守庚申

『西遊記』には孫悟空が寿命が尽きて一度死に、幽冥界に行くものの、十代冥王、つまり十殿閻羅を脅して生き物の寿命が書かれている生死簿子から自分の名前を消してしまうというエピソードがあります。

生きるものには天が決めた命数があるけれど、やりようによってはそれを伸ばせるし、逆に短くなることもある。というのが道教での寿命に関する考え方です。

寿命を伸ばす方法は、外丹や内丹、存思など様々な方法が考えられてきました。

しかし逆に人間には命数を減らすものも巣食っている。それをどうにかしなければ寿命が短くなってしまう。という考え方もあります。

それが三尸です。

道教の三尸説

三尸(三屍)とは、人体に巣食うとされる一種の虫のこと。

三尸について触れられている現存する中で最も古い書物は『抱朴子』です。

『抱朴子』には『易内戒』『赤松子経』『河図記命符』などの書物にこう書いてあるとして三尸についてこう述べられています。

ちょっと長いですが引用します。

或曰 敢問欲修長生之道何所禁忌

抱朴子曰 禁忌之至急 在不傷不損而已 按易內戒及赤鬆子經及河圖記命符皆云 天地有司過之神 隨人所犯輕重 以奪其算 算減則人貧耗疾病 屢逢憂患 算盡則人死 諸應奪算者有數百事 不可具論 

又言身中有三屍 三屍之為物 雖無形而實魂靈鬼神之屬也 欲使人早死 此屍當得作鬼 自放縱游行 享人祭酹 是以每到庚申之日 輒上天白司命 道人所為過失

又月晦之夜竈神亦上天白人罪狀

あるいはこういう質問もある。「あえて聞きますが、長生の道を修めようとするならばなにか禁忌はありますか?」

抱朴子(葛洪)は言う「禁忌の中でも至急なのは、自らを傷つけないこと、損なわないことだ。『易内戒』『赤松子経』『河図記命符』などにはみんなこう書いてある。天地には人の過失を司る神がおり、犯した過失の軽重に従って人の命数を奪う。命数が減ると人は消耗して病気になり、次々と憂患にあうことになる。命数が尽きれば人は死ぬ。命数を奪う事柄は数百あるから詳しくは述べられない。

またこうも言う。人体には三尸なる物がいる。無形で霊魂鬼神に属するものだが、自由に遊び回って供え物を楽しめる霊体になるために、その人を早死にさせようとしている。庚申の日が来るごとに天に登って司命神に人の過失を告げ口する。

また、毎月の晦日の夜にはかまどの神も天に登って人の罪を報告する」

『易内戒』『赤松子経』『河図記命符』などの書物は現在では散佚しているっぽいです。

三尸は葛洪の創作ではなくそれより以前からそうした信仰があったようです。

かまどの信仰は古くからありました。

『礼記』にかまどを祀る習慣が記されています。

孟夏之月 日在畢 昏翼中 旦婺女中 其日丙丁 其帝炎帝 其神祝融 其蟲羽 其音徵 律中中呂 其數七 其味苦 其臭焦 其祀灶 祭先肺

孟夏の月には太陽は日中は畢宿の位置に、黄昏時には翼宿の位置に、日の出には女宿の位置にある。日は丙丁、帝は炎帝、神は祝融、虫は羽。音は徴で音程は中呂。その数は七、味は苦で匂いは焦、灶(かまど)を祀り肺を供える。

かまどの神は晦日、つまり毎月の末日に天に戻って、その家に住む人間に罪があると神に報告するといいます。だから古い時代の中国の女性は、かまどの前では悪口を言いませんでした。

もっとも、『礼記』の時代にすでにそんな設定があったのかは不明です。

三尸がキャラクター化される

葛洪は三尸を無形と記しています。

それが後の時代にキャラクター化されていきました。

まず南北朝から唐になる間ぐらいに『太上三屍中經』が作られました。

三尸をメインに説く経典です。

ここでは

人之生也 皆寄形於父母胞胎 飽味於五穀精氣 是以人之腹中各有三屍九蟲 為人大害 常以庚申之日上告天帝

人が生まれる時には皆父母の胎内に体を宿らせ、五穀の精気で満たされることで腹の中に三屍九蟲が生じ、人に大害をなす。庚申の日に天帝に報告している。

父母の胎内っていうのはおかしいですが、要するに両親の生命力から体を与えられると解釈すればいいでしょう。

葛洪が司命神に告げ口するとしていたものが、天帝に告げ口する設定に変化しています。

そして

「上屍名彭倨・中屍名彭質・下屍名彭矯」と、三尸がそれぞれ頭、腹、足にいること、それぞれ名前があることが設定されました。

唐の監察御史柳宗元は、『柳宗元集』にこう記します。

有道士言 人皆有尸蟲三 處腹中 伺人隱微失誤 輒籍記 日庚申 幸其人之昏睡 出讒於帝以求饗

ある道士が言うには人にはみな三尸虫が腹の中にいて、人の過失をうかがって記録している。庚申の日になるとその人が眠っている間に出ていって、天帝に讒言し饗宴を求める。

道教が隆盛する唐代には三尸説は広く知られるようになっていたようです。

もっとも柳宗元は「そんなの信じねえ」「かかってこいよ尸虫」と書いています。

同じく唐代に書かれた『酉陽雜俎』には

三尸一日三朝 上尸青姑伐人眼 中尸白姑伐人五藏 下尸血姑伐人胃

とあります。ここには『太上三屍中經』とはまた別の上尸青姑、中尸白姑、下尸血姑という名前が記され、その居場所も目、五臓、胃になっています。

もっとも『酉陽雜俎』は序文にこれ志怪小説だからと書いてあるので、道教の経典ではありません。

唐末に作られたと言われる『太上除三屍九蟲保生經』では、

一曰伏蟲長四寸 二曰回蟲長一寸 三曰白蟲長一寸 四曰肉蟲如爛李 五曰肺蟲如蠶蟻

と具体的なイメージが考え出され、さらに上尸は人間型、中尸はなんか獣のような感じ、下尸は足のついた牛というビジュアルイメージも作られています。


https://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%B0%B8より画像引用

三尸への対抗策と信仰

さて三尸は不老長生を目指す道士のみならず、普通に寿命を全うしたい人にとってもやっかいな存在です。

かまどの神の方はあったことを正直に伝えるので、身を謹んで悪いことをしなければ済みます。ところが三尸は宿主を早死にさせるために讒言までするのでどうしようもありません。

『抱朴子』にはすでに解決法が示されています。

又雄黄當得武都山所出者 純而無雜 其赤如雞冠 光明曄曄者 乃可用耳 其但純黃似雄黃色 無赤光者 不任以作仙藥 可以合理病藥耳 餌服之法 或以蒸煮之 或以酒餌 或先以硝石化為水乃凝之 或以玄胴腸裹蒸之於赤土下 或以鬆脂和之 或以三物煉之 引之如布 白如冰 服之皆令人長生 百病除 三屍下

雄黄は武都山でとれるものが純粋で混ざりものがない。赤い部分は鶏のとさかのようで、光沢があるものが使える。純黄は雄黄に似るが赤く光る部分はなく、仙薬には使えないが治療薬には使える。服用のしかたとしては、蒸煮にする、酒に漬ける、硝石を使って液状にして凝縮させる、豚の腸に包んで蒸してから赤土に埋める、松脂と混ぜる、硝石・豚の脂・松脂と練る。布のように伸ばし氷のように白くなったものを服用すれば、人は長生きできて、百病が除かれ、三尸が下る。

なるほど薬で下せるものなら下してしまえばいいわけです。

しかしこの方法には大きな問題があります。

雄黄はヒ素を含む毒物です。こんなものを飲めば長生きどころではありません。何毒を勧めとんねんって話です。

続く『太上除三屍九蟲保生經』では、三尸を下す「太上去三尸鍊水銀靈砂」の処方が記されています。

はっきり水銀と書いちゃってます。やばいです。

どうも昔の道士はヒ素だの水銀だのと毒物を飲ませようとする傾向があるようです。

『太上除三屍九蟲保生經』には他に「守庚申之日法」も示されています。

これは頭の中に太上老君を、泥丸=眉間の上丹田に真人2人を心中に太上帝と絳宮真人2人を存思し云々で黄色い錦帳の中で座せば三尸が動けなくなるというものです。

つまり、毒を飲んで三尸を下すのではなく、体内に神々をイメージする存思法を行うことで三尸が体から抜け出て天に告げ口に行くのを防ごうというものです。

こうして、おそらく唐代に、庚申の日には眠らずに存思法を行う「守庚申」の修行ができました。

守庚申は不老不死を得るための道士の修行の一つです。庚申の日は60日に一度めぐってきますから、一般人が2ヶ月に一度徹夜するなんていうことはできません。

では一般人はこの三尸をどうしていたのか?

南宋になって、北宋の首都開封の繁栄を懐かしんで書かれた『東京夢華録』にはこんな一節があります。

出保康門外 新建三尸廟

東京開封府の大内前州橋東街巷、その出保康門の外に新しく三尸廟が立てられたというわけです。

人体に潜む悪い虫とされていた三尸は、このころには三尸神として信仰されてもいました。

日本の神道でタタリ神を祭り上げ、力を封じ込めるというようなことは道教でも行われています。

おそらく守庚申のような、存思法の実践と忍耐を要する徹夜は無理なので、神様として祀ってなんとか告げ口をしないようにお願いしようとしたのでしょう。

ただ、後には単に庚申の日に徹夜するという形で一般にも広まっています。

中国の百度百科で三尸を調べると、ページ上部に表示される動画で道士らしき人物が、三尸とは仏教で言う貪瞋痴を比喩したものであると言っています。

貪瞋痴は三毒とも呼ばれ、貪は貪る心、物欲など、瞋は怒りや憎しみ、痴は真理を理解しようとしない愚かさを指します。日本の坊主でこれを滅却できた人は歴史上でもそれほどいないでしょうね。

心を清浄にし、三毒を消滅させれば、三尸もおのずから消えるとするならば、ヒ素や水銀を飲んだり、無駄に徹夜したりするよりずっといい解決法です。

これは、仏教の影響を受けた道教で考えられたものではなく、道教の影響を受けた仏教側で考えられたものでしょう。それが一部の道教宗派に還流しているものと思われます。

三尸と司命神と年末大掃除

葛洪は三尸は人の命を司る司命神に告げ口をしに行くと書きました。

つまり三尸は司命神の配下のような存在ともとれます。

そして、三尸とは別にかまどの神も人の罪を報告に行くとしています。

葛洪の時代では司命神とかまどの神は別の存在だったということです。

ところが後の時代、かまどの神と司命神は同一の神ということになり、司命真君という神格が作られました。

そして、三尸が告げ口に行くのは司命神ではなく天帝だということにもなりました。

似たような職能を持ち人の命数に関る三尸とかまどの神。

のちにこれが年末大掃除と紐付けられておもしろいお話が作られています。

三尸はデマが大好きで、いつも玉皇大帝に告げ口に行きます。

ある日三尸は、人間が玉皇大帝を呪詛したと嘘を吹き込みました。

これを真に受けた玉皇大帝は、神を冒涜する家に蜘蛛の巣で目印をつけ、王霊官に命じてその家の者の魂を刈り取らせることにしました

三尸は先回りして家々に蜘蛛の巣を張っていきます。

それを知ったかまどの神は、人間たちに年末の送灶の後、家中の掃除をしっかりするように命じ、掃除されていない家のかまどには入らないと告げました。

送灶は12月の23日か、地方によっては24日に灶君=かまどの神を祀る風習です。

人間たちは家の守り神のかまどの神様がいなくなっては大変と掃除をします。

地上におりた王霊官は、目印の蜘蛛の巣がどの家にもなく、家々には明かりが灯って団らんしているのを見て、誰も殺さずに天に戻って玉皇大帝に報告しました。

玉皇大帝は自分を呪詛したというのは三尸の讒言だったと知り、三尸を罰します。

それ以来、人間たちは年末の送灶の日に大掃除をするようになりましたとさ。

この話は玉皇大帝が天帝として出てきますから宋代以降に作られたお話です。

中国の年末大掃除の習慣は春秋時代にはあったといいます。

元々は家をきれいにすることで悪運を追い出し、家の運気を刷新するために行われていたようです。

ここで言う12月23日、24日は当然農暦です。伝統行事を新暦の日付で行って疑問に思わないアホな国は日本だけです。

かまどの神が人間を救ったのは、人間が死に絶えると自分が祀られなくなってしまうからではないかと思います。

ここに、嘘をついてでも人間を早死にさせたい三尸と、人間に罪があれば天に報告をするけれど、その家の守り神という立場でもあるかまどの神との性格の違いが出ています。

日本の「庚申待」

道教が古代日本に伝わったか否かは学者によっていろいろ議論されている議題です。

少なくとも道教は仏教のような形では伝わっていません。

道士が日本に布教に来た形跡もないし、遣隋使や遣唐使のような朝貢使で道教を学びに行った日本人もいません。

とはいえ朝貢使が持ち帰った書物の中に一切道教の影響を受けた書物がなかったというのはありえないし、空海のような僧が学んだ仏教の中にも道教の影響はありました。

ちなみに冊封、つまり中国皇帝に臣下の礼をとって属国となり王権を認めてもらうことと、中国に貢物を贈って見返りをもらったり文化を教えてもらう朝貢とは別物です。

多利思比孤なる人物が煬帝にジョートーかまして冊封体制から抜けた後も、日本はちゃっかり数度の遣隋使を送っているし、隋の後に唐が立つと遣唐使も送っています。どっちも朝貢使で、隋や唐にとっては臣下の礼をとらないくせに貢物はもってきて最新の文化を教えろと言ってくる図々しい嫌なやつらだったでしょうね。

閑話休題。

要するに日本には断片的に道教文化の知識は入ってきていて、その断片的な情報から占いや魔除けの方法をつまんで陰陽道なども作られています。

守庚申も遣唐使によって中途半端に日本に伝わり、日本人特有の適当解釈でローカライズされて「庚申待」という文化ができました。

『枕草子』九十九の段に「五月御精進のほど」とあるのが守庚申のことだとか。

ご精進と言うのだから精進潔斎して夜を明かすというタテマエだったのでしょうけれど、単に徹夜して夜通し歌会をする貴族のお遊び行事になっていたようです。

守庚申と三尸の情報だけ適当に受け取った日本人は、しかし三尸が天に告げ口に行くというところまでは知っていても、どうやら司命神や天帝のことは知りませんでした。ましてや道士から存思法を学んだ日本人などいなかったはずです。

やがて守庚申は民間にも広まっていきます。

そして仏教と結びつき、青面金剛という三尸の働きをおさえる神がでっち上げられました。


日本三庚申の一つ:台東区小野照崎神社


青面金剛碑:川越市薬師神社

また、神道では庚申の申からのダジャレで、猿田彦が庚申の神だとされました。

村ごとに庚申堂という守庚申のためにこもる建物が建てられ、庚申の日ごとに徹夜して酒盛りや祭りが行われたようです。

「庚申待」は「庚申祭り」から転訛したものだとも言われます。

庚申待を3年間続けると「庚申塚」「庚申塔」が建てられました。現在でも日本各地に残っています。


庚申塚:渋谷区鳩森八幡神社社外

もっとも江戸時代になると守庚申の本来の意味は失われます。

例えばこの江戸時代に建てられた小治兵衛窪庚申塔の説明にはこうあります。



板橋区小治兵衛窪庚申塔

「庚申(かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待という」

もはや三尸はどうでもよくなっていて、地域の集会へと変化していたことがわかります。原義を失いルーチンワークのみが残るあたりは日本文化の面目躍如です。

農村などでは昭和まで庚申待を行っていたところもあるようです。

仙術

Posted by 森 玄通