妖怪と神は紙一重

日本では神と妖怪の境目があやふやなところがあります。よく知られたところでは付喪神。100年使われ続けた道具などに精霊が宿って神になるというものとはいいつつも、扱いは妖怪です。
秋田県のなまはげ、悪石島のボゼ、宮古島のパーントゥ、これらは見た目は完全に妖怪で、しかし「来訪神」と呼ばれる神でもあります。
妖怪を神として祀る神社もあります。栃木県の大田原市には大妖怪九尾狐の玉藻御前を主祭神とする玉藻稲荷神社があるし、京都には酒呑童子を祀る首塚大明神があります。
犬神や蛇神も妖怪かつ神のようなものでしょう。
最近『共闘ことばRPG コトダマン』で〈物語〉シリーズのコラボが始まったのをきっかけに久しぶりに最初からシリーズを読み始めました。すると『偽物語』の下巻にこんな一文がありました。
「怪異と神とごっちゃに————」
していいのか。
それこそこの国じゃ、怪異はイコール神みたいなものなんだと、それも忍野が言っていた。『偽物語(下)』西尾維新著 講談社刊
〈物語〉シリーズで言う「怪異」は超常的な現象や存在のすべてを指すので、怪異=妖怪というわけでもないのだけれど、要は一神教の唯一神とは異なり、多神教における神は絶対不可侵の神聖な存在ではなく「あやかし」の類と明確な線引きはされていないということです。
道教にもまた、そんな妖怪なのか神なのかあやふやな神一重、いや紙一重な神が存在します。
斉天大聖

斉天大聖:台南市臨水夫人媽廟
斉天大聖。言わずと知れた孫悟空です。孫悟空はもちろん『西遊記』で創作された架空のキャラクターだけれど、しかし現実世界でも神として信仰されています。日本人も玉藻御前や酒呑童子のような架空のキャラクターを祀っていたりするのだから、道教が孫悟空を現実の神としていたとしてもバカにはできません。だいたい神なんてものは畢竟すべてが架空のものですし。
孫悟空は花果山のてっぺんに置かれた岩が日月の精気を吸収したことで命を宿し、そこから生まれた石猿の妖怪です。斉天大聖は最初悟空が自ら名乗った号でした。しかし、托塔李天王と哪吒三太子を破った強さにビビった玉皇大帝が、正式に斉天大聖に封じました。作中では名ばかりで実のない官職だったこの号は、後に孫悟空の神号として定着することになります。
石猿の妖怪孫悟空と天界の神斉天大聖。ここに本質的な違いはありません。違いは単に天帝に認められたかどうかだけ。仏として祀られるならわかります。物語の最後で悟空は日本語の慣用句として完璧に間違った意味で使われる成仏ではなく、仏教的に正しい意味で成仏して闘戦勝仏という仏になりましたから。
確かに西王母の蟠桃や太上老君の金丹を食べて不老不死となったというのは、仙人になったと示唆しているわけだけれど、妖怪としての悟空の属性は特に変わっていないのですね。道教神としての斉天大聖は、妖怪のまま同時に神でもあります。
千里眼と順風耳

媽祖と千里眼、順風耳:台北市艋舺啓天宮
『西遊記』の冒頭、まだ孫悟空と名付けられる以前の生まれたての石猿は、両目から金光を発しながら世界をきょろきょろと見渡しました。その目からビームはなんと天界まで届いて玉座の玉皇大帝を直撃します。『MUSASHI -GUN道-』とは異なり、本当に光を目にうけた玉皇大帝が「うぉっまぶしっ」となったのも無理はありません。
そこで、何が起きたのか調べるために召し出されたのが千里眼と順風耳の二神でした。名前の通り千里の先も見通せる目と、風が運ぶ遠くの音まで聞こえる耳を持った神々です。
この千里眼と順風耳は、本来は天上聖母の属神です。媽祖廟に行けば、媽祖の横には必ず千里眼と順風耳が控えています。控えているっていうか、媽祖を守るように左右に立ち並んでいます。
千里眼と順風耳も元は妖怪でした。さらには、妖怪になる前は人間の兄弟だったという伝承もあります。
媽祖信仰の発祥地と言われる湄洲島の付近に妖怪が現れ、人々に危害を与えていました。それが千里眼と順風耳で、それを聞きつけた媽祖が赴いて調伏した結果、千里眼と順風耳は媽祖に従うことになりました。

媽祖に降参した千里眼と順風耳:新北市板橋慈恵宮
千里眼と順風耳が媽祖をナンパしようとしたらやりこめられたなんていうパターンもあります。
とにかく千里眼と順風耳は媽祖に従うようになり、媽祖廟で祀られたために神として拝されてはいるものの、でも妖怪のままで神になっています。
西王母

西王母:台北市無極瑶池宮
道教では女神の最高位である西王母も、元は妖怪のようなものでした。
現存している文献の中で西王母の名が記される最も古いものが『山海経』です。中でも西山経と大荒西経に記される西王母は原型に近い姿を描写していると思われます。
西山経には、
又西三百五十里曰玉山是西王母所居也 西王母其狀如人 豹尾虎齒而善嘯 蓬髮戴勝 是司天之厲及五殘
さらに西に350里行ったところが玉山といい、西王母が住むところである。西王母は人のような姿で、豹のしっぽ、虎の歯をもちよく吠える。ざんばら髪にかんざしを挿している。天災と5つの刑罰を司る。
大荒西経には
西海之南 流沙之濱 赤水之後 黑水之前 有大山名曰崑崙之丘 有神 人面虎身有文有尾皆白 處之 其下有弱水之淵環之 其外有炎火之山 投物輒然 有人戴勝 虎齒有豹尾穴處名曰西王母 此山萬物盡有
西海の南、流砂の浜、赤水の後ろで黒水の前には大きな山があってこれを崑崙の丘と言う。そこに神がいる。人面で虎の体、文様があり尻尾があり、皆色が白くて崑崙の丘に住んでいる。その下は弱水の淵が取り囲んでいて、外側には物を投げ込むとすぐ燃えてしまう炎火の山がある。そこにかんざしを挿した人がいて、虎の歯と豹のしっぽを持ち穴に住んでいる。名を西王母と言う。この山には万物が全てある。
というように記されています。
西山経には「人のよう」と言いつつも天災や刑罰を司るとされているので、ある意味神だと示唆していると思います。
いっぽう大荒西経の記述では、文脈的に見れば崑崙の丘に住む人面虎の神と西王母は別の存在であって、西王母はあくまでケモ要素がある人です。後に西王母が崑崙山に住むとされたのはここらへんが混同されたためだと思います。
とにかく、西王母は虎の歯、つまりは牙が生えたキザ歯でヒョウ柄のしっぽを生やしていて、日本人がこれを知ったら即座に萌えキャラにすることは想像に難くないケモっ娘でした。『山海経』の作者的には恐ろしげな姿を描写したつもりだろうけれど、現代日本人からしたら萌え要素しかありません。
『山海経』西山経、大荒西経に記される西王母は妖怪のような見た目をしつつ、「天之厲及五殘」という神のような職能も持ちます。『山海経』には西王母の他にも見た目的に妖怪のような神々がいろいろ記されています。『山海経』に記される妖怪、もしくは神は、いわゆる「中国」とされる範囲の外周に住んでいた様々な部族の信仰が反映していると考えられます。そうした部族は、人とは違う自然の精霊のようなものを宿した存在を神として描いていたのかもしれません。
妖怪が神でも特に問題はなかった
なぜ妖怪が神になりうるか?冒頭に挙げた〈物語〉シリーズの『猫物語(黒)』にはこんなことが書かれています。
「ああ、そりゃ仕方のないことだよ阿良々木くん————吸血鬼に限った話じゃない。怪異ってのは、言うなら人間の信仰でできているからね」
「人間の信仰?」
「そう。人間がそこにあると思うからそこにあるもの————それが怪異だ。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言うけれど、正体を見る前は、枯れ尾花は本当に幽霊だったということなのさ」『猫物語(黒)』西尾維新著 講談社刊
これはまあ、あくまで小説の中のキャラクターがそう言っているというだけのことで、これが正しい考え方だと言い切ることはしません。
でも私はこれがわりと的を射た考え方だと思うのです。
人間がそこにあると思うからそこにあるもの。それは怪異でも神でも妖怪でも同じこと。全部フィクションで全部人間が作り出した架空の存在でしかない。だけど、いると信じるからいることになる。
架空のものをいると信じて信仰するのだから、その存在が神なのか妖怪なのか、それは信仰する側がどうそれを設定するかの違いしかありません。こいつは妖怪だと言うなら妖怪だし、神だと言うなら神です。おまえは神でオレは妖怪だ!そこになんの違いもありゃしねえだろうが!です。
『山海経』より数百年後、道教が形成されると、主に人間型の神が作られていきます。新規に作られた神に妖怪と区別がつかないようなのはいないし、古来より伝わる西王母のような半獣半神も獣の要素を削られて人間型にされます。
道教では現実の朝廷を反映させた天帝を頂点とする天界のヒエラルキーが創作され、するとそこには妖怪というか、人間の姿をしていない化け物が神として入り込む余地がなくなります。それは都市化が進んでいく中で野生への恐れが薄れ、人間至上主義に変化していったせいもあるように思えます。
しかし元代になると講談や雑劇のような庶民の娯楽文化が広まり、明代には講談などから娯楽小説も作られるようになっていきました。
孫悟空というお猿のヒーローもそんな時代に生まれました。
孫悟空は暴れ者だとはいっても、義に篤く、唐僧の弟子になってからは頼りない師匠のために活躍します。その上、現実の朝廷のカリカチュアとして描かれる天界を荒らすことで庶民の溜飲を下げました。さらには作中で天界の神として認められています。
こんな下地が作られた後、孫悟空は現実世界で神として信仰されるようになりました。小説で作られた石猿の妖怪だからどうしたというのか?庶民の多くがこれは神だと思ったから神として信仰されうるのです。
日本人だって温泉地にたまたまあったでかい岩を、九尾狐が化けた殺生石のかけらだなどと言って注連縄をかけて祀っていたではないですか。昨年那須の殺生石が割れたら九尾狐が復活するだの九尾狐のたたりだなどと騒がれたではないですか。ただの岩が自然に割れただけだったのに。
人間がそう思ったから、そういうことになる。妖怪と神に違いなんてありません。少なくとも多神教においては。
そんなこんなで、民間で人気が高まって信仰されるようになった孫悟空は、道教にも取り入れられることになりました。そこらへん道教は良く言えば融通無碍だし、悪く言えば無節操です。
なんで妖怪が神になるんだよ!?なんで小説のキャラが神になるんだよ!?
その答えは至極簡単。人間がそう思ったからです。
神は人間の脳内にしかいない。御神体として像ではなく鏡を置く神道の神社は、案外それをよくわかっているのかもしれません。






