道教の神々:至聖先師

日本だと40歳を「不惑の歳」と言ったりします。その出典は『論語』為政篇にあります。
吾十有五而志于學 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而從心所欲不踰矩
私は15歳の時に学問を志し、30歳で独り立ちした。40歳になって惑いがなくなり、50歳になって天命を知った。60歳で聞いたことの理を理解できるようになって、70歳でやりたいようにやっても規律からはずれることはなくなった。
孔丘は15歳で学問を志し、不断に15年学び続けて30歳で独立できるレベルに達し、さらにそこから10年研鑽を重ねてやっと学問に対する惑いがなくなりました。
「40歳になったけどまだまだ不惑とは言えないなー」みたいなことを言ってるやつは、まず15歳で何かを志し、それを25年続けて来たのかと。15歳からの過程をすっとばして40歳になったら自然に「不惑」になると思ってるのは頭悪すぎるだろうと。反省しろと。と思うわけです。
さてこの孔丘。もちろん儒教の聖人でもあるわけですが、実は「至聖先師」という道教の神にもなっています。
孔丘が「聖人」になるまで
孔丘は春秋時代の魯の国に生まれました。現在の山東省のあたりです。生年は紀元前552年とも551年とも言われています。
魯は、周を開いた武王姫発の弟で、周の内政を担った姫旦を始祖とします。といっても姫旦は魯の運営は子の姫伯禽に丸投げしていました。
孔丘は魯の大夫の息子に生まれ、しかし3歳にして父がなくなったので母とともに姫旦が封じられた曲阜へ移り住みました。
『史記』には孔丘の母は『顔氏』としか書かれていないけれど、『礼記』に徴在という名前が記されています。その顔氏が葬式を行う職能集団の巫女であり、そのような葬式業者が「儒」だったとか。
孔丘は夢に姫旦を見るほどの姫旦オタで、周の始めには姫旦がまとめた礼を中心とした統治、いわば礼治によって安定した社会が保たれていたという思想をまとめ、春秋の世に諸侯に分裂した各国に説いてまわりました。
孔丘は、すでに戦国時代には、儒者たちによって聖人化されていたと思われます。とはいえ、それはまだまだ儒教の内輪での話でしょう。
孔丘の死後も弟子たちが儒教を説いてまわり、次第に儒教集団を形成していきます。
秦代になり、始皇帝が儒者を生き埋めにしたのは、逆に言えば儒者がそれだけ勢力を持っていたことを意味します。
劉邦は儒者の冠に小便をするほど儒教嫌いだったけれど、その有用性は理解しており酈食其や叔孫通などの儒者を重用しています。
漢の武帝は儒者の董仲舒の献策によって儒教を重んじ、これより儒教は国教のような扱いになっていきます。
その武帝のころより制作が始まった『史記』で、孔丘は列伝に入れられて然るべきところ世家に孔子世家として記されています。
孔子世家はこう〆られます。
太史公曰 詩有之 高山仰止景行行止 雖不能至然心鄉往之 余讀孔氏書 想見其為人 適魯觀仲尼廟堂車服禮器 諸生以時習禮其家 余祗回留之不能去云 天下君王至於賢人眾矣 當時則榮 沒則已焉 孔子布衣 傳十餘世 學者宗之 自天子王侯 中國言六藝者折中於夫子 可謂至聖矣
太史公は言った。詩経に高い山は仰ぎ見られ、人は大道を行くとある。孔子の時代に戻ることはできないが、私の心はそこにある。私は孔氏の書を読み、その人柄を想像する。魯の孔子廟に行って、車や服、礼器を参観し、諸生が時間通りに礼を行うのを見た。私はそこを去ることができなかった。天下の君王や賢人などは非常に多く、生前には栄えたがそれは死と共に終わった。しかし孔子は庶民の出でありながらも十世以上その教えを伝え、学者の祖となった。天子から王侯に至るまで、中国の六芸の中でただ夫子のみが至聖と言える。
とまあ太史公、つまり司馬遷が絶賛しています。
この内容から、すでに西漢のころには孔丘は廟に祀られ信仰されていたことがわかります。そして、司馬遷が「至聖」と絶賛したように、儒者以外でも孔丘を聖人として扱うようになったのは、儒教が国の中枢で確固たる地位を築いた漢代から始まっていたものと思われます。
それは儒者たちの宣伝工作の成果でもありました。
胡孚琛著『魏晋神仙道教』ではこう指摘します。
在封建社会的历史条件下,人们不能摆脱宗教这个异己的力量,而统治者也有意识地把神道设教作为一种统治术来利用。汉代以〈〈礼记〉〉和〈〈白虎通〉〉为代表的封建宗法神学成了官方扶植的正统思想,只能信奉,不能怀疑,这种维护封建宗法制的说教激起了儒生博士们造神造神的狂热,他们把孔子偶像化,儒书神圣化,甚至把齐学的阴阳五行学说和天人感应原理也用作论证三纲五常等神学教条的理论根据。
『魏晋神仙道教』胡孚琛著・人民出版社刊
封建社会の歴史的条件の下、人々は宗教という自己とは異なる力から抜け出せずにいたし、統治者は意識的に鬼神の教えを立てることを一種の統治術として利用していた。漢代は『礼記』や『白虎通』に代表される封建制度や同族相続制度の神学が公的に広められる正統思想となっており、信じることのみ許され、疑うことはできなかった。こうした封建宗法制度を維持するための教説は、儒者たちを刺激して造神運動に熱中させた。彼らは孔子を偶像化し、儒書を神聖化し、挙句の果てには斉学の陰陽五行説と天神感応の原理をもって三綱五常等神学教条の理論根拠の論拠とした。
漢代の人々は迷信深かった。それは古代の人だから当然だろうと思います。
迷信深い古代の人々をだまくらかして統治の正当性を主張するために、支配者は宗教を利用しました。古代エジプトのファラオは神ラーの化身を自称したし、日本の天皇はアマテラスを皇祖神としてその子孫の家系だとしました。キリスト教が普及した後の欧州でも王権神授説が唱えられています。
中国の皇帝の場合は天帝より地上の統治を委任された「天子」ということになりました。これを正統とするためには、まず天帝の存在を信じさせねばなりません。
そんな流れの中で、儒者たちは要するに儒教の既得権益確保のために孔子を神聖化し、崇めるようになっていった。その宣伝の成果が、漢代に結実していったことで、孔子は広く聖人として認識されるようになっていったということですね。
道教がしれっと孔丘を神にする
戦国時代に聖人化が始まり、すでに廟が作られて信仰対象でもあった孔丘ですが、東漢ごろに作られたと思われる『列仙伝』にも、晋代に葛洪が著した『神仙伝』にもその名はありません。そりゃそうでしょう。孔子は儒教の聖人で、聖人として崇められてはいても神ではありません。
しかし時代は下って葛洪より大雑把に200年ほど後。茅山宗を立ち上げた陶弘景が作った『真霊位業図』にこんな記述がされました。
太極上真公孔丘
明晨侍郎三天司真顏回
『真霊位業図』は神々のヒエラルキーを記したものです。ここに記されているだけで神だということを意味します。
ここでしれっと孔丘と、ついでに顔回までもが道教の神々のヒエラルキーの中に組み込まれました。ついでに言えば陶弘景は鬼谷子や比干、北帝太傅魏武帝つまり曹操、孫策、荀或、徐庶、劉備なんかも神としてぶちこんでいますね。
『真霊位業図』は最上位に元始天尊を置きます。元始天尊は晋代に作られた新しい神です。元始天尊は作られた当初から最高神の位を与えられていました。陶弘景は、元始天尊の下に様々な神を置くことで、その最高神としての地位をより高めたかったのかもしれません。
孔丘だの顔回だの、黄帝だの太上老君だの、有名な人物や神を配置すれば、一般人にも元始天尊の偉さがわかりやすくなります。
ということで、おそらくは陶弘景によって孔丘はまんまと道教の神とされました。
至聖先師
現在道教では「至聖先師」が一般的な孔丘の神名です。ではそれはいつからなのか?

台中市順天宮輔順将軍廟
こういうのはだいたい朝廷による追封でどんな号が下賜されたかでわかります。
孔丘の追封はすでに西漢から始まっています。
隋になって、隋の文帝楊堅は孔丘に先師尼父という号を贈りました。宋の真宗は至聖文宣王に封じています。
そして、元の成宗が大成至聖文宣王に、明の世宗が至聖先師にそれぞれ封じています。道教内で孔丘が祀られる所を「大成殿」、そして孔丘を「至聖先師」として祀るのはここらへんが元ネタだと言えそうです。
道教は三教合一宗教
道教が儒教の創始者を神として祀ることに矛盾はないのか?
そんなもんはありません。
道教はそのスタート地点からごった煮宗教です。古代中国の周辺部族の信仰、シャーマニズムやアニミズム、神仙道に老荘思想、方士の術等々が入り混じって作られました。
上に紹介した胡孚琛著『魏晋神仙道教』では、漢代に儒者の方士化もあったとしています。漢代には経書に対する緯書が作られました。これは儒教の経典を神秘化して解釈するというものです。
鬼神は敬して遠ざけ、怪力乱神を語らない儒教が、いつのまにやらその逆を行くようになっていました。もちろんそうした方向にはいかなかった儒者もいたでしょう。おそらく緯書を奉じた一部の神秘主義的な儒者が、それをこじらせて方士になったのだと思います。
そうした儒者から転向した方士の思想も道教は取り入れていたはずです。つまり道教にはそもそも儒教の断片が紛れ込んでいました。
道教は発展していくうちに士大夫層にも信仰されるようになっていきます。儒教が国教化していく中で、儒教は士大夫層の基礎教養になっていたし、有名な道士の中にも儒教を学んでから道教に入った人もいます。
道教に儒教が混ざるのは必然でした。
また、道教は対抗勢力である仏教の研究もよくしています。それは、道教経典が仏典の様式のパクリだったり、いくつかの神の出生譚にお釈迦様の出生譚をパクっていることからもわかります。
儒仏道の三教合一は、儒教、仏教、道教それぞれが行っていたけれど、道教が最もその傾向が強いです。
道教は、民間信仰で道教の神々と同列に信仰されていた観音菩薩や地蔵菩薩なども道教の神として取り入れていきました。哪吒や托塔李天王なども仏教から取り入れた神です。
そういう宗教ですから、孔丘ぐらい神として祀るぐらい別に普通じゃんってなものですね。
道教廟のかたすみに孔丘の神像があっても、なんの不思議もありません。
道教は三教を合一した宗教であり、三教の始祖は総て道教に含まれるという認識から、老子、孔丘、お釈迦様の三尊が祀られる道教廟も見られます。

三教始祖:台北市醒心宮仙公廟
ちなみに、神をビジュアル化した神像を祀るのは道教の方式で、儒教側の礼拝施設である孔子廟では、孔丘始めそれ以外の儒者たちも位牌で祀られます。

台北市孔廟
位牌っていうのは元々儒教の祭具であり、日本人が仏教のつもりで位牌を拝んでいるのも、中国仏教が儒教から位牌をパクったからです。日本の葬式仏教なんてのは、仏教のコスプレをした儒教にすぎません。そもそもあんな木の板に魂が封じ込められていると思ってるの頭おかしくね?って思いますわ。






