道教と七夕

早いもので今年も七夕の日となりましした。もっとも、年中行事のルーチンさえこなせば季節感は気にしない日本では、今日を七夕だと認識している日本人は皆無に等しいと思います。
七夕の由来などについてはすでに昨年解説しました。
今年は主に道教と七夕の関わりについて見ていこうと思います。
道德臘
まず、農暦7月7日は五臘のうちの道德臘です。
南北朝のころにできただとか、唐のころに作られただとか、例によっていつ作られたのか不明の『赤松子章暦』に「修齋吉日」としてこうあります。
三元 八節 甲子 庚申 三會 五臘 十直 本命 行年 四始
では五臘とはなんじゃ?については「五臘日」に説明されています。
王長謂趙昇真人曰 子知五臘日乎
趙昇真人曰 吾於鶴嗚洞侍右 聞先師與鬱華真人論之 五臘日者五行旬盡新舊交接 恩赦求真降注生氣 添神請算之良日也 此日五帝朝會玄都 統御人間地府五嶽四瀆三萬六千陰陽 校定生人延益之良日也 學道修真求生之士 此日可齋戒沐浴朝真行道
王長が趙昇に聞いた「君は五臘日を知っているかね?」
趙昇が答えて「吾輩は鶴嗚洞で師匠についていたときに、先師と鬱華真人が論じておるのを聞きました。五臘日は五行がそれぞれ極まって新旧が交代し、神の恩赦を得て生気を注がれ、神に請うてそれまでの行いを精算するのに良き日であると。この日は五帝が玄都に集まって、人間界、地府、五嶽、四瀆と3万6000の陰陽を統御して、生きながらえる人を選ぶ良き日であると。道を学び真を修める者はこの日に斎戒沐浴し、真行の道へ向かうべきであると。」
王長と趙昇は張道陵の弟子として伝わる仙人です。その趙昇が先師と言うからには当然張道陵のことを指します。鬱華真人は『抱朴子』に
昔赤鬆子 王喬 琴高 老氏 彭祖 務成 鬱華 皆真人
と記されてはいるけれど、『列仙伝』にも『神仙伝』にも記載はありません。
四瀆は4つの大河のこと。『風俗通義』に『尚書大傳』『禮三正記』からの引用として
江河淮濟為四瀆
長江、黄河、淮河、濟水を四瀆とする。
とあります。
五帝は中国神話における一般的な三皇五帝の五帝ではなく、東方青帝、南方赤帝、中央黄帝、西方白帝、北方黒帝の五方五帝です。
木火土金水の五行は、木生火→火生土→土生金→金生水→水生木という五行相生でループしていて、五臘は五行の一行が次の一行に転変する日だというわけです。

そして、正月一日天臘、五月五日地臘、七月七日道德臘、十月一日民歲臘、十二月王侯臘と五臘の名称と日付が述べられています。なんでか王侯臘だけは日にちの記載がありません。
道德臘についてはこう説明されます。
五帝校定生人骨體枯盛 學業文籍名官降益 其日可謝罪 請福 服氣 沐浴 祭祀先亡
其日不可伐樹碎石 食啖酸鹹 乘騎臨險
可導引攝理展舒筋骨
五帝が人間の体の枯盛を定め、学業、文籍、名官に益をもたらす。この日は謝罪、福を求める、服気、沐浴、先祖の祭祀を行うのがよい。
しかしこの日には木を伐採したり、砕石を行ってはいけない。酸っぱいもの塩辛いものは食べてはいけない。また騎乗しての臨検は行ってはいけない。
導引で皮膚を引っ張り筋骨を伸ばすのによい。
服気は簡単にいえば呼吸法です。簡単に言うと呼吸法ですが、正しい姿勢、正しい呼吸、正しい精神状態で行わなければ体を害するので実践するのは簡単ではないです。
呼吸法や瞑想によって神と交信したとか抜かしてるのは間違ったやり方で脳が酸欠状態になって幻覚を見た状態です。これは現代気功では偏差、禅では魔境と言って避けるべきものです。
導引は現代で言う気功の一種で、経絡を伸ばし気血の流れをよくする体操です。攝は引っ張る。理は中医学では皮膚のしわや汗腺・毛包などの毛穴を腠理と呼ぶので、文脈的に腠理のことだと解釈し、皮膚を引っ張るとしました。
まあ農暦7月7日といったらだいたい暑い時期ですからね、力仕事を避けて味の濃いものは食べないほうがいいし、体操をして体を引き伸ばし、汗が出やすい体にするというのは理にかなっています。
道教を信仰していない人も、日頃の行いを反省したり、普段運動しない人は軽く体操でもしてみるといいかもしれません。
玉皇大帝の娘
晩唐の詩人・韓鄂が撰したという『歲華紀麗』の七夕の項目にこうあります。
風俗通云織女七夕當渡河使鵲為橋
『風俗通義』では織女は七夕にカササギを橋として河を渡ると云う。
『風俗通義』はこの記事の「四瀆」の説明にも引用していますが、東漢に作られた風俗書というか、いろんな言葉をいろんな出典から解説しているような本です。
で、実のところ現在伝わっている『風俗通義』にはこの七夕に関する部分はないので微妙なところではあるのだけれど、もし当時本当に『風俗通義』にそう書かれていたのなら、漢代には牛郎と織女の天の河デートの原型ができていたことになるし、もし韓鄂が引用という体で自分で書いたにしても、唐代にはこの話があったことになります。
ただ、東漢にすでに牛郎織女の話ができていたのかなと疑問には思います。
東漢のころに撰せられた『古詩十九首』に『迢迢牽牛星』という有名な詩があります。
迢迢牽牛星 皎皎河漢女
纖纖擢素手 札札弄機杼
終日不成章 泣涕零如雨
河漢清且淺 相去復幾許
盈盈一水間 脈脈不得語
遠くに牽牛星、白く輝く河漢女
細腕を引いてさっさっと機を織る
一日中織っても布はできず、涙は雨のように流れ落ちる
銀河は清らかで浅いようだけれど、渡っていくにはどれだけかかるだろうか?
美しい水の間に見つめ合い言葉はない
詩才なんてものはありませんからほぼ直訳です。河漢は銀河のことで、河漢のほとりで機を織り、牽牛星を見つめる女性は確かに織女のことでしょう。ただ、このときは牽牛星を見つめるばかりだったのですね。銀河をはさんで瞬くアルタイルとベガを見てこんな詩を作ってしまった古代中国の文人はなんとまあロマンティックな心を持っていたのだなあと思います。
南朝梁を興した蕭衍の子の蕭統が作らせた『文選』に、唐代になって李善がつけた註釈の中にこんなのがあります。
曹植九詠注曰 牽牛為夫織女為婦 織女牽牛之星各處河鼓之旁 七月七日乃得一會
曹植九詠注に、牽牛は夫で織女は婦人、織女牽牛の星はそれぞれ河鼓のそばにあり、7月7日に会える。
河鼓は星官、つまり中国式の星座の一つです。曹植は曹操の息子で、詩聖と評されながらも本人は「詩でほめられるより武勲を上げたいんじゃー」と騒いでいたやつです。
で、この「曹植九詠注」がまったくわかりません。曹植の九詠につけられた注なのか、曹植による九詠注なのか、調べても出てこないのでわかりません。
ただ、曹植自身は『洛神賦』に「詠牽牛之獨處」としているので、曹植の時代には牽牛と織女が夫婦だという認識はまだなかったのではないかと思います。とすれば、これもやはり李善によるもので、牛郎織女が夫婦というのは唐代あたりに広まりだしたのではないかと推測できます。
現代の七夕伝説では、織女は玉皇大帝の娘という設定です。玉皇大帝が天帝に押し上げられるまでに信仰されるようになったのは宋代以降なので、その設定自体は当然宋より後に作られました。では、その原型はどこにあるのでしょうか?
『史記』天官書に
婺女其北織女 織女天女孫也
婺女の北に織女がある。織女は天女孫である。
これも天の女孫と読むか天女の孫と読むかで意味が違って来ます。ただ、現代中国語だと孫女と言う孫娘のことを漢代には女孫と言っていたらしいのと、中国の慣習から言ってよほどのことがなければ女系の姻戚関係は記さないことから、どっちかって言うと「天の女孫」と読むほうが妥当に思えます。
『史記』のころにはすでに昊天上帝を天帝として頂く信仰はありましたから、織女は天帝の孫という認識だったと思われます。なかなか身分が高いお姫様です。
明代に作られた『月令廣義』七月令に付けられた註釈では、この『史記』の記述を引用してからこう続きます。
小說 天河之東有織女 天帝之子也
『小説』では天の河の東に織女がおり、天帝の子だという。
『小説』は南朝梁の役人・殷芸が書いたとされる短編小説集です。しかし現存の『小説』にはここに引かれている文章はないです。
こと七夕に関しては、引用されている原典が現存していても、引用文が見つからないという現象にしばしばあたるので苦労します。原典の『小説』にこの部分が残っていれば、織女は南北朝のころには天帝の子だと思われていたで済むのけど、原典にない以上そう簡単にはいきません。
南朝梁のころ、『小説』より後に書かれた『荊楚歳時記』には、織女について
史記天官書雲 是天帝外孫
と、『史記』からの引用といいつつ微妙に違うものの、天帝の外孫だとしており、天帝の子だとの記述はありません。ここからあくまで推測として言うと『月令廣義』で「天帝の子」を『小説』からの引用だとしているのは嘘っぱちではないかと思います。
一方で、織女が天帝の娘という設定につながるものもあります。
『後漢書』天文志にこんな記録があります。
七年正月戊子 流星大如杯 從織女西行 光照地 織女天之真女 流星出之 女主憂 其月癸卯 光烈皇后崩
永平7年の正月戊子の日、コップのような大きな流星が織女から西に流れて地を照らした。織女は天の真女で流星がいでる。女主憂の卦が出てその月の癸卯の日に光烈皇后が崩御した。
『後漢書』の天文志は、西晋の司馬彪が書いた『続漢書』のものが採用されています。
ただ、「織女天之真女」はそのまま織女が天帝の娘だと記してあるとは解釈できません。これが「織女天之女」だったら素直に織女が天帝の娘だという認識もあったのだなと解釈できます。史書に「〇〇之女」と書いてあるのは◯◯さんの娘という意味です。
しかし記述は「天之真女」です。
まず、司馬彪は司馬炎の従兄弟という名族です。権力闘争に敗れて世捨て人になったとはいえ、史書を記すようなインテリが『史記』を読んでいないはずはありません。司馬彪が書いた時点では「天之孫女」もしくは『史記』の記述のまま「織女天女孫」だった可能性は高く、それが後に間違って「天之真女」と書き写されたというのはありえないことではありません。
また、「真女」が娘という意味ではなく、道を得て仙人になった「真人」の女性版として、天の仙女だという意味で書いてある可能性も否定はできないでしょう。
「女主憂」は晋書に
其十一月乙酉 月犯軒轅大星 占曰女主憂
魏の明帝の太和5年11月の乙酉の日、月が軒轅星を覆った。占ったところ「女主憂」
とあるので、これと同じだと思います。
古代中国においては天の運行は地上に影響を及ぼすと考えます。だから何かの天文現象が起こると占いを立てたのでしょう。
織女から西に向かって大きな流星が観測された。そこで占いを立てたところ「女主憂」と出た。するとその月に光烈皇后が崩御した。という感じで、流星が地上に影響した結果として皇后が亡くなったと言いたいのだと思います。
私の勝手な想像では、司馬彪は織女を天帝の娘とは思っていなかった。しかし、誰かが「織女天之真女」を単純に織女が天帝の娘だと解釈し、玉皇大帝が天帝の位に押し上げられた宋代以降に、天帝の娘だから玉皇大帝の娘だということになったのではないかと思います。
明代の『月令廣義』に「小說 天河之東有織女 天帝之子也」と嘘引用がついたのも、明代にはそのほうが常識になっていたからではないでしょうか?
このバリエーションとして、七夕が玉皇大帝の娘の七仙女の誕生日だというものもあります。これは七夕とは別にあった7人の仙女の話が習合したものと思われますが、典拠に乏しくめんどくさくなったのでこれには触れません。
牽牛、天帝に借金して返さない
上述の『荊楚歳時記』にはこんなことも書かれています。
嘗見道書雲 牽牛娶織女 借天帝二萬錢下禮 久不還 被驅在營室中
かつて見た道書には、牽牛は織女を娶って天帝に2万銭を借り結納とした。しかし長く返さなかったので営室に追いやられた。
この道書が何なのかは不明。道書というからには道教の経典か、あるいはそれに類する緯書の類だと思います。とりあえず南北朝のころには牽牛と織女が夫婦だという認識もあったことがわかります。
天帝にお金を借りられるぐらいだから牽牛は神様という扱いでしょうね。しかし借金を返さなかったから取り立てにあい、ペガスス座の一部の星宿・営室に追いやられてしまった。
こんな情けない異説もあるにはあったけれど、さすがにあんまりなためかこれ以降この話は広げられてはいません。





