中元節と盂蘭盆経

本日は農暦7月15日の中元節で、道教では中元地官赦罪大帝の誕生日です。

現在の道教の設定では、地官大帝は玉皇大帝の補佐役である四御の次に偉い三官大帝に属しており、地府=道教世界での死者が住まう地下世界を統括しています。中元節になると地官大帝の誕生日による恩赦で地府の地獄に服役する亡者が地上に戻ることができます。

このため、道教では地官大帝の誕生日を祝うとともに、地上に戻った亡者を祀る儀式を行います。

さて農暦7月15日は、もう一つ中国仏教によって作られた盂蘭盆の日でもあります。これは後で詳しく触れますが施餓鬼の影響を受け、中国仏教が先祖供養の要素を取り入れて作ったものです。

仏教と道教、2つの宗教で同じ日に行われる死後の魂を祀る儀式、偶然別々にできたとは思えません。では、どちらがどちらをパクったのか?今回はそのへんを考えてみたいと思います。

盂蘭盆経

『仏説盂蘭盆経』は西晋に活躍した西域出身の訳経僧・竺法護の訳と称してはいるものの、実際には中国で作られた偽経です。その内容は大雑把にはこんな感じ。

お釈迦様の十大弟子の一人であるモッガラーナ尊者が、父母への恩に報いるために済度を行おうとスーパーモッガラーナアイで世界を見渡すと、亡くなったお母さんが餓鬼に落ちておりものを食べられず痩せこけていました。悲しんだモッガラーナ尊者がご飯を供えても、口に入れる前に炭になって食べられません。

モッガラーナ尊者はウワァァンと泣き叫んで「助けて釈迦えも~ん」とお釈迦様に相談します。

お釈迦様は「お前の母ちゃんは罪が深いからお前一人の力ではどうにもならんのよ」と言いつつも、お母さんの助け方を教えてくれました。


目連救母:彰化県南天宮

7月15日の安居が終わる日、ご飯とか果物とか布団とかを十方大徳の僧たちにに捧げて、修行者たちが心を合わせて托鉢したり斎戒したりすればその徳によって七世にわたって苦しみを受ける父母たちが救われるであろう。そして毎年7月15日にこの盂蘭盆の儀式を行えば、現在の父母は寿命が100年に伸び、過去7世の父母は餓鬼道から逃れられるだろう。

とまあ、儒教の孝道を仏教の中に落とし込んだ内容となっております。この経典が偽経ではないと主張している日本の学者もいるようだけれど「欲度父母報乳哺之恩」とか「年年七月十五日 常以孝慈 憶所生父母 為作盂蘭盆」などどう考えても中国的な考え方で書かれている部分があるので、定説の通り中国で作られたのだと考えるほうが正しいと思います。

さて、これが本当に竺法護が訳した経典であれば、中国に伝わったのは西暦3世紀半ばから西暦4世紀はじめ頃ということになります。しかしその可能性は薄いので、作られたのはそれよりは後でしょう。

南朝梁の役人・宗懍が著した『荊楚歳時記』に『盂蘭盆経』の記述があります。

七月十五日 僧尼道俗 悉營盆供諸仙 按盂蘭盆經云 有七葉功德並幡花歌鼓果食送之 蓋由此也

7月15日には僧尼や道士、俗人までがみな盆を営み緒仙に供した。『盂蘭盆会』に7葉の功徳と幡花、歌鼓、果食などを送るのはここから来ている。

『荊楚歳時記』は、タイトルの通り荊楚、現代の湖南省、湖北省一帯の年中行事などを記録した歳時記です。緒仙とありますが、この頃には仏菩薩も神仙の一種だと考えられていたのでしょう。現代日本でも仏と菩薩と神の区別がついてないような日本人はいっぱいいますから、まあ6世紀あたりの中国ならなおのこと。道士もちゃっかり乗っかってしまっています。

南宋の志磐が著した『仏祖統紀』には、南朝梁の武帝が盂蘭盆の儀式を行ったとの記述があります。

四年 帝幸同泰寺設盂蘭盆齋

(大同)4年、武帝は同泰寺に行幸され、盂蘭盆の斎を設けた。

大同4年は西暦538年なので、遅くとも6世紀の始めには盂蘭盆が行われていたことになります。ただし、梁武帝の公式記録である『梁書』にはこの記録がないので信憑性は落ちます。

ただ、『日本書紀』の記述は一応の傍証となると思います。

自是年初毎寺 四月八日 七月十五日設齋

この年より寺で4月8日、7月15日に斎を設けた。

これは推古天皇14年=西暦606年の記述です。どんな儀式だったかは明記されていないものの、寺で行われていること、4月8日の灌仏会にも行われていることを考えれば、7月15日には盂蘭盆会が行われていた可能性が高いです。

日本への仏教伝来は百済の聖明王からの紹介によるもので、聖明王は南朝梁武帝に王に封じられた人物ですから、梁武帝が盂蘭盆斎を行っていたという情報も伝えられ、それをパクって行われたものかもしれません。

紀元4世紀は早すぎにしても、紀元6世紀には『盂蘭盆経』は流通していたと考えられるので、とすれば紀元5世紀あたりに作られたものと考えてもいいかもしれません。

中元節はパクりかパクられか

一方中元節です。

行事としての上元節、中元節、下元節の三元節が最初に記録されたのは、たぶん南北朝のころに作られたんじゃないかなと言われている『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』だと言います。

『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』は、晋代の道教勃興期から隋唐のあたりまで盛んに作られた「霊宝経」の一つです。「霊宝経」の特徴として、まず最高神に新たに作られた神格である元始天尊を置くこと、そして元始天尊がなにやら説くところに仙人やら神々やらがたくさん集まって、ありがたく拝聴するスタイルであることです。

『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』もこう始まります。

元始天尊與太上道君 十方大聖 飛天神王 七千二百四十童子 俱在西那玉國鬱察之山

元始天尊と太上道君、十方の大聖に飛天神王、7240人の童子が共に西那玉國の鬱察山にあった。

これは明らかに大乗仏典の多くが、霊鷲山やらどこやらで説法をするお釈迦様の前に大量の菩薩やら神やらなんやらが集まって拝聴するスタイルのパクリです。

実は中国では、中元節は『盂蘭盆経』をパクって『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』で作られたものだという意見が優勢だそうです。もちろん逆に盂蘭盆が先にあった中元節をパクったものだという意見もあり、『盂蘭盆経』『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』双方の成立年代が明確ではない以上どちらの可能性も否定できません。

まあ、道教は仏教から様々にパクっていますから、その行状からすれば中元節のほうがパクりだろうと言われてもしかたないところはあります。

しかし、中元節の歴史的な変遷を見るとそうとも言い切れません。

まず、『盂蘭盆経』のパクりだと評価されてしまっている『太上洞玄靈寶三元玉京玄都大獻經』にある記述を見てみましょう。

七月十五日為中元即地官檢勾

7月15日は中元で、地官の査察日である。

所以七月十五日為中元 地官檢錄者 五月一陰生 六月二陰生 七月三陰生 三陰成坤 坤者地之用也 七月坤氣王周 故一切地官主當校錄

7月15日を中元とし、地官が査察を行うのは、5月に一陰が生じ、6月に二陰が生じ、7月に三陰が生じて、三陰が坤となるからである。坤は地の気を運用するものである。7月に坤の気が広まるので、一切の地官が査察役になるのだ。

この時代にはまだ一尊としての地官大帝はなく、地官という役職を持った神仙の役人チームでした。そのチームが、人間の善悪などを査察して寿命を決めたというのです。三陰が坤になるのはわかるし、坤の気が満ちると地官が働くようになるっていうのもわかるけど、なんで査察を行うのかってあたりはよくわかりません。このへんは当時の道教独自の理論があったのだと思います。

ちなみに、他の上元、下元もそれぞれの日付に担当官が査察を行うことになっています。

当時の盂蘭盆は、先祖に施餓鬼を行い、安居を終えた僧侶にお布施をして、両親の長寿とご先祖の救済を願うもの。一方中元は、天界の役人が人間の善悪を査察して寿命を伸ばしたり短くしたりするもの。内容的に見ると、盂蘭盆のパクりだとは言えないですよねこれ。

宋代に作られた『九天應元雷聲普化天尊玉樞寶經』では「地官解地息」地官に地の厄を解いてもらえるように願うと記されています。これもやっぱり盂蘭盆とは内容的に違います。

そもそも、1月15日の上元節、7月15日の中元節、10月15日の下元節と3つがセットになっている三元節と、7月15日だけの盂蘭盆のどちらかがパクリだというのは無理があるんじゃないかなと。

古代中国には、道教ができる以前から1月15日の元宵節や、7月15日に豊年祭を行う習慣がありました。地方によっては10月15日に収穫祭を行う風習もあったようです。道教は、そういう1年に3度の節目を三元節と定めて取り入れ、新たに人間の善悪を神々が審査する日にしたのかもしれません。

一方、7月15日は中国仏教では安居、つまり僧堂にこもって修行する恒例行事が終わる日でした。『盂蘭盆経』では「自恣」と書いてあるその日は、「解夏」とも言います。『盂蘭盆経』は施餓鬼と儒教の孝道をからめて「自恣」の日に修行を終えた僧侶にお布施をすれば先祖が救われるとすすめるおねだり経典ですから、これは逆に中元節をパクったものとは言えません。

結論を言うと、7月15日が重なったのは偶然じゃね?ってことです。だって、こんなにいろいろな行事があるんだから、7月15日というキリがいい日に偶然行事が重なっちゃうことってあるじゃん?

三元節と盂蘭盆会、双方をいろいろ調べて比較した結論として、日にちが重なったのは偶然であるという説を唱えたいですね。私が唱えたところでどこにも届かないんですけど。

中元節と盂蘭盆会の習合

『荊楚歳時記』が書かれた南北朝のころには、すでに盂蘭盆会に道士がまざったりしていました。道士と言ってもピンキリで、仏典を研究してパクるようなインテリの道士は逆に混ざったりはしなかった気がしますね。気がするだけなので何の確証もないですけど。

そういうのに混ざっちゃうのは、仏教も道教も区別がついてないような、道士とは名ばかりの祈祷師や方士の類だったのではないかと思います。

例えば日本でも仏教と神道の違いがわかっていないような連中はいっぱいいて、明治以前は仏教と神道はごっちゃになっていたし、明治の神仏分離を経てなお現代でもその区別がついていないような日本人は、むしろ正しく区別がついている人より多いでしょう。

同じ日に行われる盂蘭盆会と中元節は、当然のごとく混じりました。

中国ではすでに南北朝のころから儒仏道の三教合一の流れができはじめ、特に道教は仏教や儒教からパクったものが多いです。しかし、盂蘭盆会と中元節の習合は、そういう教理上のパクりから来たのではなく、末端で仏教側も道教側もよく理解しないままやっているうちに混ざっちゃったのではないかと思いますね。

中国国外の中元節・盂蘭盆会

文化は伝播するものなので、中元節なり盂蘭盆会なりも中国以外の国々にも伝わっています。

台湾

台湾は人口のおよそ8割が、17世紀以降に中国から台湾に移住し、現地で原住民と通婚した人たちの子孫、およそ1割が戦後に中国から台湾に逃げ込んだ国府軍の敗走兵やそれについていった中国人及びその子孫ですから、中国文化の影響が強いのはしかたないことです。

台湾では、まず農暦7月を「鬼月」と言います。これは中国の民間にあった「鬼節」の影響で、農暦7月に入ると中元節を待たずして地府から亡者が地上に戻ってくるとします。この亡者を台湾では「好兄弟」と呼んで、供物を捧げてもてなします。

7月15日になるとまず仏教による「中元普渡」の法要が行われます。これは、中元節で地上に戻ってきた亡者を成仏に導くというものです。「普く済度する」儀式のため普渡と呼ばれます。

台湾の中元普渡は、台湾にある「孤魂信仰」とも習合しています。孤魂とは、戦乱や闘争、疫病などで死んだ身寄りのない人の魂のことで、日本で言う無縁仏です。孤魂は放置しておくと悪霊になってしまうため、廟を立てて祀ります。中元普渡にはこうした孤魂を救済する目的も加えられています。

そして、農暦7月の最終日には今度は道教側による、地上にいる亡者に地府に帰ってもらう儀式が行われます。いつまでも地上にいてもらっては気が休まらないというわけですね。

ベトナム

ベトナムでも中元節が行われています。

ベトナム史の研究者である大西和彦氏による「歴史と文化から見たベトナム人~人材育成と活用への心構え~」によると、ベトナムでは11世紀ごろから中元節が祝祭として行われ「謝罪亡人日」と呼ばれているようです。「謝罪亡人日」となっているけれど、これはおそらく赦罪亡人日の間違いでしょう。ともかく、ベトナムではまず盂蘭盆会の要素がない中間節が行われていたとのこと。

また現代では仏教寺院での盂蘭盆の法要も行われているようです。

日本

日本の場合、まず中元は夏の元気なご挨拶で贈り物をする「お中元」という中元節とは何一つ関係ない風習になっていて、外来文化を捻じ曲げることにかけては日本人にかなうものはないなと思います。

盂蘭盆は、日本のいくつかの寺院では本来の先祖に対する施餓鬼の法要も行われているようです。しかし、日本で「お盆」といったら墓参りの日です。

日本の仏教は、儒教をパクった中国仏教の亜流なので位牌を祀ります。位牌は本来仏教とは何の関係もない儒教の祭具です。死者の魂はこの位牌に封じられるとされます。これは、本来子孫が先祖の祭祀を絶やさなければ、いずれ魂は肉体に戻って復活するという古代の信仰が元になっており、復活の日のための魂の一時的な居場所というのが本来の位牌の役目です。

さて、位牌なんていう木の板に魂が封じ込められているなんてタワゴトを本気で信じるのはちょっと頭がどうかしていると思いますが、仮に位牌に魂が封じ込められているとして、では「お盆」のときに迎え火を焚いて墓から魂が戻ってくるのを迎え入れるという行為には疑問を持たないのでしょうか?この矛盾に疑問をもたないで行っているのは、要するに日本人にとって「お盆」とは年中行事のルーチンワークの一つであり、決め事をこなすことが目的だからです。

もし本気で死後の世界があり、先祖がそこから帰ってくると信じているなら、地上の都合で日付を勝手に変えたりはしないはずです。日本の一部地域では新盆として新暦の7月15日がお盆となっており、大部分の地域では8月15日がお盆ということになっています。農暦の日付を新暦にするというのもどうかしているけれど、8月15日は、たまたま農暦の7月15日と重なることはあっても、本来の中元節なり盂蘭盆会なりと関係ありません。ここになんら疑問をもたずにいられるのも「ただ決められた日に決められた行動をこなす」ことが目的だからだと思います。

さて、ではなんで日本では本来の施餓鬼ではない、墓参りをして「先祖の魂を迎えるつもりの行動をこなす」ことになったのか?

ちょっと調べてみると、どうもこれは中国の一部地域で行われている「祭祖節」の影響のようです。

祭祖節は「七月十四迎親歸」といって、祭祖節では農暦7月14日の夜に川に灯籠を流し、それを目印として家にもどってくる先祖の魂を迎え入れ、紙銭を焚いたりアヒルを食べたりして先祖をもてなす風習です。

おそらくは盂蘭盆会と習合した祭祖節が日本に伝わって土着化したものが、現在日本で行われている「お盆」ではないかと思います。

日本には紙銭という文化がないので、草の茎やら木やらに火をつけるように変化したのでしょう。

伝統行事

Posted by 森 玄通