道教の神々:太歳

私は台湾で300座を超える道教の廟をめぐりました。その中で、主祭神が誰であろうとかかわりなく祀られている神様がいくつかあります。

まずは中壇元帥哪吒三太子、関聖帝君あたりは鉄板。福徳正神は、福徳正神が主祭神となる福徳廟以外の廟でもたいてい祀られています。それに、台湾ではトップレベルの人気を誇る天上聖母も、例え媽祖廟ではなくても祀られていることが多いです。

そして、まあまずどこの廟でも祀られているという神様が太歳星君。「太歳」という概念が神格化した神様です。

しかしこの太歳にまつわる信仰は、なかなかに一筋縄ではいきません。

太歳への信仰

古代中国では木星のことを歳星と呼んでおり、その歳星の運行によって作られた暦が「歳星紀年法」です。そして、歳星の対角線上に、架空の星とその運行経路が考え出されました。これが太歳です。太歳の運行をもとにした「太歳紀年法」も作られています。

『荀子』にこうあります。

武王之誅紂也 行之日以兵忌 東面而迎太歲

武王は紂王を誅伐した。その行軍の日に、兵は物忌をして東に太歳を迎えた。

これはおそらく太歳の位置で吉凶を占ったということで、太歳が単なる暦を作るための基準ではなく、占いにも用いられていたことがうかがわれます。

西漢に作られた『淮南子』には

太歲迎者辱 背者強 左者衰 右者昌

太歳を迎える者は辱められ、背に置く者は強く、左にあれば衰え、右にあれば栄える。

とあり、ここからも太歳にはなにかジンクスのようなものがあったことがわかります。

東漢の王充が著した『論衡』では、太歳にまつわる言い伝えを紹介しています。

移徙法曰 徙抵太歲凶 負太歲亦凶

『移徙法』によれば太歳の方角に向かって歩くのは凶だし、その反対方向に行くのも凶だという。

また「太歲 天別神也」ともあるので、東漢のころには太歳は神として信仰されていたようです。

ただし、王充は合理主義者で、

俗心險危 死者不絕 故太歲之言傳世不滅

俗心は危うく、死者は絶えない。だから太歳のこんな言い伝えがなくならないのだ。

と言っています。つまり、人の死に運勢を結びつけ、太歳による吉凶に影響されたかのように言い張る宗教関係者がおり、アホな大衆がそれを信じ込んでしまうからこんな世迷い言がなくならないんだよと言いたかったのでしょうね。偶然起こった不幸や事故を「厄年」と結びつけて厄払いで稼ごうとする日本の宗教関係者及び、それを信じてわざわざ厄払いを受けるアホな日本の大衆にも言ってやればいいと思います。

そういや近年では厄年は体が不調になりやすくなる年齢だからなんだとか後付けの理屈をこねてるやつもいるけど、だったら行くべきなのは厄払いではなく健康診断だよねと思います。

妖怪化した太歳

「太歲 天別神也」。天の神だと認識されていた太歳は、時代が下るにつれて妖怪に変貌しました。

唐代に作られたとされる当時の怪異譚を集めた『広異記』には、そんな妖怪化した太歳が記されています。

晁良貞能判知名 性剛鷙不懼鬼 每年恆掘太歲地豎屋 後忽得一肉大於食魁 良貞鞭之數百送通衢
其夜使人陰影聽之 三更後車騎眾來至肉所 問太歲 兄何故受此屈辱不仇報之 太歲云 彼正榮盛如之奈何 明失所在

晁良貞は有能な役人として知られていた。勇猛な性格で幽霊もおそれはしない。毎年太歳の方角の土地を掘って家を建てていたがあるとき大きな肉のかたまりを掘り出した。良貞は肉塊を数百回鞭打ってから道路に捨てた。
その夜、暗闇の中夜中に肉塊のところに車がやってきて、太歳に訪ねた。兄貴はなぜこの屈辱に復讐をしようとしないのだ。太歳は、彼は今まさに栄華のさなかにあるからどうにもできない。そしてその行方は知れなくなった。

特に説明がないけれど、太歳の位置から掘り出した肉の塊が太歳だというのですね。ではなぜ晁良貞はこの肉の塊を鞭打ったのでしょうか?その理由は次のエピソードに書いてあります。

上元末 復有李氏家不信太歲 掘之得一塊肉 相傳云得太歲者 鞭之數百當免禍害 李氏鞭九十餘忽然騰上 因失所在
李氏家有七十二口死亡略盡 惟小蒯公尚存 李氏兄弟恐其家滅盡 夜中令奴悉作鬼裝束 劫小蒯便藏之 唯此子得存其後襲封蒯公。

上元の末、太歳を信じていなかった李氏の家で一つの肉塊が掘り出された。太歳を掘り出した者は鞭で数百回打てば禍害を免れると伝えられてるので、李氏が鞭で打つと、100回に満たないうちに突然飛び上がって行方がわからなくなった。
そして李氏の家の72人が死んでしまい、幼い蒯公のみが残った。李氏の兄弟は家が滅びるのを恐れ、夜中に奴隷に幽霊の装束をさせて蒯公を隠させた。この子が後に蒯公に封じられた。

晁良貞が掘り出した太歳を鞭打ったのも、太歳による害を免れるためだったのでしょう。

これが書かれた唐代には、太歳とは太歳の方角にうまる肉塊のような妖怪で、掘り出すと祟をなすといい伝えられていた。そしてその祟から逃れるためには鞭で打つ必要があるとされていた。しかし、晁良貞のように運気の勢いが強くなければ、鞭で打とうとも逃げられて死に至るとも考えられていたようです。

もう一つこんなエピソードもあります。

?州有人 亦掘得太歲 大如方狀類赤菌 有數千眼 其家不識 移至大路 遍問識者 有胡僧驚曰 此太歲也宜速埋之 其人遽送舊處 經一年人死略盡

どこかの州のある人が、太歳を掘り出した。大雑把に四角くて赤いきのこのような姿。そして目が千個もついている。家の者はそれがなにか誰もしらなかったので、大通りに出て知っている人がいないか聞いてまわった。すると西方の僧がこれを見て驚き「これは太歳ですぞ、はやく埋めてしまいなされ」と言うので元の場所に埋め戻した。しかし一年後には家の者はみな死んだ。

こちらでは肉塊ではなく赤いきのこのようで、千個も目がついていたといいます。悪魔くんの百目ちゃんどころの話ではありません。元のところに埋め戻したはいいものの、家の人は死に絶えてしまいました。やはり鞭で打つ必要があったのでしょう。

同じく唐代に書かれた『酉陽雜俎』にも同様の話があります。

萊州即墨縣有百姓王豐兄弟三人 豐不信方位所忌 常於太歲上掘坑 見一肉塊 大如鬥蠕蠕而動遂填 其肉隨填而出 豐懼棄之
經宿 長塞於庭 豐兄弟奴婢數日內悉暴卒 唯一女存焉

萊州すなわち墨県に王豊たち3人の兄弟があった。豊は方角の吉凶を信じずいつも太歳の上を掘っていた。ある日一つの肉塊を見つけた。大きさは鬥ぐらいで蠕動し穴をうめるように肉が湧き出ており、豊は怖くなって捨ててしまった。
一晩たつと肉は大きくなって庭をうめていた。豊と兄弟たち、それに王家の奴婢たちは数日のうちにみな死に、唯一娘だけが残った。

ここで言う鬥はおそらく酒器などの器のこと。最初小さかった肉塊がだんだん巨大化していくというのは現代のフィクションでもよく見られる演出です。

ところで育ち続けていた肉塊はどうなったんでしょうね?

これらはまあ、つまり唐に流布されていた都市伝説です。とにかく唐代には太歳の方角を掘ると肉の塊が掘り返されることがあり、その肉塊こそが「太歳」で、掘り返した人間はだいたい死ぬというホラーが流行っていたんですね。

おそらくですが、太歳は歳星の対角線上にある。ならそれは地中にいるに違いないみたいなことを考えた人が作ったのでしょう。

太歳殷元帥

さて、唐代には謎の肉塊妖怪にされてしまった太歳。宋代になると道教に取り入れられ、人格神にクラスチェンジしました。

その名も太歳殷元帥。またの名を殷郊です。

明代はじめごろに作られたという『道法會元』には、宋代につくられた様々な道教の呪法、符法が収録されており、その中のいくつかに殷元帥、もしくは殷郊の名が見られます。

『天心地司大法』には、殷郊のキャラ設定が細かく記されています。

北極御前顯靈體道助法馘精滅魔地司猛吏太歲大威力至德元帥殷郊
丫髻 青面 孩兒相 項帶九骷髏 額帶一骷髏 躲體風帶紅裙 跣足 右手?鉞 左手執金鐘

北極紫微大帝の御前に霊を顯現させ道を体現し法を助けて精を斬り魔を滅する地司猛吏太歳元帥殷郊。
髷を結い、青面で子供の顔。9つの髑髏を首にかけ、額にも一つの髑髏を帯びる。体を翻すと風を帯びる赤いスカートに裸足がのぞき、右手には黄鉞、。左手には金の鐘をとる。

丫髻は女の子が結う頭にケモミミのようになっている髷のこと。裸足でスカートを履いており女の子のようだけど、女神ではないので男の娘です。とはいえ顔が青くて髑髏のネックレスをかけ、額にも髑髏をつけているというからあまり萌え要素はありません。

この経典によれば、殷郊は玉皇大帝の勅命を受け、

太歲殷郊 煞伐鬼神 安鎮九土

太歳殷郊は鬼神を征伐し、九土を安らかに鎮める

ことが役目とされています。

唐代に、掘り出すとその当人どころか家の者まで殺してしまう妖怪にされてしまった太歳は、今度は鬼神を征伐する地司、つまり天界に属して地上に駐在し、任務を果たす神となりました。

こうしたことは珍しくはありません。道教では他に疫病をもたらす瘟神を祀る信仰が、瘟神をやっつける王爺神の信仰になった例があるし、日本の神道でも祟り神を祀ることで逆に加護を得る天神さまなどの例があります。

同じく『道法會元』に収録されている『北帝地司殷元帥祕法』には別の姿も描かれます。

上清北帝地司太歲大威德神王至德主帥殷元帥 
帥諱郊 青面青身 金冠朱髮 緋抱皁緣絞紮腰間 上左手托日右手托月 下右手鉞斧下左手金鐘 項上懸掛十二骷髏

上清北帝地司太歲大威德神王至德主帥殷元帥
元帥の諱は郊である。青面青身、朱色の髪に金冠をかぶり、緋色の服を黒の縁取りの帯でしめている。上左手には日を左手には月を掲げ、下の右手には鉞、下の左手には金の鐘。首には12の髑髏をかけている。

顔が青いのは共通。腕が4本になっています。

それぞれの経典には「大威力至德元帥」「大威德神王至德主帥」という部分が見られます。ここに描かれる殷郊は、つまり密教の大威徳明王のパクりです。

大威徳明王は密教の神格で、殷郊を描く2種類の経典には「唵吽吽靈魁聻攝」「唵呵咖呢都娑訶咖呢帝釋尼咖呢攝」など明らかに密教の真言をパクった呪文が記されています。

さらに大威徳明王のイメージについてwikipediaから引用します。

クリシュナ・ヤマーリ
『サーダナ・マーラー』(梵: sādhanamālā)によれば、肌は青黒く、一面二臂、三面四臂、三面六臂、六面六臂でヤマを踏みつけている憤怒尊[10]。水牛に乗る。三面六臂のときのみヤブユムで、水牛に乗らない。六面六臂の姿は、日本の大威徳明王像に近い。調伏法で敵を呪殺するのに霊験があるという。

青い顔や体、4本腕などのキャラ設定はこうした大威徳明王のキャラ設定に近いですし、そもそも「大威德神王」などという神名をつけている時点でバレバレです。あるいは、経典には書いてはいないものの大威徳明王の化身として道教の神になっているという設定もあるかもしれません。

後にこの大威徳明王のイメージを丸パクリした三面六臂フォームの像も作られるようになっています。


坂戸市聖天宮

さて、殷郊のキャラ設定自体は大威徳明王をパクったものなのが明らかです。しかし、わからないことが2つ。

殷郊ってだれやねん?

なんで太歳やねん?

殷郊は現在では殷の紂王の太子ということになっています。でも、上記の宋代の経典ではそんなことは書いてありません。

そもそも紂王は殷姓ではありません。

『史記』殷本紀は

殷契 母曰簡狄

と始まります。しかしこれは殷の始祖が姓を殷、名を契と言ったということではなく、あくまで「殷の契」ということです。他の夏本紀は「夏禹」、周本紀は「周后稷」で始まりますし。殷王室の王の姓は殷ではありません。

そもそも殷は周が商をそう呼んだものであって、殷王朝自身は商を名乗っていました。

それに、紂王の太子として殷郊なる人物を記した史書も存在しません。

少なくとも宋代の道教では、殷郊は紂王の太子だとは考えられていなかったはずです。そもそも周のプロパガンダによって史上最悪の暴君のイメージを付けられてしまった紂王の太子をでっち上げてまで新しい神様を作る意味がわかりません。

殷郊という名の神様は宋代に突然出現し、そして太歳神ということになりました。いや逆かもしれません。民間で徐々に太歳に対する信仰が高まっていき、それを道教が取り入れて、大威徳明王をパクったキャラ設定の道教の神とする時に、殷郊という名を付けたという可能性のほうが高いように思います。

ちなみに殷郊を紂王の太子としたのは『封神演義』のタネ本である小説の『武王伐紂平話』です。

姜皇后有一太子名曰景明王號為殷交

姜皇后には一人太子がいた。名を景明、王号を殷交という。

郊と交は同音です。

『武王伐紂平話』が作られた元代には、すでに殷郊の名が広まっていたのでしょう。

『武王伐紂平話』の殷交は武王に下ったのちに将軍とされ、崇侯虎の馬の足を斬って崇侯虎を捕虜にしたり、妲己を捕らえたりと大活躍。さらには最後に殷交が斧で紂王を斬り殺します。

『武王伐紂平話』では殷交は太歳神とは言われていません。しかし、斧で紂王を斬り殺すのは、『天心地司大法』の「太歲殷郊 煞伐鬼神 安鎮九土」に通じるものを感じます。つまり、『武王伐紂平話』は殷交が悪鬼たる紂王を征伐することで太歳神の役割を果たす物語だと見ることもできると思います。

さて、中国人はだいたいフィクションと現実の区別はついていません。『武王伐紂平話』で殷交が紂王の息子とされた設定は事実となりました。

明代に作られた『三教源流捜神大全』には太歳殷元帥の章があり、こう説明されます。

帥者紂王之子也 母皇后姜氏一日后遊宮園 見地巨人足跡 后以足踐之而孕降生帥也 肉毬包裸

元帥は紂王の子である。母の皇后姜氏はある日宮殿の庭で遊んでいると巨人の足跡を見つけた。皇后がその足跡を踏むと妊娠し、生まれたのが殷元帥である。肉の球に包まれていた。

長くなるのでかいつまんで紹介すると、この後妲己が皇后が化け物を生んだと報告したために肉の球が捨てられそうになったところ申真人という仙人に助けられます。

申真人が剣で肉の球を切り開くと中から赤ん坊が出てきたので、水簾洞で育て、法名を唫叮奴(原文では奴には口編がつく)、正式な名前を唫哪吒と名乗ったと記されます。

ここではまず『武王伐紂平話』における殷郊(殷交)が紂王の太子だという設定を引き継いでおり、そこにさらに母親の姜氏が巨人の足跡を踏んで殷郊を孕んだという話が加えられています。

これは『史記』にある后稷のエピソードのパクリです。

周后稷名棄 其母有邰氏女曰姜原 姜原為帝嚳元妃 姜原出野見巨人跡 心忻然說 欲踐之 踐之而身動如孕者

周の始祖・后稷は名を棄という。その母は有邰氏の娘で姜原。姜原は帝嚳の元妃である。姜原が野原に出た時巨人の後を見つけ、心が喜び踏みたいと言った。踏むと体が動いてまるで孕んだようだった。

『三教源流捜神大全』の編者はおそらく殷郊が紂王の子という設定は使いたかった。しかし、紂王の血筋が神になったとはしたくなかった。だから、立場上紂王の子だけれど、紂王の血は入っていないことにするために、后稷の神話をパクって使った。ということではないでしょうか。

さらに肉の球に包まれて生まれてきたというのは、唐代の太歳が地中の肉塊だという設定を取り入れたものと思われます。そして仙人に助けられ、それを切り開くと赤ん坊が出てきたというのは、後に『封神演義』での哪吒のエピソードに流用されています。っていうか、ここでは殷郊の名前が唫哪吒になっています。

では、『三教源流捜神大全』では殷郊と哪吒を同一神としたのかというとそういうわけではなく、他に?哪吒も「那叱太子」として章が設けられており、じゃあなんで殷郊に哪吒って名前をつけたんだと思いますね。

『封神演義』での殷郊は『武王伐紂平話』と異なり一度は闡教側につくものの申公豹によって截教に与して西岐と戦います。そして武吉に殺され最終的には「執年歲君太歲之神」に封じられました。

値年太歳

さてその『封神演義』です。最後の封神の儀式で太歳の神に封じられたのは殷郊だけではありません。

爾楊任為甲子太歲之神 率領爾部下

そして楊任を甲子太歳の神とし、部下を率いさせた。

ここで甲子太歳の部下とされたのは、日遊神温諱良、夜遊神喬諱坤などの値日衆星と呼ばれる神々です。

ここで楊任が甲子太歳とされたことが、やはり後の道教に影響を与えました。

中国では伝統的に干支紀念法が使われていました。これは資料が見つからなかったので明確には言えないのですが、南北朝のころには60の干支それぞれに神が当てはめられていたようです。

一応付け加えておくと、ここで言う「干支」は正しい意味での干支であって、日本人が干支だと思っている十二生肖のことではありません。

干支紀念法では、時間、日にち、月、年それぞれに干支が当てはめられます。自分が生まれた年、月、日、時間それぞれの干支を組み合わせたものを八字といい、この八字は占いに用いられます。日本でもメジャーな四柱推命も八字を基準にしているので、生年月日だけで占うのは四柱推命ではありません。そもそも四柱とは年柱・月柱・日柱・時柱のことですし。

『淵海子平』は宋代に作られた八字占いの書を明代にアップデートしたものです。ここに太歳についてこう記されます。

太歲乃年中天子 故不可犯 犯之則凶

太歳は年中の天子であるからこれを犯してはならない。犯せば凶である。

こうした認識から、年ごとに違う太歳の神がいるとして、太歳は干支の神と結合されました。

清代の道士・柳守元が作った『太上靈華至德?君解厄延生法懺』では

轄六十甲子之官君 周三十二天之躔度

六十甲子の官君を軸として三十二天の星々の運行がめぐる

と言い、甲子太歳?公金星君、乙丑太歳林公陳星君など60柱の太歳神の神名が記されました。

これをもとに作られたのが、年ごとに担当者が変わる値年太歳です。

おそらくは清代以前から年ごとの甲子神と太歳を結びつける動きはあったと思われます。

『太上靈華至德歲君解厄延生法懺』では、60柱の太歳神それぞれに、過去の人物を当てはめています。中には郭嘉や管仲などの有名人も混ざっているものの、そのほとんどは中国史の中に埋もれているような、一応記録はあるけれどほぼ無名といってもいい微妙な人物です。それ以前から『太上靈華至德歲君解厄延生法懺』に記されるような神名があったかどうかは不明ではあるけれど、明代の人物の名前も入っているので明以降に作られたことは確かです。

道教廟に祀られる太歳神はこの値年太歳で、狭い廟の場合はボードにその年の太歳神の神名を掲げ、広い廟の場合は60柱全ての神像が祀られていて、その年の神の神像が値年太歳の位置に祀られます。


台北市三聖太子宮


台北市松山慈恵堂

値年太歳の信仰は2つの意味があります。

1つはその年の太歳神を拝して、その年の平穏などを願う。もう1つは、自分の生まれ年の太歳神を拝して加護を願うです。

甲子太歳金辨大将軍

六十甲子太歳神の中で日本でも無駄に知られているのが甲子太歳金辨大将軍です。

その理由は、目から腕が飛び出ているという異様な風貌から。

まず、甲子太歳に選ばれた金辨大将軍は明代に実在した金濂です。

金濂は永楽年代の進士で、寧夏で軍務に就いていたときに灌漑事業を行って荒廃した田畑を開発し、富裕層に依頼して米を集め周辺を救済しました。さらに、福建で起きた農民反乱---鄧茂七の乱---の鎮圧に功があったと『明史』に記されます。なかなかに立派な人物だったようです。

ではその金濂の神像がなぜこんな姿になったのか。それは『封神演義』のせいです。

『封神演義』では甲子太歳に封じられたのは楊任でした。楊任は、紂王に仕える上大夫。紂王が妲己と楽しむために鹿台を建てる計画をしているところ諫言し、紂王の怒りを買って両目をくり抜かれました。それでもなお忠心を失わない楊任を見た清虚道徳真君は黄巾力士に命じて楊任を救出します。

道徳真君がくり抜かれた楊任の眼窩に仙丹を入れて仙天真気を吹きかけ術をかけると、眼窩から腕が伸び、手のひらに目がついていました。この目は天界から地府、そして人間界の全てを見渡すことができる目で、楊任はその場で道徳真君の弟子となって仙術の修行をし、修行が成ってからは姜子牙を助けました。

とまあこのせいで金濂自体にはそんなエピソードがないにもかかわらず、楊任のキャラ設定が加えられ、甲子太歳金辨大将軍もまた目から手を伸ばす姿になったわけです。

で、こうした事情も金濂も楊任も知らないようなアホが、甲子太歳金辨大将軍を見ておもしろがっているのを見ると本当に知能が低いなあと思います。ただ見た目をネタ的におもしろがるのでなく、どうしてそういう姿なのか調べてみたらどうかと思うけど、そんな能力もないからバカなんだろうなあ。

道教の神々

Posted by 森 玄通