承負-より強く善行を勧める思想-

「親の因果が子に報い」「猫を殺すと三代祟る」「坊主殺すと七代祟る」日本語にはこんな俗信というか迷信みたいな言葉があります。

○代祟るは地域によってもバリエーションがあり、ちょっとググっただけでも「火元は七代祟る」だの「坊主だませば7代祟る」だの「不義の子は三代祟る」だの出てきました。

猫の場合も三代どころか「猫を殺すと七代祟る」というパターンもあるようで、私は猫好きなので七代どころか末代まで祟られろと思います。

さて、こうしたある時代の人間の行いが次の世の子孫にまで影響するという、非常に粘着質な考え方は仏教の因果説から来ていると考えるのが一般的なようですが、私はこれはおそらく道教の「承負」という考え方の変形ではないかと思います。

因果はあくまで個人のもの

仏教における因果という考え方は、ある原因があるがゆえに結果があるという考え方です。これは「縁起」とも関わります。

日本では仏教用語は徹底的に誤解されており「成仏」も「彼岸」も正しく使われることはめったにありません。「縁起」もまた同様で、日本語では例えば仏滅に結婚式を挙げるのは縁起が悪いだのご飯に箸を立てるのは縁起が悪いだの言われます。私は室内で新しくおろした靴を履いてそのまま外に出るのが縁起が悪いなどと言って育てられました。バカバカしい話です。

まあ、ご飯に箸を立てるのは縁起云々ではなく行儀が悪いのでしませんけれど、新しい靴の紐を室内で結んでそのまま外に出るなんてことは普通にします。

とまあ、日本語で慣用句的に使われる縁起はそもそも間違いで、縁起とは「起」読んで字の如く何かが起こるには「縁」それが起こる条件があるということです。原因と結果を示す因果とは微妙に
異なりはしますが、とにかく人が輪廻という苦しみを巡るのは縁起なり因果なりを正しく理解しておらず執着を生むからで、それを正しく理解して執着を断つことが此岸より彼岸へ至る道だみたいなのが仏教の考え方です。

仏教における因果は、あくまで個人のものです。個人の因がその子孫に果となって反映するなどとは考えません。また、因は果となって終わるわけですから、親の因果によって子供が被害を受けるということもありません。確かに親が罪を犯した結果捕まって、そのせいで子供が苦労するということはあるでしょうけれど、それは仏教思想の因果とはまた別の話です。

親の負の遺産を子孫が負う

中国にも仏教の因果と似たような考え方はありました。詳しくは功過格の記事に書いてあります。

ここで簡単に説明すると、善を行えば神の加護が得られ、悪を行うどころか良いことを行わないだけで病気になったり寿命が短くなったりするという考え方です。

これは後に仏教の因果応報の思想から影響を受けて、善行悪行のポイントにより死後の先行きが変わるという功過格が作られました。

しかし、現実の世の中にはこの思想だけでは説明できないことがありました。

いくら善行を積んでも不幸にみまわれる人、逆に悪行を積んでも豊かに栄える人がいるわけです。

現代日本にだって現実にあることです。日々真面目に生きて世の中に貢献していた人が突然の災害で亡くなったり、どうしようもない悪人がのうのうと生きながらえていたり。これは因果応報では説明できません。

そこで「承負」という思想が生まれました。これは先祖が悪行を行っているとそのマイナスポイントが子孫にふりかかり、いくらその子孫が善行を積んでも不幸になる。逆に先祖がよいことを行っていると子孫が悪行を行っても幸福になるというものです。

古代の道教では、矛盾に満ちた現実をこのような思想によって説明しました。

だから日本の「親の因果が子に報い」というのは承負の思想から来ているものと思われます。

日本人が本来は儒教の祭具である位牌を後生大事に拝んでみたり、本来は道教の道士の修行法であった守庚申を行ったりしたのも、中国仏教にまじり込んでいた儒教や道教の断片を仏教だと思い込んでなんも考えずに取り入れたからです。因果にからめて承負の思想が入り込んでいても不思議ではありません。

承負はまた、功過格と同様信徒に善行を促す考え方でもあります。

いくら先祖がよいことを行っても、自分が悪を行えば子孫にそれがふりかかるし、先祖が悪を行っていても、今自分が善行によってそれを精算すれば子孫は幸福になれる。だから良い行いをしましょうということです。

もし自分自身が先祖の悪行によって不運に見舞われていても、そこで善行を心がければ子孫は幸福になれるんだよという救いが用意されているのですね。

そんなことが本当にあるのかどうかはともかくとして、自分の子や孫たちのためなら身を謹んでよいことをしようと考える人もいたでしょう。

そういう意味では、承負は功過格よりもさらに強く善行を勧める思想だったと言えます。

だからまあ、「親の因果が子に報い」なんていうのは迷信だとしても、子孫に迷惑をかけないつもりで悪いことを行わない、良い行いを心がけるという道徳心につなげるのであれば、こういう考えもまたありだと言えるでしょう。宗教の思想は迷信だからと切って捨てればいいというものではありません。