道家思想と道教は別物と考えるべき

「道家」と「道教」は同じものか否か?

これについては諸説紛々です。

「道家」とは、老子や荘子などの思想を説き、伝えた人々であり、「道教」は中国で生まれた信仰・修行体系を持つ宗教のことです。

日本ではこの両者は別のものだと考えるのが主流です。

しかし、道家と道教がイコールだという主張もあります。

道家と道教が同じとする説

歴史的には道教側が道家は道教と一体のものだと言い張ってきました。

道教、特に設定上五斗米道の流れをくむということになっている正一教では、創始者の張道陵が、太上老君—神格化された老子—のお告げによって道を志したということになっているので、老子こそが道教の始祖であるとしています。

また、道教の経典として『老子』が『道徳経』、『荘子』が『南華真経』として取り入れられ、伝えられてきました。

これらを伝えてきたという意味では、道教は道家としての要素も含んでいると言えます。

中国では道家と道教はあまり別物として扱われず、「道家経典」と言うときには老荘や列氏、文子だけではなく『黄庭経』や『悟真篇』といった道教の経典を入れることもあります。

アンリ・マスペロを嚆矢とする欧州の研究者も、道教も道家も「Taoism」として同列に扱います。

天台宗の僧侶であり、日光山輪王寺の唯心院住職であった故・福井文雅氏は『アジア思想概論』において中国の文献をひもとき、古来より中国では「道家」という言葉は「道教」の意味で使われてきており、同義語であるから、両者を分ける日本の考え方は間違っていると批判しました。

道家と道教は同じとは言い難い

しかし、本当に道家と道教を分ける必要はないのでしょうか?

福井氏の主張は、単に中国では道家と道教という言葉が混同して使われていたということを証明したに過ぎません。

内容的に同じかどうかについては考慮がされていないのです。

老子の思想の中心にあるのは「道」です。

この「道」は『老子』第一章で「道可道非常道」と言っているように、形ある道のことではなく天地を統べる法則のようなものです。

そして、この道と一体化するために無為自然であれというのが老子の思想です。

荘子はそれをさらに個人の生き方として無為自然突き詰めました。

しかし、道教では老子を神格化し、さらにその「道」までをも神格化して、人格神として崇めます。

神格化された老子が太上老君道徳天尊で、神格化された「道」が太上道君霊宝天尊です。

そこに元始天尊が加わると、多くの道教宗派で最高神とされる三清となります。


三清道祖:無極天元宮

老荘思想においては「道」は一体化し、従うものであって崇拝するものではありません。

「道」に対する信仰という要素が入った時点で、道家と道教は別物です。

また、道家思想では、死もまた「道」のあらわれの一つであるとして否定的に考えません。

特に荘子では人間は天分に従って生きるべきだと考えますから、死を拒否して避けようとはしません。

これをもって荘子が生を否定しているなどと言う人もいます。

でもそれは荘子の思想を正しく理解していないからであって、生も死も天命として肯定するというのが荘子の考え方です。

一方、道教の核の一つである神仙思想では、不老不死もしくは不老長生を目指します。

方法論の違いはあれど、正一教でも全真教でも「羽化登仙」は大きなテーマの一つです。

道教では、羽化登仙は「道」と一体になることで達成されると設定することで、老荘思想との乖離を埋めようとします。

しかし、体内に神々をイメージする「存思」を行うのも、体内で気を養い巡らせる内丹法によって練気化神を目指すのも、老子が嫌う人為的行為である時点で老荘思想とは相容れないものであるのは明らかです。

道教に限らず、日本における中国文化研究は得てして的はずれなことが多いけれど、道教と道家は違うものだとする点では、日本の研究者が正しいと言わねばならないでしょう。