端午節

本日は農暦5月5日の端午節です。
端午節といえば、一般的には粽子を食べたりドラゴンボートレースが開催されたりする日。
道教の世界でも様々な活動が行われます。
端午節の由来
端午節は言わずもがな中国発祥の節日です。現在では中国移民の移動や文化の伝播に従い、周辺の台湾、ベトナム、タイ、韓国、日本などの国々にも伝わっています。
俗説では端午節の起源は戦国時代の楚の屈原にあるとされます。
屈原は楚の懐王に仕え、左徒という宰相に継ぐ立場にありました。
秦の宰相・張儀は、秦の拡張と個人的な恨み両面から楚に謀略を仕掛けます。
屈原はその謀略を見抜き王に進言するものの、王は目先の利益に惑わされまんまと張儀の策にはまって秦に捕らわれてしまいます。次に立てられた頃襄王より地方に飛ばされた屈原は、楚の都が秦に落とされたと聞いて絶望し、汨羅江に入水自殺をしました。
ここまでが史書に記されている部分。屈原は実在自体が疑問視されているので史実かどうかは不明です。
さてここからが伝説。
後に屈原が入水自殺したのが5月5日だと設定されました。そもそも実在自体が不確定の屈原が死んだ日などわかっておらず、逆に言えば都合に合わせて設定しほうだいです。
屈原が入水自殺したことを知った住民たちは、屈原の体が魚に食べられないように握り飯などを葉っぱに包んで汨羅江に投げ入れた。そのため端午節には粽子を食べるようになりましたとさ。これが屈原を端午節の由来だとするお話です。
ちなみに握り飯ってのは日本オリジナルの食文化ではなく、中国にもあります。台湾の飯糰は「台湾おにぎり」などと呼ばれ、日本のおにぎりがもとになっているかのように言っているアホもいるけれど、あれは上海の食文化が伝わったものです。台湾には飯糰や生煎包、小籠湯包など上海由来のものが多いです。
とはいえ、戦国時代に庶民がぽんぽん川に投げ入れられるほど米が普及していたかどうかは不明です。
後に、この伝説も多少変化があり、握り飯は魚ではなく死んだ屈原への供え物で、それが川の蛟龍に食べられないように、蛟龍が嫌う竹の皮と五色のひもで包んで投げ込むようになったというバリエーションも作られています。実際中国の一部地域には、五色のひもで粽子を結ぶ風習があるようです。
ドラゴンボートレースもまた、入水した屈原を助けようと先を争って船をこいだのが由来だとされています。

端午節の俗説としては屈原を由来とするものが一番ポピュラーです。ただ、春秋時代に孫子とともに呉王に仕えた伍子胥が由来だとするバージョンもあります。
伍子胥は「死体に鞭打つ」の由来になった人でもありますね。伍子胥がなんでわざわざ墓を暴いてまで楚の平王の死体を鞭打ったのかについては、古代中国人の死生観と密接な関係があるので後に記事を書く予定です。
伍子胥は孫子とともに呉王闔閭によく仕え、呉を強国に育て上げたものの、次の呉王夫差とは折り合いが悪く、夫差に疎んじられた伍子胥は半ば強制的に自害させられてその死体は今の浙江省を流れる錢塘江へ投げ捨てられました。
『史記』伍子胥伝には
吳王聞之大怒 乃取子胥尸盛以鴟夷革 浮之江中 吳人憐之 為立祠於江上 因命曰胥山
呉王夫差は伍子胥が「我が目を呉の東門にかけ、呉が越に滅ぼされるのを見せよ」と言って自刎したのを聞いて怒り、伍子胥の死体を革袋に入れて錢塘江へ浮かべた。呉人はこれを憐れみ、錢塘江に祠を立てた。それゆえその地は胥山と呼ばれる。
とあります。非業の死をとげた人の魂が悪霊とならないように祀る文化は古代日本のみならず古代中国にもありました。
伍子胥がすでに西漢のころには信仰の対象となっていたことがうかがわれます。清代に著された『蘇州府志』蘇州府志卷第三十一尸壇廟一工には、蘇州にある廟の由来などが記されており、城隍廟や関帝廟などと並んで吳相伍大夫廟とありますから、清代に至るまで信仰が続いていたのです。
現在でも浙江省に伍子胥とその兄伍尚を祀った尚胥廟が残っています。文革の時に紅衛兵がぶっ壊してまわったのは主に孔子廟だったので破壊を免れたものと思われます。
蘇州の地では、端午節の由来は屈原ではなく伍子胥にあるのだとされているのだとか。中国四大節日の一つである端午節の由来を地元の英雄にしたいのでしょうね。
しかし、由来が屈原や伍子胥にあるというのは後代に作られた俗説に過ぎません。
実際には龍蛇信仰を持つ古代越人が龍神もしくは蛇神を祀るために川に食べ物を捧げ、龍船を浮かべたのが起源にあるといいます。
古代中国では越人は異民族扱いされており、一説には弥生人の祖先であるとも言われます。時代が下るにつれて越の地も「中国」の領域に飲み込まれ、元々先住民の文化だったものが取り込まれたものと考えられます。
端午節は悪月悪日
端午節はまた邪気を払う日ともされます。
古代中国では5月5日は「悪月悪日」と呼ばれました。
南北朝時代の南朝梁で著された『荊楚歲時記』に
五月俗稱惡月 多禁忌曝床薦席及忌蓋屋
5月は俗に悪月と言われ、禁忌が多く、ベッドの敷物を干したり家を建ててはいけない。
床っていうのはベッドです。日本語の「ゆか」は中国語では地板と言います。薦席は布団の下に敷く草で作ったマットレスのようなもの。なんでやっちゃだめなのかについては記されていません。
同じく『荊楚歲時記』にはまた
五月五日 謂之浴蘭節 四民並蹋百草之戲 採艾以為人懸門戶上 以禳毒氣 以菖蒲或鏤或屑以泛酒 按大戴禮曰 五月五日 蓄蘭為沐浴
5月5日はいわゆる浴蘭節である。四民は百草を踏む遊びをして、よもぎを採って人形を作り、それを門にかけて毒気を払う。菖蒲を切ったり粉にして酒に漬ける。『大戴禮』によれば、5月5日は蘭をためて沐浴をする。
ここで言う蘭はフジバカマだと推定されているようです。草を踏む遊びっていうのはよくわからないんですが、気温も上がり草が茂ってきたところを踏んづけてどうにかしたんでしょう。草の中にひそむ魔物的なものを追い出すという意味もあったかもしれません。
また、端午節のころは気温が高くなるとともに湿度も上がるため、感染症が増えたのではないかと思います。それを毒気、または邪気と呼んでよもぎ人形のおまじないで払おうとしたということですね。他に菖蒲を家の門にかけて邪気払いにする風習もありました。
そうした風習がなんやかや混ざり合って、菖蒲を漬けたお湯で沐浴するようになりました。菖蒲は生薬としても使われ、解毒や殺虫効果があると言うので、感染症が増える時期に体を消毒するという観点で言えば、単なるまじないではなく医学的にも意味がある行為でしょう。
日本でも菖蒲湯に入る風習があります。私も昭和のころは菖蒲湯に入れられました。ただ、日本の場合明治以降伝統行事を新暦の日にちで行うというマヌケな決まりになったため、季節外れのものとなりました。農暦の行事を新暦の日付で行うことに何ら疑問を持たずに日本人は季節の変化を大切にするとか言い張るのはちゃんちゃらおかしいですわ。
道教の端午節の行事
上述の通り端午節は悪月悪日で悪い気が訪れる日と信じられました。それが後に疫病をもたらす瘟神が訪れるのだと変化します。
そこから、よもぎ人形や菖蒲を門にかける他に、瘟神を避けるために鍾馗の絵を門前にかける風習も生まれました。
鍾馗は道教では翊聖雷霆驅魔辟邪鎮宅賜福帝君と呼ばれます。その名の通り雷霆をもって魔を駆逐し邪気を避けて家を鎮め福をもたらす神様なので、瘟神が恐れて近づかないと考えられたわけです。
特に南方の道教では伏魔大帝関聖帝君、蕩魔天尊真武帝君と並んで三伏魔帝君という戦隊になっています。3人戦隊なのでサンバルカンとか初期のライブマン的なやつです。
日本でも京都あたりだと現代でも鍾馗の信仰が残っていると聞きます。
道教ではまた、駆邪消災の儀式が行われます。
中国には「五月五日午 天師騎艾虎 赤口上青天 百虫歸地府(5月5日の端午の日、天師がよもぎの虎に乗ってくる。赤い口を青天に向ければ、百虫が地府に帰っていく)」という民間の歌があります。「五月五日午 天師騎艾虎 蒲劍斬百邪 鬼魅入虎口(5月5日の端午の日、天師がよもぎの虎に乗ってくる。尚武の剣で百邪を斬り、鬼魅は虎の口に入っていく)」というバージョンもあります。
ここで言う天師は天師道の始祖である張道陵のこと。宋代のころ、天師道は一世を風靡して広範囲で信仰されていました。
張道陵は、辟邪の力があるよもぎをさらに強い虎の姿に変えて天上からやってくるのでしょう。天師道から発展したとされる正一道では、張道陵は羽化登仙したことになっています。
天師道なり正一道なりが、端午節に張道陵の威光をもって駆邪消災を行っていたことが伺われます。
端午節は道教では「地臘」の日でもあります。
宋代に著された道教経典『雲笈七籤』に『八道秘言』なる経典からの引用として
正月一日名天臘 五月五日名地臘
とあります。
他に7月7日の道德臘、10月1日の民歲臘、12月の侯王臘があってこの5つは五臘日といい、修齋=素食、つまり日本語で言う精進料理を食べたり法事を行ったり、先祖を祭るのによろしいとしています。
臘は元々は年末に神々を祀ることでした。
地臘は五臘日の中で罪を懺悔し、一族のご先祖様を祀る日となっています。
その地臘との関係なのかどうか、端午節は溫元帥の誕生日だともされています。

溫元帥(中段と上段、一番前は中壇元帥:台南市府城試經口集和堂
溫元帥は特に台湾道教で広く信仰されている王爺千歳の一柱です。
『地祇上將溫太保傳』によると、溫元帥の本名は溫瓊。唐の名将・郭子儀の麾下にあって盗賊の討伐に功がありました。しかしあまりの強さに恐れを抱いた郭子儀は溫瓊を暗殺しようとします。それを察知した溫瓊は逃亡し、牛の屠殺と酒の販売で生計を立てていました。そこに、東嶽大帝の三男・炳靈公が姿を変えた道士がやってきて「君は骨気が神に通じ、いずれの日かに万世の香火を捧げられるべき人なのになぜこんなところで殺生をして天の戒律にそむいているのだね」と告げました。万世の香火を捧げられるっていうのは、万世にわたって線香が捧げられる、つまり神として信仰されるってことです。
それを聞いた溫瓊は東嶽廟で修行を始めます。するとそこでまた別の道士に「おまえは嶽帝書に名が記され、いずれ嶽府太保になる」と告げられました。
溫瓊はなんやかやあって急に神様となり、東嶽大帝麾下の太保となりました。太保っていうのは本来皇帝の補佐役です。ここでは東嶽大帝の側近を意味します。
でまあ、神様になってからの溫太保はなんやかや活躍して地祇上將と呼ばれるようになりました。地祇は天の神に対する地の神様。地府を統べる東嶽大帝の側近なので地祇とされているわけです。
地の神様の中でも上将だというのだからかなり強い神様です。
王爺千歳信仰はもともとは瘟神信仰でした。
疫病をもたらす瘟神を祀ってどうにか疫病を起こさないでくださいと願うのが瘟神信仰です。それが後に、瘟神をやっつける神様の信仰へと変化しました。それが王爺千歳信仰です。
?瓊は実在の人物ではないので、誕生日も設定しほうだいです。
地祇上將の?太保の誕生日を、地臘でもある瘟神がやってくる端午節にして祀り、瘟神を成敗してもらおうとしたのではないでしょうか。
端午節の禁忌
上述の通り端午節にはベッドのマットレスを干してはいけないとか家を建ててはいけないという禁忌がありました。
道教経典『赤松子章曆』には、5月5日の地臘には
其日不可伐損樹木血食
樹木を伐採したり血食をしてはいけない。
と記されています。
「血食」にはいくつかの意味があります。1つは神様への供え物、1つはその神様への供え物をいただいて食べること、そしてもう1つは血を持つもの、つまり肉や魚を食べることです。供え物が「血食」なのは、古代には生贄の動物から血を取って捧げていたからだと言います。
端午節には肉が入った粽を食べるので、最後の意味ではないでしょう。供え物をしてはいけないこともないだろうから、端午節には神様へ供えたものを食べてはいけないということになります。
他に、端午節には水辺に悪霊がやってきて取って代わろうとするから水辺に行ってはいけない。悪日であるから婚礼はしてはいけないという禁忌もあります。といってもこれは俗説にすぎないので守らなければ悪いことが起こるということでもありません。
水辺には悪霊はいないけれど、この時期は気温は高くなっても水はまだ冷たいから下手に水に入ったりすると心臓麻痺を起こす可能性がありますから、水がつめたかったら無理に水に入るのはやめておいたほうがいいってことだという解釈はできます。
日が悪いから婚礼をしてはいけないっていうのは、日本で仏滅に結婚式は縁起が悪いっていうのと同様なんの根拠もないどうでもいい迷信だから無視していいです。






