北斗星君と南斗星君

南斗乱るる時北斗現れり!

1983年に連載が始まった『北斗の拳』は、今年2023年に40周年を迎え、新作アニメの制作も発表されました。

主人公のケンシロウが数々の強敵と戦い、時には友誼を結び、力なき人々のために力をふるう王道ストーリーと、負けた悪人が奇声を発しながら爆発する演出は大ブームを巻き起こして、40年後の今に至るまで人気を保ちます。

経絡秘孔を打ち内部から破壊する北斗神拳と、刃のような手刀や蹴りで相手を切り刻む南斗聖拳。作中に登場するこの2つの対象的な武術は、北斗七星と南斗六星に着想を得て作られたそうです。

実は道教にも、北斗神拳と南斗聖拳のような対になる2柱の神がいます。それが北斗星君と南斗星君です。この神々は、長い歴史の中で様々な紆余曲折を経ています。それを拾っていたらやたら長くなってしまったけれど、これでもまだ短めにまとめたつもりです。

古代中国での北斗七星

中国では古代から星辰信仰が盛んでした。天に輝く数多の星々は、それを利用した占術や、星を神に見立てた信仰を生み出します。

戦国時代にはすでに『甘石星經』という天文書が著されていました。この原文はネットで見つけられず、引用からの引用になってしまうのが心もとないのですが、北斗七星について

北斗星謂之七政 天之諸侯 亦為帝車

北斗星はいわゆる七政である。天の諸侯であり、また帝の車も為す。

と記されているといいます。

七政とはなんぞやと調べると、日月火水木金土のことだとか北斗七星そのもののことだとか書いてあるけど、なんで「政」なのかがどこにも書いていません。そこで、こういう時の強い味方、学研の『漢字源』で「政」を引いてみると、

政は「攴(動詞の記号)+音符正」で、もと、まっすぐに整えること

学研『漢字源新版』

となっていました。ここから推測すると、北斗七星が常に整った形で同じルートを巡ることをもって七政と呼んだのではないかと思います。

北斗七星は北極星を中心に天を回転しています。この様子から、天の中心である天帝の周囲をめぐる諸侯、あるいは天帝を乗せてぐるぐる走る車だとされたのでしょう。

また、同じく戦国時代に編まれたという黄老学の書『鶡冠子』環流にはこうあります。

惟聖人究道之情 唯道之法公政以明 斗柄東指天下皆春 斗柄南指天下皆夏 斗柄西指天下皆秋 斗柄北指天下皆冬 斗柄運於上事立於下 斗柄指一方四塞俱成 此道之用法也

ただ聖人のみが道の本来の姿を極めている。ただ道の法のみが政を公に明るくする。北斗の柄が東を指せば天下はみな春になり、北斗の柄が南を指せば天下はみな夏になり、北斗の柄が西を指せば天下はみな秋になり、北斗の柄が北を指せば天下は皆冬になる。北斗の柄が上に動けば事は下において立ち、北斗の柄が一方を指せば四塞は倶に成る。これが道の用法である。

ここで言う「道」は『道徳経』に言う「非常道」つまり通行路という意味の道ではなく、天地を統べる法則としての「道」です。

『鶡冠子』が作られたのは戦国時代ですから、この当時の「天下」は当然古代中国人が想像した中国を中心とした世界のことで、地球全体を意味しませんし、それどころかシベリアとか日本とか、東南アジアあたりの近隣地域もい含みません。だから天下は全て同じ季節になるという発想になるわけで「必ず同じ季節になるわけじゃないだろ」みたいなツッコミはアホかおまえとなります。

とにかくここでは、北斗の柄が四方を指せば四季もまた定まるように、道に則った聖人の治世とはそのように定まるものだというのが趣旨となっています。

中国は古代から農業社会ですから季節の変化を知るのは大切です。現代日本人のように暑けりゃ夏で寒けりゃ冬で、中間的な気温がなかったらもう春や秋が消えたなどといういい加減な季節感では農業は成り立ちません。そのため、季節の変化に様々な基準を設けていました。北斗七星の運行もまた、季節の変化を知るための重要な基準だったのです。

古代中国人がいかに北斗七星を重視していたかが伺われます。

戦国時代から時代が下った漢代に作られた『淮南子』。その天文訓にはこんな記述があります。

北斗之神有雌雄 十一月始建於子 月從一辰雄左行雌右行

北斗の神には雌雄がある。11月には子より建ちはじめ、辰には雄が左に、雌が右に行く

西漢のころにはもう北斗七星が神と見られていたわけですね。明確に人格神として信仰されていたわけではないものの、雌雄があるというのは人格神になる前段階とも見られます。

ここで言う子とか辰は十二支です。この雌雄が右と左に分かれるというのは『古事記』のイザナギが天御柱を左から、ミザナミが右から回って出会ったところで子を成すという神話の元ネタだとも言われています。

古代中国での南斗六星

まず明確にしておくと、南斗六星は南十字星のことではありません。南斗六星とは、北斗七星に似た柄杓型を6つの星で構成する星々のことです。

そもそも、東アジアで南十字星を見るためにはかなり南に行く必要があります。日本だと八重山諸島以南でギリギリ水平線近くに見えるということですから、古代中国の領域では見えなかったはずです。

『北斗の拳』では南斗聖拳(後付設定で南斗孤鷲拳)の使い手シンの支配する街がサザンクロスだったり、シンの紋章が血の十字架だったりと南斗を南十字星のことだと誤認しているので一応付け加えておきます。

中国人は何でも陰陽で対比するのが好きです。南斗六星も北斗七星に対応するものとして作られたフシがあります。

まず、古代中国では北極星を中心に天球をぐるりととりまく28の星座、あるいはその星座があるエリアが考えられました。これを二十八宿と言います。

二十八宿の一つ斗宿に含まれる星官(星座)「斗」は、現代日本では一般的な西洋の星座で言うと射手座の一部を構成する6つの星です。射手座は夏の星座で、東アジアが夏のころ天球の南側に見えます。一方射手座が見える時期だと北斗七星はだいたい北極星の北東あたりにいます。北極星を挟んで南北で正対しているわけではないけれど、北斗七星と似たような柄杓型の星座=斗が南側にあるので、これを南斗としたのでしょう。

『史記』天官書の記述を見ると

北斗七星 所謂旋璣玉衡以齊七政 杓攜龍角衡殷南斗

北斗七星はいわゆる旋璣玉衡をもって七政をそろえ、杓は龍角を携えて衡は南斗に向かう

直訳だとよくわからないのでもうちょっと噛み砕くと、北斗七星は天樞、天璇、天璣、天權の旋璣と玉衡などの運行によって日月五曜の運行を正常にそろえ、柄杓の柄の部分は角宿を携えて、それは南斗に向いている。という感じになります。旋璣と玉衡は古代の天文観測器具だとする現代語訳もありましたが、それだと意味が通らないので、旋璣を北斗七星の頭部分を構成する天樞、天璇、天璣、天權のことだとするとの説に従いました。

またこうあります。

南斗為廟 其北建星 建星者旗也

南斗は天の廟堂である。その北には建星がある。建星とは旗である

なおその後に七夕の故事の元となる牽牛や織女の記述がありますが、ここでは関係ないので触れません。

ともかく南斗六星は北斗七星の対として考えられはしたものの、北斗七星ほどには重視されてはいなかったようです。

生死を司る星辰

『北斗の拳』で創作された北斗神拳なる武術は、一子相伝の暗殺拳として代々伝えられたという設定です。ではその暗殺拳になぜ「北斗」を冠する名称が与えられたのか?それは北斗七星が死を司る星だという中国の伝説から発想を得たと言います。

三国時代より続く晋代に干宝が著したとされる『捜神記』に、北斗と南斗に関する有名な1編があります。

三国時代に管輅という有名な占い師がいた。管輅が顔超という若者の顔を見ると、早死するという相が出ている。それを聞いた顔超の父親は、どうにか寿命が伸びないかと管輅に頼みこむ。そこで管輅は「清酒と鹿肉を持って、卯の日に麦を刈った後の南にある大きな桑の木の下に行きなさい。そこに囲碁を打つ人がいるから酒と肉でもてなしなさい。もし誰か聞かれてもただ彼らを拝んで一口も言葉を出してはいけない。そうすれば助けてもらえるだろう」と教えた。顔超がその通りにすると、果たして本当に囲碁を打つ2人がいた。2人は囲碁に夢中になり、顔超が用意した酒と肉を飲み食いしたが、北側に座る人がふと顔超に気づき「おまえはなぜここにいるのだ」と叱りつけた。すると南側に座る人が「彼の酒と肉をいただいてしまったのだから、情けをかけんわけにもいかんだろう」ととりなした。しかし北の人は頑固で「書類はもうできあがっているのだ!」と言う。南の人がその書類を見せてもらうと、顔超の寿命が19歳とあったので、筆をとって「おまえが90歳まで生きるようにしてやろう」と言った。顔超は拝して家に帰った。

とまあそんな話。そしてそのエピソードの結びとして、

北邊坐人是北斗 南邊坐人是南斗 南斗注生 北斗主死

北側に坐っていたのは北斗で、南側に坐っていたのは南斗だ。南斗は生を注ぎ、北斗は死を司る。

とあります。

管輅は『三国志』魏書に個人伝が立てられている実在の可能性が高い人物です。

このエピソードは、民間に伝わる物語を採録したのか、干宝が自ら創作したのかはわかりません。もし民間にあった説話だったとすると、南斗が生を、北斗が死を司るという言い伝えはどこから生まれたのでしょうか?

『史記』天官書には北斗七星の部分にこんな一文があります。

斗魁戴匡六星曰文昌宮 一曰上將 二曰次將 三曰貴相 四曰司命 五曰司中 六曰司祿

北斗の魁星は6つの星を戴いている。これを文昌宮という。その1つ目は上将、2つ目は次将、3つ目は貴相、4つ目は司命、5つ目は司中、6つ目は司禄である。

魁星は北斗七星の第一星で、その上に文昌宮と呼ばれる6つの星でできた星座があって、その4番目の星が人の寿命を司る星だと言うのですね。北斗七星が直接命を司るとしているわけではないものの、一応繋がりがありそうな記述はありました。

『漢書』天文志にも同じことが書いてあります。

それが『後漢書』になると、天文志に

北斗魁主殺

北斗の魁星は殺を司る

との記述が見えます。と同時に、文昌宮に命を司る星が含まれる記述は消えています。

現在伝わる『後漢書』は、複数の人物によるいくつかの歴史書をまとめたもので「志」の部分は西晋に作られたと考えられています。

これはあくまで私の推測になりますが、『漢書』が作られた東漢以降、西晋が成立するまでの間に、北斗の魁星の上にある星の1つが命を司るという認識から、いつの間にか魁星の方に命を司る、というより命を奪う機能があるという認識にすり替わったのではないでしょうか。

ちなみに南斗については、少なくとも史書の類には生を司るというような記述は見つけられませんでした。おそらく北斗が死を司るという認識が生まれた後に、その対になるものとして南斗が生を司るという設定が作られたのでしょう。もしかしたら干宝自身が話を作るためにそうした設定を考えたのかもしれません。

晋代道教の北斗信仰

『捜神記』はあくまで民間の伝説などを集めたといった体裁で書かれた志怪小説です。当時の民間信仰の影響はあるとしても、直接的に道教の信仰について著したものではありません。『捜神記』が作られた時代に道教の中に北斗が死を、南斗が生を司るとする信仰があったかどうかは不明です。

ただ、『捜神記』とほぼ同時代に書かれた『抱朴子』に、東晋の頃の北斗信仰の痕跡が見られます。

例えば『抱朴子』雜應編にこうあります。

或問辟五兵之道 抱朴子答曰 吾聞吳大皇帝曾從介先生受要道云 但知書北斗字及日月字 便不畏白刃

あるいは五兵を避ける道を問うと、抱朴子はこう答えた「私が聞いたところによると、呉の大皇帝が介先生にその道を授けられたという。ただ、北斗と日月の字を書くのを知っていれば白刃も恐れることはない」

この介先生は介象という仙人のこと。介象は葛洪の『神仙伝』でも一章が設けられています。で、葛洪は『抱朴子』では錬丹を重視しつつも符?、つまりお札の効果についても多く記している符籙派の一面もありますから、これは「北斗」や「日月」と書いたお札を持てば刃物耐性のバフがかかるといった意味だと思われます。

同じく『抱朴子』の登涉編にはこんな一文があります。

抱朴子曰 有老君黃庭中胎四十九真秘符 入山林以甲寅日丹書白素 夜置案中向北斗祭之

抱朴子いわく「老君黃庭の中に四十九真秘符がある。山林に入る時には甲寅の日にこの符を白絹に朱墨で記し、夜に祭壇に置いて北斗に向かって祭りを行う」

すると、山中の百鬼、万精、虎狼、蟲毒を避けられるというまじないです。

登涉編はこのように、山中に丹薬の素材を採りに入る時に身の安全を保つ方法がいろいろ記されています。

ともかく『抱朴子』の時代の道教では、北斗はまだ人格神にはなっておらず、星そのものに災いを避けるような加護があると考えられていたようです。

また、ここでは北斗は守り神的な扱いになっているので、このころの道教には北斗は死を司るという認識はなかったと思われます。

道教での北斗の人格神化

道教ではその発展過程で天体や霊獣などの人格神化が行われていきました。北斗七星や南斗六星もそうした流れの中で人格神になっていきます。

まず、南北朝のころの道士・陶弘景が作ったとされる神様図鑑『真靈位業圖』には、

鬼官北斗君周武王という北斗を冠した神が記されています。

『真靈位業圖』は "ぼくのかんがえたすごいかみさまずかん" のようなものですから、なぜ周の武王が北斗の神にされたのかは不明です。

この鬼官北斗君には、同じ陶弘景が著した『真誥』に興味深い記述があります。

非道家之北斗也 鬼官別有北斗君 以司生殺爾

道家の北斗ではないのだが、鬼官には他に北斗君がおり、生殺を司る

道家は道教を指します。道家の老荘思想と道教は異なるものだとはいえ、歴史的には両者は混同されてきました。

『真誥』のこの部分は地下の死者の国について説明されています。鬼官とは、死後地の下に降りてくる鬼=死者の霊を管理する役人のことで、その中に北斗君がいるということですね。

非道家之北斗とは、道教信仰の中にある星官としての北斗七星とは違う地下世界の役職の北斗君という意味ではないかと思います。当時あった民間信仰にそのような設定があったのかもしれません。

そうはいいつつも、続いてこう記されます。

鬼官北斗君乃是道家七辰北斗之考官

鬼官の北斗君はすなわち道教の七辰北斗の試験官である

七辰北斗の試験官とは何じゃ?と調べてみたものの答えになりそうな情報がでてきません。そこでしかたなく自分で考察すると、これはおそらく北斗七星の第一星・魁星のことです。

魁は先駆け、トップの意味を持ち、受験者はテストでいい点数をとれるように縁起を担いで魁星を拝むようになりました。時代が下ると魁星は大魁星君、魁星爺という人格神にもなっています。


文魁夫子(魁星爺):台北市文昌宮

南北朝のころ、南朝には秀才、孝廉といった科挙の前身とも言える官吏登用試験の制度が整備されていました。その当時にすでに魁星を拝む縁起担ぎの習俗があったのだとすれば、七辰北斗之考官とは魁星のことだと推測できます。となれば『後漢書』にある「北斗魁主殺」という記述ともつながり、死後の世界の役人になっても不思議ではありません。

ともかく、鬼官北斗君は道教信仰での北斗ではないと言いつつも、北斗七星の一星と同じであると認めているわけです。これが道教の中に人格神としての北斗の神が生まれた、というか取り入れられた最初期の形なのでしょう。

唐代に著された『酉陽雑俎』には、この発展形が見られます。

有羅酆山 在北方癸地 周回三萬里 高二千六百里 洞天六宮 周一萬里 高二千六百里 洞天六宮 是為六天鬼神之宮 六天 一曰紂絕陰天宮 二曰泰煞諒事宮 三曰明辰耐犯宮        四曰怙照罪氣宮 五曰宗靈七非宮 六曰敢司連苑宮 人死皆至其中 ~中略~ 由怙照第四天鬼官北斗君所治 即七辰北斗之考官也

北方癸の方角に羅酆山がある。周回は3万里、高さは2600里。洞天には六宮があってその周は1万里、高さは2600里。洞天六宮とは六天鬼神の宮である。六天の一は紂絶陰天宮、二は泰煞諒事宮、 三は明辰耐犯宮、四は怙照罪気宮、五は宗霊七非宮、六は敢司連苑宮である。人が死ぬと皆その中に至る。~中略~ 怙照第四天は鬼官北斗君、つまり七辰北斗の試験官が治めている

羅酆山は道教版地獄ともいえる酆都がある山です。『酉陽雑俎』ではその酆都の設定と『真誥』での魁星の設定が結合し、洞天六宮の第四天を鬼官北斗君が治めているとなっています。

『酉陽雑俎』は道教経典ではありません。しかし、ここに記されている部分は当時の道教信仰の一部を記録したものだと見ていいでしょう。

唐代の末から宋代初期のどこかで作られたと考えられている『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙經』では「酆都羅山」での「六洞鬼宮」における魔王の乱というラノベみたいな話が描かれています。おそらく『酉陽雑俎』の成立の方が早いので、唐の末ごろにこうした設定が流布されており、その設定から作られたのが『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙經』だと思います。

こうした流れで、唐代には道教でも北斗は死と強く結び付けられたようです。

しかし、どうやら唐代にまはだ南斗の人格神化は行われてはいなかったか、あるいは民間信仰ではあったかもしれないけれどまだ道教に取り入れられ、経典に記されるほどではなかったかといった状態でした。

北斗七星君と南斗六星君

これまで見てきたように、北斗は星座そのものの信仰から官位を持つ人格神へと変化していきました。しかし、唐代では北斗君という北斗を冠した神とはいいながらも、北斗七星の中の一つ、魁星がそう呼ばれていただけでした。

それが宋代になると、北斗七星全ての星が人格神とされます。

北斗七星の神々は、いわばパクリのパクリで作られた神格です。

まず、唐代に仏教が民間信仰、もしくは道教の北斗信仰をパクって『仏説北斗七星延命経』を作りました。

『佛説北斗七星延命經』は中国で撰述された密教経典である。そこには北斗七星司命説・属星説といった中国民間信仰起源の思想が取り入れられており、経典を読誦し、北斗七星を献祭することによって庶民生活の安寧と長寿が保障されると説かれている。冒頭に「婆羅門僧將到此經唐朝受持」と書かれているが、経名に「佛説」が冠されていることからもわかるとおり、本経典は仏教教義の裏付けをもたない、いわゆる「偽経」である。

サンクトペテルブルク大学図書館所蔵 モンゴル語写本大蔵経の『佛説北斗七星延命經』訳註/松川節
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/2950/files/21_b11.pdf

『仏説北斗七星延命経』では、

子生人 向此星下生 祿食黍 有厄宜供養此經及帶本星符

子年生まれの人は、この星(注:北斗七星の一つ貪狼星)の下に生まれ、黍を与えられ食む。厄があるときはこの経典を供養し、本星の符を帯びるのがよろしい

のようにそれぞれの生まれ年と北斗七星それぞれの星が関連付けられています。それぞれの星に対応した呪文が記されており、これは完全に道教の符をパクった様式です。

また

南無貪狼星是東方最勝世界運意通證如來佛

などとそれぞれの星と、如来が関連付けられています。運意通證如来仏だとか光音自在如来仏など、この経典オリジナルの如来の名称が記されているものの、文曲星が最勝吉祥如来仏、破軍星が薬師瑠璃光如来仏と結び付けられているので『薬師琉璃光七仏本願功徳経』にある七仏薬師とちょうど数が合うということでパクった可能性が高いです。

『佛説北斗七星延命經』のさらなるパクリとして、道教経典『太上玄靈北斗本命延生真經』が作られました。長いので以下『北斗経』と略します。『北斗経』には東漢の永寿元年(西暦155年)に太上老君が天師にこの経典を授けたと書いてあります。永寿元年の天師と言えば、五斗米道の創始者とされる張道陵です。なので、道教ファンダメンタリズムではこの経典は東漢から伝えられたことになっているけれど、そんなわけあるか!

てなことで『北斗経』の成立には、六朝時代から唐代に成立というのと、宋代初期に成立といういくつかの説があります。私は宋代初期の成立説を支持します。なんでかっていうと、宋代から言われるようになった北斗七星に輔星と弼星を加えた「北斗九辰」の記述があるからです。

『北斗経』では北斗七星それぞれの星が神格化された「大聖北斗七元真君」が作られました。現在では「北斗七星君」と呼ばれることのほうが多いです。

北斗第一陽明貪狼太星君 子生人屬之
北斗第二陰精巨門元星君 丑亥生人屬之
北斗第三真人祿存貞星君 寅戌生人屬之
北斗第四玄冥文曲紐星君 卯酉生人屬之
北斗第五丹元簾貞罡星君 辰申生人屬之
北斗第六北極武曲紀星君 巳未生人屬之
北斗第七天關破軍關星君 午生人屬之

こんな具合で、明らかに『佛説北斗七星延命經』のパクリだよなと。中国の宗教史上、道教、仏教、儒教はそれぞれパクリあって発展しています。北斗信仰では道教と仏教のパクリあいが顕著に出ています。

北斗七星だけではなく、輔星と弼星もそれぞれ北斗第八洞明外輔星君、北斗第九隱光內弼星君にされていて、こちらは『北斗経』で付け足されたオリジナル設定です。

『北斗経』で説く北斗真君のご利益は多岐にわたります。

本命真官降駕 眾真悉來擁護 可以消災懺罪 請福延生 隨力章醮 福德增崇

自分の本命星の真官が降臨すれば、人々はことごとく守られ、災いは消えて罪はあらためられる。福や寿命の延長を請うて、能力に従い祭りを設ければ、福徳はより高まることだろう

そして、『北斗経』が家にあるだけで家内安全、両親の長生き、健康に病気平癒、子孫繁栄、果ては財産がなくならないとまで言っています。

多分『北斗経』のご利益を声高に宣伝して、経典を買わせたりお祓いを受けさせたりしたんだと思います。

これあれね、日本の神道や一部の仏教が厄年なる妄想で人を脅して厄払い儀式を購入させようしたり、統一教会が高額の壷を買わせたりしたのと同じ霊感商法ですね。

というか神道の霊感商法の元ネタがここにあるのだと思われます。

中世に入って、仏家神道が唱えられ、日本の神を仏教教理の中に取り込んで説くようになった。いち早く天台系の山王神道や真言系の両部神道が説かれ、仏教側に神道説が生まれたのはその現れである。それに刺激されて、神道側でも教理化が進んできた。吉田兼倶によって、神道の理論化がはじまったのは、その一つの現われである。つまりそれは唯一神道説であって、この唯一神道が創唱されると、その教理化に兼倶は『北斗経』を用いることになった。即ち、兼倶はこの『北斗経』を書写し、神道儀礼に活用している。

中世神道と北斗信仰/菅原信海
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/44/0/44_44_11/_pdf/-char/ja

「神祇道霊印」とは吉田神道において活用された祈祷札の一種である。原典は道教経典、玄陽子徐道齢集註『太上玄霊北斗本命延生真経註』巻五(以下、『北斗真経註』と略記する)所載の霊符集で、全部で五十七種類ある。吉田神道ではこれを「神祇道霊印」とか「「神祇道霊符印」などと称し、独自の教義・儀礼を付与して人々に頒布していた。

吉田神道の「神祇道霊印」と「鎮札」「守」/山極哲平
https://core.ac.uk/reader/228689910

いわゆる吉田神道が作られた時、『北斗経』は宗教で商売するための優れたテキストだったということです。

とまあそれはさておき、おそらくは『北斗経』と同時期に『太上說南斗六司延壽度人妙經』が作られました。北斗七星に遅れること数百年、南斗六星もやっと人格神にされる時がやってきたのです。

天陽地陰 一合而生成兩曜 兩曜行度五緯周天 是謂七政則七星九元北斗也
每以杓隨月建 分指節氣 二十四氣二十八舍 應下土七十二候三十六禽舍
中有斗宿六星 是則號南斗六司 與北斗七政分職

天の陽気と地の陰気が一つに合わさり日月両曜が生じた。両曜は火・水・木・金・土五緯の周天を運行する。これが七政、つまり七星九元北斗である
北斗の杓は月を建て、二十四節気を分ける。二十四の気と二十八宿は、地上の七十二候三十六禽舍に応じる
その中の斗宿六星を南斗六司と号し、北斗七政と職を分ける

三十六禽舍は、1日を十二支で分ける十二時辰のそれぞれ1時間ごとに3種類の獣が対応するというやつです。

ここで南斗六星は南斗六司という人格神になりました。その内訳はこの六柱です。

南斗第一天府司命上相鎮國真君
南斗第二天相司錄上相鎮嶽真君
南斗第三天梁延壽保命真君
南斗第四天同益算保生真君
南斗第五天樞度厄文昌鍊魂真君
南斗第六天機上生監簿大理真君

ご利益についてはこうあります。

凡人轉誦此經 切須至誠虔心禱祝 無不應驗 唯在精勤拜表上章 真聖自降必獲延年長生道性

人々がこの『南斗経』を転誦し、至誠の敬虔な心で南斗六司を言祝げば、験がないはずがない。ただ精勤して礼拝し祭りを行うなら、真聖は降臨して必ずや延年長生させる道の性を得られるだろう

『北斗経』と言っていることはそれほど変わりません。

日本でもありますよね。ある名物、例えば仙台の萩の月がはやると、日本各地にパクリ菓子が生まれる。そういうやつ。

『北斗経』がはやったから『南斗経』も作ろうぜというノリを感じます。

ここでわかるのは、北斗も南斗もどちらも長生やら現世利益をかなえてくれる神とされていることです。北斗の魁星が死を司るという設定はまるっとオミットされています。

『北斗経』で商売をするのに、死を司る神ではウケが悪いとの判断だったかもしれません。

ともかく、北斗七星、南斗六星の信仰は、星官を構成する星それぞれを人格神化するという形に発展しました。

北斗、南斗それぞれ一柱に統合される

現在台湾の道教廟を巡ると、比較的大きめの廟にはたいてい北斗星君と南斗星君が祀られています。しかし、その像はそれぞれ一体ずつです。


北斗星君と南斗星君:台北市關渡宮

北斗七星、南斗六星合わせて11柱とされた双方の神々は、いつ一柱ずつの神に統合されたのでしょうか?道教経典にその答えは見つけられませんでした。

しかしそのヒントは『三国演義』にありました。

葛洪の師匠の師匠のそのまた師匠に当たる道士の左慈が、曹操に妖術を見せて殺されそうになったものの、壁の中に入って姿を消してしまったというエピソードは『後漢書』方術列伝に記されています。葛洪の道統が本当に左慈の系統なのであれば、その本質は外丹と符籙ですから、妖術を見せたというのは怪しい話で、単にその当時有名だった道士の話を盛っただけなのかもしれません。ともかく左慈は『後漢書』にも記録される実在した可能性が高い人物です。

演義ではその左慈が曹操を訪れ、殺されそうになって逃げるという『後漢書』を踏襲した話の後に、曹操が左慈の術によってびっくりして病に伏せるというオリジナル展開が加えられています。

曹操の病気は薬を飲んでも治りません。そこにお見舞いにやってきた太史丞の許芝が、占い師の管輅に占わせることを進言します。そこで管輅がどれだけすごい占い師なのか紹介するために、『捜神記』の管輅の物語がある程度改変を加えて丸パクリされています。

一日出郊閒行 見一少年耕於田中 輅立道傍觀之 良久問曰 少年高姓貴庚 答曰姓趙名顏年十九歲矣 敢問先生為誰 輅曰 吾管輅也 吾見汝眉間有死氣 三日內必死 汝貌美 可惜無壽 趙顏回家 急告其父 父聞之趕上管輅哭拜於地曰 請歸救吾子 輅曰 此乃天命也 安可禳乎 父告曰 老夫止有此子 望乞垂救 趙顏亦哭求 輅見父子情切 乃謂趙顏曰 汝可備淨酒一瓶鹿脯一塊 來日齎往南山之中大樹之下 看盤石上有二人亦棋 一人向南坐穿白袍其貌甚惡 一人向北坐穿紅袍其貌甚美 汝可乘其弈興濃時將酒及鹿跪進之 待其飲食畢汝乃哭拜求壽 必得益算矣 但切勿言是吾所教

老人留輅在家 次日趙顏攜酒脯盃盤入南山之中 約行五六里果有二人於大松樹下盤石上奕棋全然不顧 趙顏跪進酒脯 二人貪著棋不覺飲酒已盡 趙顏哭拜於地而求壽 二人大驚 穿紅袍者曰 此必管子之言也 吾二人既受其私 必須憐之 穿白袍者 乃於身邊取出簿籍檢看謂趙顏曰 汝今年十九歲當死 吾今於十字上添上一九字 汝壽可至九十九 回見管輅 教再休泄漏天機 不然必致天譴 穿紅者出筆添訖 一陣香風過處 二人化作二白鶴沖天而去

趙顏歸問管輅 輅曰 穿紅者南斗也 穿白者北斗也 顏曰 吾聞北斗九星何止一人 輅曰 散而為九合而為一也 北斗注死南斗注生 今已添注壽算子復何憂

ある日管輅が郊外を歩いていると1人の少年が田を耕していました。管輅ははたでしばらくそれを眺め、少年に「君の名前と年齢は?」と問いました。少年は「私は趙顏と申し、19歳です」と答えました。少年があなたはどなたですかと聞くと、管輅は「私は管輅だ。君の眉間を見ると死気がある。3日以内に死ぬだろう。かわいい顔だが寿命が短く惜しいことだ」と告げました。趙顏はあわてて家に帰り、父親にそれを教えます。父親は管輅を追いかけていき、どうか息子を助けてくださいと懇願するも、「これは天命ゆえどうにもなりませんな」という答え。それでも父親は「老いたわしにはこの子しかおらんのです。どうか助けてくだされ」と懇願しました。趙顏本人も泣いて頼み込み、管輅はそれを見て情けが生まれてこう教えます。「酒一瓶と鹿肉一塊をもって南山の中の大樹の下に行きなさい。碁を打つ2人がいて、1人は南向きに坐って白い服を着た醜い男、1人は北向きに坐って赤い服を着た美しい男だ。君は酒と肉を差し出して、飲み食いが終わるのを待ち、泣いて長寿を願うのだ。必ずこたえてくれるだろう。だが、私のことは言ってはならんよ」

老人は管輅を家に泊めました。次の日趙顏は酒と肉を持って南山に入ります。5・6里行くと大きな松の下で碁を打つ2人がおり、周りを気にしていません。趙顏がひざまずいて酒と肉をすすめると2人は碁に夢中になりながら知らぬ間に酒を飲み尽くしました。そこで趙顏が泣いて願い出ると2人はそこで驚きます。赤い服の男は「これは管輅の差金だな、我ら2人すでにもてなしを受けたからには憐れみをかけないわけにはいくまい」と言います。そこで白い服の男がノートを取り出して趙顏を調べ言いました「おまえは今年19歳で死ぬことになっておるが、わしは十の上に九の1字を加えて寿命を九十九にしてやった。帰ったら管輅のやつに、天の機密をまた漏らすようなら天罰が下ると申せ」。赤い服の男が筆を出して終了と添えると、一陣の風が吹いて2人は白鶴となり飛び去りました。

趙顏が家に帰ってそのことを聞くと、管輅は「赤い服が南斗で白い服が北斗だったのだ」と答えました。趙顏が「北斗は九星と聞いていますが、なぜ1人だったのでしょう?」とたずねると、「散れば九だし合すれば一になるのだよ。北斗は死を注ぎ、南斗は生を注ぐ。君は寿命がのびたのに何をなやむことがある?」と答えました。

長かったけれど『捜神記』からどう改変されているかを知ってもらうために、『捜神記』由来の部分を紹介しました。出筆添訖のところはよくわからなかったので適当です。「訖」は完了を意味しますが、筆を出して北斗の死生簿に書いたのか、それとも宙に書いたのかがはっきりしないです。

『捜神記』では、ただ90歳にしてやったというのが、こちらでは十九にひとつ九をつけて九十九にしてやったあたりは、干宝より羅漢中のほうが創作者として発想力がよかったということでしょう。

まあそこらへんの違いはともかく、演義が書かれた明代でも、北斗の神は7星+2星の9柱だという認識はあったわけですね。しかし、『捜神記』でのエピソードを取り入れるにあたって、7人と6人がずらっと並んで囲碁を打っているわけにもいかない。そこで1人ずつにして「散而為九合而為一也」という理屈をくっつけたということだと思います。

おそらくこれが現実の道教にも影響を与えました。

中国人は、基本的に創作物と現実の区別がついていません。だから、孫悟空も神として祀るし、甲子太歳金辨大将軍の目には手が生えるし、関帝聖君には演義のキャラ付けで愛刀とされた青龍偃月刀を持たせます。青龍偃月刀は現実の関羽の時代には存在しない武器です。


青龍偃月刀を携える関聖帝君像:台北市豬屠口協天宮

また、関聖帝君には関羽の息子の関平と、部下の周倉が配される様式がありますが、周倉は後に作られた架空のキャラクターです。


周倉将軍:台南市祀典武廟

そんなお国柄ですから、7柱と6柱だった神々が、小説の影響で現実の信仰でもそれぞれ1柱ずつに統合されるのはありえないことではないかなと思います。

また、長らくオミットされていた北斗は死を司り、南斗は生を司るという設定も、『三国演義』の影響で復活したのでしょう。

なお、ネットで調べた限りでは、中国では北斗を7柱、南斗を6柱祀る廟もあるようです。

道教の神々

Posted by 森 玄通