。現在日本でも主として流通している鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』より100年以上前に訳されたバージョンです。この『正法華経』の冒頭、説法を聞きに来た聴衆たちの中にこういう記述があります。
有八龍王與無央數千諸龍眷族俱
八龍王と無数の数千諸龍の眷属が倶にあった。
ちなみにこの部分鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』だとこうなります。
有八龍王 難陀龍王 跋難陀龍王 娑伽羅龍王 和修吉龍王 德叉迦龍王 阿那婆達多龍王 摩那斯龍王 優鉢羅龍王等 各與若干百千眷屬俱
八龍王がいた。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、德叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王らである。それぞれ百千の眷属が倶にいた。
竺法護にはまた別に『仏説海龍王経』という経典も訳しています。海龍王が菩薩についてなど仏教に関する疑問を仏陀に質問して、仏陀がそれに答えていくという内容です。
おそらく「龍王」という言葉は竺法護によって作られました。
龍王は「ナーガラージャ」を漢訳したもの。ナーガはコブラをモデルにしたインドの蛇神です。ラージャは王様。日本でも耳にすることがあるマハーラージャ(マハラジャ)は「大王」という意味です。
竺法護が、明らかに蛇のナーガの訳語として蛇ではなく龍を選んだのは、ナーガが中国の龍と同様に天候を左右する能力をもつ神獣だったからではないでしょうか。
すでに晋代から竺法護ら訳経僧が訳した漢訳仏典の様式をパクった道教経典が作られ出しました。パクるということは、当時の道士たちが漢訳仏典をよく研究していたということです。
『太上洞淵神咒經』は20巻の○○品で構成されており、法華経の構成をパクったことは明らかです。
法華経をの構成をパクったなら、当然冒頭に登場する龍王のことも知っていなければおかしい。
『太上洞淵神咒經』は確実に竺法護が『正法華経』を訳したより後に作られました。おそらくは鳩摩羅什が『妙法蓮華経』を訳したよりも後です。
それまでただの龍だった幻獣が、急に「龍王」として描かれるようになったのは、仏典からのパクリだという可能性が高いと思います。
唐玄宗四海龍王を封じる
時代は下って唐代のこと。玄宗が「四海」を王に封じたと記録されています。この「四海」は「四海龍王」のことだと解釈されます。
唐玄宗と同時代人の密教僧に不空金剛がいました。空海の師・恵果のそのまた師であり、三蔵法師の一人でもあります。その不空金剛が漢訳した『大雲輪請雨経』という密教経典には、そりゃあもう大量の「龍王」が登場します。
『大雲輪請雨経』は、お釈迦様が『法華経』にも出てくる八龍王の一人難陀龍王の宮殿に寄寓し、龍王たちを集めて説法するという仏典のスタイルをとっています。しかし、実際にはそのタイトル通り、仏教経典というよりは雨乞いの呪文です。
唯然世尊云何能使諸龍王等滅一切苦得受安樂 受安樂已又令於此贍部洲時降甘雨 生長一切樹木叢林藥草苗稼皆生滋味
世尊はおっしゃった。龍王たちはどうすれば苦を滅して安楽を得られるか、安楽を受けてこの贍部洲に甘雨を降らせて一切の樹木や叢林、薬草、農作物を育て滋味を生ませられるか
世尊、つまりお釈迦様はそのための陀羅尼を授けます。陀羅尼っていうのは密教の呪文です。孔雀王が唱える「オンインドラヤソバカ」みたいに短いのが真言で、長いのが陀羅尼だという区別もあるそうですが、今ではあまり区別はされてないようです。
唐代は道教の時代でした。唐朝李家は、老子の本名が李耳だと伝えられていることから、老子を家祖とすることで皇統の権威を盛りました。そして、その時代にはすでに天師道などの宣伝によって老子が道教の創始者ということになっていました。嘘でもひたすら宣伝し続けることで本当のことだと認識されることはあります。万世一系とか。宣伝に重要なのは本当のことを伝えるのではなくでかい声で継続することだというのがよくわかります。
そんなつながりから、唐朝は道教を重んじました。
特に玄宗はお家の事情による建前ではなく、ガチで道教に入れ込み、茅山宗の道士司馬承禎から法籙を授かっています。
しかし、玄宗は同時に不空の師匠である金剛智が伝えた密教の保護も行いました。そればかりか不空より灌頂を受けています。
宋代にまとめられた『宋高僧伝』には、嘘か真か不空が勅命により雨乞いを行い雨を降らせたなんてことが書いてあります。『大雲輪請雨経』を訳したことから、不空自身にも雨を降らせる能力があったと思われたのかもしれません。
皇帝に灌頂を授けたほどですから不空の影響力は大きかったでしょう。
『旧唐書』には玄宗が四海を王に封じたという記録があります。
十載正月 四海並封為王
天宝10年の正月、四海を王に封じた。
続いてこうあります。
太子中允李隨祭東海廣德王 義王府長史張九章祭南海廣利王 太子中允柳奕祭西海廣潤王 太子洗馬李齊榮祭北海廣澤王
太子中允李隨は東海広徳王を祭った。義王府長史張九章は南海広利王を祭った。太子中允柳奕は西海広潤王を祭った。太子洗馬李齊榮は北海広沢王を祭った。
「龍王」とは書いていないので、これが本当に龍王としての「四海」を封じたのか他の神を封じたのかは微妙なところ。
ただ、天宝10年といえば司馬承禎が玄宗に法籙を授けた後です。またこの5年前の天宝5年には不空が玄宗に灌頂を授けています。
現在『正統道藏』に収録されているバージョンの『太上洞淵神咒經』で序文を書いている杜光庭は、司馬承禎の道統を継ぐ道士。当然司馬承禎も『太上洞淵神咒經』を知っていたはずです。
司馬承禎や不空と玄宗とのつながりを見ると、玄宗が龍王のつもりで四海を王に封じた可能性は高いように思えます。司馬承禎か不空のどちらかが、四海は龍王が統べていますから陛下が正式に王に封じてはいかがと吹き込んだかもしれません。
漢代以降「王」は皇帝が任じて派遣する地方領主を意味するようになりました。玄宗が龍王のつもりで四海を封じたのであれば、それは玄宗が龍王を臣下にしたことになります。
四海龍王の擬人化
玄宗が四海を「龍王」としてそれぞれ王に封じたとして、そのイメージは幻獣としての龍の姿だったのでしょうか?それとも擬人化された神としての龍王だったのでしょうか?
『太上洞淵神咒經』に出てきた龍王にしろ、法華経や『大雲輪請雨経』に出てきたナーガラージャにしろ、どんな姿だったのかはわかりません。
しかし、インドではナーガラージャを擬人化した神像が作られるようになっていました。人身の神の上に、コブラのような姿のナーガを乗っけている像です。
その影響を受けて中国でも龍王像が作られるようになると、中国的な龍を頭に乗っけた像になりました。
港区の久國神社には中国式の龍王像を模したと思われる龍王像があります。

港区久國神社
難点はおっさんが龍の着ぐるみを着ているようにしか見えないことですね。
おそらく唐代に作られただろうと考えられている『太一救苦護身妙経』では
爾時天尊說經畢竟 大會之中羣仙唱善 獅子能語鳳凰能言 魚龍成人 枯朽還生 蠢動含情 福資皆徧 巍巍堂堂皆得升仙
元始天尊がこの経典の説教を終えた時、聴衆の仙人たちは「ナイス!」と叫んだ。獅子や鳳凰は喋れるようになったし、魚や龍は人になった。枯れ朽ちたものは蘇り、地上で蠢くものたちにも感情が生まれた。経典のコンプリートボーナスで皆昇仙した。
と、元始天尊が説いた経典のご利益で龍が人になるばかりではなく、イベントクリア報酬みたいな感じで仙人になったシーンが描かれています。これは南方で新しく作られた元始天尊という神が、説法だけで人以外も昇仙させてしまう功徳を持つのだと宣伝したかったという意図を感じますが、まあとにかく唐代には龍が人の姿で仙人になったとする設定もあったことがわかります。
擬人化したキャラクターとしての四海龍王が広く認知されるようになったのはおそらく『西遊記』の流行によります。
孫悟空が仙術の修行を終えて花果山に帰ると、猿たちの楽園だった水簾洞府は混世魔王と名乗る妖怪に奪われていました。初期のカマセキャラでしかない混世魔王をさくっと倒した悟空は、臣下の猿たちに武器を与えて軍事教練を行います。しかし、どうも悟空本人にしっくりくる武器がない。
そこで臣下の進言によって東海龍宮に武器をせびりに行きます。出迎えたのは東海龍宮の主である東海龍王の敖広。龍宮にある様々な武器を差し出すもののどれも気に入らない。やっと気に入ったのが、禹王が海の深さを定めるために用いた神珍鉄でできた如意金箍棒でした。
敖広はさらに弟の南海龍王敖欽、北海龍王敖順、西海龍王敖閏を呼び寄せ、それぞれが持っていた藕絲步雲履、鎖子黃金甲、鳳翅紫金冠の装備一式を差し出してやっと悟空に出ていってもらいました。
宋代に作られた『西遊記』の原型の一つである『大唐三蔵取経詩話』には猴行者が9頭の龍をやっつけて背中の筋を抜くという話があって、これは後に哪吒が龍をぬっころす話に転用されるけれど、龍王は登場しません。
元代になり、すでにファンタジーの色彩を得ていた『大唐三蔵取経詩話』から、猴行者を原型とするお猿のお供が活躍する物語が作られるようになっていきました。そして『大唐三蔵取経詩話』のみならず、哪吒や二郎神君の物語なども吸収してしだいに完成形へと近づいていきました。
『西遊記』に四海龍王が登場し、またそれぞれ東海龍王敖広、南海龍王敖欽、北海龍王敖順、西海龍王敖閏の名称が付けられたのは、成立の課程でなのか、それとも現在に伝わる形で完成してからなのかは不明です。
ともあれ、四海龍王は『西遊記』において個人名を持つ擬人化された神としてはっきりと描かれるようになりました。
ここで付けられた四海龍王の名前のうち、東海龍王の広は東海広徳王から、西海龍王の閏は西海広潤王からと玄宗が四海を封じた王号に由来しているようです。
南海龍王の欽、北海龍王の順はどこに由来するのかわかりません。『太平御覧』に『龍魚河圖』からの引用として記される南海君視赤、北海君禹帳里とも違います。
四海龍王が「敖」姓になったのは『西遊記』からのようです。この理由として、古代楚国の王族が敖姓を名乗り、龍をトーテムとしていたことによるという考察があります。本当かどうかは別としてなかなかに説得力がある考察だと思います。
『封神演義』では東海龍王が敖光、南海龍王が敖明、西海龍王が敖順、北海龍王が敖吉と別の名前になっています。
哪吒が川辺で混天綾を洗濯すると、その川は東海につながっており、その衝撃が東海龍王敖光の宮殿を揺るがしました。そこで敖光の三太子・敖丙が見に行くとそこには哪吒の姿。敖丙が文句を言うと哪吒は敖丙を殺しました。殺された敖丙は、本来の龍の姿を現しました。ちょっともうこのあたりの哪吒の衝動的な暴力は意味不明です。
ここから見るに『封神演義』では龍が人の姿に変化していたという設定。おそらくは『西遊記』の龍王も同じような認識で描かれているのだと思います。だとすれば、『西遊記』の作者は龍王を人の顔をした神としてイメージしていたのかもしれません。
確かに『西遊記』も『封神演義』もフィクションです。特に『封神演義』なんかは道教から見ると独自設定が多くてツッコミどころ満載ではあるとはいえ、どちらも当時の道教の世界観や設定を色濃く反映していることは間違いないので、明代には四海龍王が人間の姿で信仰されていたのではないでしょうか?
では、擬人化されたところから頭が龍の姿になったのはいつのことなのか?これがさっぱりわかりません。
『山海経』まで戻ると、東山経には
凡東山經之首 自樕𧑤之山以至于竹山 凡十二山三千六百里 其神狀皆人身龍首 祠毛用一犬祈䎶用魚
東山経の最初にある樕𧑤の山より竹山に至るまで12の山をこえ3600里行くと人身で龍の頭の神がいる。その祠は犬一匹の毛を使ってあり、魚を使って䎶を行う。
中山経には
又東百三十里 曰光山其上多碧 其下多木 神計蒙處之 其狀人身而龍首 恒遊于漳淵 出入必有飄風暴雨
また東に130里行くと光山がある。山上には碧玉、山の下には木が多く、計蒙神が住む。その外見は人身で頭が龍。いつも漳淵で遊び、出入りするときには風が吹き暴雨が降る。
などなど、人身龍首の神の記述があります。東山経のほうにある「䎶」は、『康煕字典』によると
玉篇 以牲告神 欲神聽之曰䎶 山海經 祈䎶用魚 註以血塗祭爲䎶
『玉篇』では生贄をもって神に告げ、お告げを聞くことを䎶という。『山海経』では祈䎶に魚を用いる。註に血塗祭を䎶とする。
とあります。いや血塗れ祭りて…
魚の血でやるならそれほどすごい感じではないかもしれないけど…
現在出版されている『山海経』にはイラストがついているものがあります。すでに晋代には『山海経図』があったことがわかっていますが、それはすでに散逸しており、現在残っているイラストで最古のものは明代に作られたものです。その明代バージョンに、現在祀られている人身龍首の龍王像に近いイラストが付けられています

https://kknews.cc/culture/re93jbo.htmlより画像引用
どうもここらへんの神様のイメージが龍王にも転用されて龍が頭の龍王像が作られるようになった気がしますね。
そして、そうした神像の影響を受け、映像作品でも龍の頭の龍王が登場するようになったのだと思います。

1986年版中国中央電視台テレビドラマ『西游记』VCDよりキャプチャ
まあこのほうがいかにも「龍王」というイメージでわかりやすくていいと思います。
中国外の廟から見る四海龍王のビジュアルの変遷
ここで、中国以外の国にある龍王像から龍王のビジュアルの変遷を考察してみようと思います。
まず日本から。
沖縄に九天応元雷声普化天尊を主祭神とする天尊廟があります。これは14世紀、沖縄がまだ琉球国だったころに福建から移民した中国人が建てた廟です。
ここに「龍王殿」が合祀されています。関帝廟、媽祖廟など沖縄の他の場所にあった廟が老朽化や立ち退きなどで合祀されるようになったそうです。
こに祀られる龍王は人の姿をしています。

この神像は新しいので作り直したのだろうけれど、古くからあった像を元に作り直したのだとすれば、元々人の姿だったはずです。
合祀される前の龍王殿がいつごろ作られたものかは不明ですが、14世紀以降なのは間違いなく。その当時龍王が人の姿の神として祀られていたことがわかります。
次に台湾。
台南の全台祀典大天后宮に、人の顔をした四海龍王が祀られています。


全台祀典大天后宮は、元は台湾に逃げ込んだ明朝朱家に連なる寧靖王朱術桂の邸宅で、鄭氏政権を滅ぼした施琅が、鄭克塽が降伏した翌年の1684年に媽祖廟に作り変えたと言います。
現在ある四海龍王の神像がその頃のものとは思えないけれど、仮に1684年当時から四海龍王が祀られていたのだとすると、清代初期にはまだ四海龍王は人の顔を持っていたことになります。
ちなみに全台祀典大天后宮では四海龍王の名前は『封神演義』版を採用しています。

小説で作られた神や設定が現実の道教に取り入れられるのは珍しいことではありません。
同じく台湾の淡水福佑宮。ここには海神の水仙尊王の配下的な感じで龍王が祀られています。

見ての通り龍の頭に人の体の姿になっています。淡水福佑宮の創建は1796年。全台祀典大天后宮の創建より100年ほど後です。
この龍王は四海龍王ではないけれど、1684年から1796年の間に中国では龍王のビジュアルが人型から龍頭人身に変化していたことの証左にはなると思います。
よわよわな龍王
おそらくは四海龍王の初出だと思われる『太上洞淵神咒經』では、名前を書いておくだけであらゆる災害から守られるとわりと強キャラを思わせる扱いだった四海龍王。
ところがその数百年後に作られた『西遊記』での龍王の扱いはわりとひどいです。
孫悟空が自分が使う武器をタカりに龍宮に行った時、東海龍王敖広はあわてて飛び起きて自ら悟空を迎え「上仙、上仙」と下にも置かない態度でもてなします。呼び出された弟龍王たちも何もできず、悟空に言われるまま法器を差し出すと、敖広は玉皇大帝に「水簾洞の妖仙孫悟空にひどい目にあわされたでやんす」と泣きつくありさま。
また他に「涇河龍王」という四海龍王とは別の龍王が、長安で噂の占いの先生に天候を占わせました。すると天界からその結果と同じ天候にするように命令が来たので、外してやろうと少しだけ時間をずらしたところそれがバレて唐の功臣・魏徴に斬首されることになります。慌てた涇河龍王は、李世民のところに命乞いに行きました。そこで李世民は魏徴を呼び出して碁に誘い龍王の斬首に行かせまいとします。しかし魏徴は対局中に居眠りして夢の中で龍王を斬ってしまいました。
とまあ、龍王なんて御大層な神のわりにはだいぶ情けない描かれ方をしています。
『封神演義』では東海龍王敖光の三太子・敖丙が哪吒に殺され、敖光は哪吒の父で旧知の托塔李天王のところに抗議に行くものの、哪吒には「おじさん、ちょっとした間違いだから許してね」などと言われても、天帝に訴えてやると言い捨てることしかできませんでした。
『東遊記』でも八仙と争いになって天に言いつけて天兵の援軍を得ながらも八仙に負けて最後は観音菩薩のとりなしで講和を結ぶという役どころ。
こうした道教世界を舞台にしたファンタジーで、龍王が徹底的に弱く描かれるのは、龍が皇帝権力の象徴だからこそという意見もあります。
つまり、庶民が皇帝に不満を漏らそうものなら命が危ない。そこで皇帝の象徴としての龍王を物語の中でコケにすることで溜飲を下げたというわけです。『西遊記』では同様に天界の皇帝である玉皇大帝も孫悟空に翻弄されるちょっと情けないおっさんにされてしまっています。
龍王は、インドのナーガラージャが龍王と訳されたこと、そしてそのナーガラージャが擬人化された姿で中国に入ってきたことから人の姿の神となり、そこからさらに龍の頭を付けられるに至りました。顔がいかついキャラっていうのはコミカルに描かれがちなんですよね。でもそのおかげで人の顔のままよりキャラが立って、親しみやすい神様になっているのかもしれません。





