道教の成立に曹操が果たした役割

道教の成立を大雑把な流れで言うと、戦国時代から秦のころに「方士」と呼ばれる占いや呪術を操る術者が現れ、その一部が神仙道を奉じて時には秦始皇帝や漢の武帝などにすり寄って行きました。これが道教の萌芽といえば萌芽ではあるけれど、方士はあくまで個人の活動に終始し、宗教団体を興すことはなかったようです。実際にはあったとしても、史書にはそのような記録がないので規模が小さいものだったでしょう。

東漢の中頃、張道陵が五斗米道を興します。これが記録上では史上初めての「道教的」な宗教団体です。五斗米道は後に天師道から正一道へと受け継がれていくので、これをもって道教が興ったと言っても大きく間違ってはいないと思います。

それに数十年遅れ、東漢末に張角が太平道を興しました。

張角、そして張道陵の孫の張魯の2人はともに朝廷に征伐されています。歴史の流れによっては、太平道と五斗米道が殲滅されることで道教という宗教そのものがなくなっていた可能性もあります。しかし、実際の歴史では道教は生まれ、晋代から南北朝に至る時代に発展して、現代まで続くことになりました。

その流れに大きな役割を果たしたのが、三国志の英傑の一人・曹操です。

※トップ画像はAIお絵かきツールStable Diffusion Demoで「cao cao」と指定してお出しされたものを使っています。

太平道と曹操

小説『三国演義』は十常侍による専横から国が乱れ、張角が南華老仙を名乗る老人から『太平要術』なるタイトルの3巻の書を得て太平道を興して、黄巾の乱を引き起こすところから始まります。

史実から見ても、東漢滅亡から三国鼎立に至る歴史の大きなきっかけになるのは、曹操や劉備が台頭する黄巾の乱であることは間違いありません。

演義では張角に『太平要術』を授けるのは南華老仙、つまり荘周になっています。一方現実の道教では張角が学んだのは、于吉(干吉)が著したとされる『太平清領書(太平經)』だとされています。

黄巾の乱そのものは、皇甫嵩や朱儁らの活躍で鎮圧されたものの、それ以後も黄巾賊の残党や便乗組による反乱が各地で起こります。特に規模が大きかったのが、現在の山東省あたりの青州の黄巾賊が、その北方、現在の河北省あたりの兖州で起こした反乱です。

正史『三国志』武帝紀に「青州黃巾衆百萬入兖州」と記されています。100万人は盛っている気がするけれど、相当な規模の反乱だったのでしょう。

これを鎮圧したのが曹操でした。

追黃巾至濟北乞降 冬受降卒三十餘萬 男女百餘萬口收其精銳者號為青州兵

黄巾賊を追って済北に至り、投降を呼びかけた。冬になって30万あまりの兵が投降し、男女100万人以上を受け入れた。その中から精鋭を選んで青州兵とした。

30万人以上の黄巾賊の兵が投降して、100万人以上を受け入れたというのは、その全てが太平道の信者や黄巾賊ではなかったということだと思われます。ゆえに青州兵の全てが黄巾賊で構成されていたわけではないはずです。しかし黄巾賊もかなりの数が生き残って曹操麾下に入ったことになります。

青州兵は後に呂布討伐戦の先鋒として投入されてボコボコにされていたりします。

曹操は済北で受け入れた青州兵も含む100万人に屯田を行わせ、それとともに「兵戸」という制度を導入しました。兵戸は兵士としての身分を固定し、兵士の世襲を強制するものでした。そのかわり農地を与えられ、身分が保証されるという利点もあります。

黄巾賊は張角が起こした反乱に乗っかって暴れていた農民たちがほとんどでしたから、黄巾賊が即ち太平道の信徒というわけではなく、張角の道統を伝える人もいなかった可能性が高いです。とはいえ、曹操はこうした宗教を弾圧するより利用することを好みましたから、宗教団体としての太平道は消滅しても、その教えの断片は受け継がれていったことでしょう。

五斗米道と曹操

五斗米道は東漢半ばに張道陵が興し、その子の張衡、孫の張魯に受け継がれていったというのが正一道による公式の見解です。ただ、他に張脩が五斗米道を興し、張脩を殺した張魯がその教団を奪ったという説もあります。なにしろ張道陵は本人の事績の記録はないし、122歳生きたとされる怪しい人物なので、案外張脩が興した説のほうが正しいかもしれません。

とにかく五斗米道は張魯の代に勢力を増しました。

張魯ははじめ、益州牧の劉焉の臣下となり、同じく劉焉の配下だった張脩とともに漢中太守の蘇固を討つように命じられますが、なんでか張脩を殺してその軍勢を奪いました。この理由について『三国志』は何も記していません。しかしお咎めなしだったことから、張魯の側に理があったのかもしれません。

劉焉死後、張魯は劉焉の子の劉璋には従わず、漢中で独立しました。『三国志』張魯伝にはこうあります。

焉死子璋代立以魯不順盡殺魯母家室 魯遂據漢中以鬼道教民自號師君 其來學道者初皆名鬼卒 受本道已信號祭酒

劉焉が死ぬと、その子の劉璋が代わって立ったが、張魯が従わなかったために張魯の母の家族を全て殺した。そこで張魯は漢中を占領して、民を鬼道で教化し、自ら「師君」と号した。その教えを学びに来た者で、初学者は皆鬼卒とし、その道を本当に信じる者は祭酒と名付けた。

鬼道とは大雑把に言ってシャーマニズムです。鬼は霊のことなので、神霊のお告げを受けるなどして民心を操ったのでしょう。『三国志』ではまた邪馬台国の卑弥呼も「事鬼道能惑衆=鬼道をあやつって民を惑わすことができた」と記録します。

『後漢書』劉焉袁術呂布列伝に

沛人張魯 母有恣色兼挾鬼道往來焉家

沛の人張魯の母は美しく、鬼道をもって劉焉の家に行き来していた。

と記されています。

張魯の母親はシャーマンで、その術をもって劉焉の家と関わりを持っていた。張魯が劉焉の臣下になったのもその縁です。

張魯はその母親の鬼道を受け継いで、自分の国の掌握に利用したわけです。あるいは五斗米道の教団が立ち上げられたのは実際にはこの時で、張道陵は張魯が権威付けのために作り出した架空の先祖かもしれません。

張魯は善政を敷き、その勢力は大きかったので「力不能征」朝廷には張魯を征伐する力がなく、そのため鎮民中郎將の地位を授けて領漢寧太守にすることで、事実上張魯の国を承認しました。曹操は袁紹やその残党の討伐、あるいは孫権攻略に力を割いていたために、その余裕もなかったのでしょう。建安13年(西暦208年)に赤壁の戦いで敗北した影響も大きかったはずです。

しかし建安16年(西暦211年)朝廷は漢中の占領を続ける張魯を征伐するために鍾繇を差し向けました。すると、漢中に蟠踞していた馬超や韓遂、楊秋、李堪、成宜らが、自分たちが攻撃されるものだと勘違いして反抗します。しかし馬超らは負けて張魯の国に逃げ込みました。そのとき、周辺住民も張魯の国に大量に逃げ込んでいます。

馬超っていうのは後に劉備麾下になり、演義では蜀漢戦隊五虎レンジャーに入れられるあの馬超です。

建安20年(西暦215年)、曹操はついに本格的に張魯を征伐するための兵を起こします。それを聞いた張魯は即降伏しようとするものの、弟の張衞がイキって迎え撃とうとしました。しかし張衞はあっさり敗れ、張魯が「やっぱり降伏しようよ」となったところ、臣下の閻圃が「今追い立てられるように降伏すると功が軽くなるので、杜濩を頼って朴胡とともに対抗の姿勢を見せ、それから贈り物をして降伏したほうが功が多くなるでしょう」との進言を容れて一度逃げました。

そのとき、宝物庫はこれは私財ではなく国のものだからと、焼かずにそのまま置いていきました。

曹操はそうした張魯の態度を感心して、降伏勧告ではなく慰撫の使者を送ったため、張魯は自ら曹操の前に出て降伏しました。

曹操は張魯を客礼をもって遇し、鎮南將軍に任じて閬中侯に封じるとともに、万戸の領地を与えています。また、張魯の5人の子供と家臣の閻圃にも侯の地位を与えるなど破格の待遇でした。裴松之はこれに「ちょっとやりすぎじゃね?」と注をつけています。

ともかく張魯がわりと素直に降伏したため、五斗米道は滅亡を免れました。もしここで張魯が張衞といっしょにイキって全面戦争を起こしていたら、五斗米道そのものが滅んでその後天師道や正一道が生まれることはなかったかもしれません。

そもそも太平道と五斗米道にはそれほど大きな違いはありませんでした。両者とも病気の治療で信者を集め、懺悔を行って自らを改めることを教えの中核としています。

青州兵のように表に出ていなくても、太平道の信者は密かに残存していたはずです。そうした人たちは、五斗米道も違和感なく受け入れたと思われます。実際中国には、生き残った太平道の信者は五斗米道に吸収されたと考える学者もいます。

以张鲁为师的五斗米道大批祭酒,道民被迁到北方的汉中、洛阳、邺城等地,和当地太平道的道民结合在一起,曹魏控制的北方成了道教信徒的大本营。

魏晋神仙道教:胡孚琛著・人民出版社刊

張魯を師とする五斗米道の大量の祭酒や信徒たちは北方の漢中、洛陽、鄴城等に遷されたが、そこで当地の太平道の信徒と合流した。曹操の魏のコントロール下にある北方は、道教信徒の大本営になったのである。

曹操は宗教勢力を武力で制圧したものの、その信者を滅ぼし尽くすことはありませんでした。そのおかげでプレ道教とも言える太平道や五斗米道はその命脈を保ち、その後大きく発展することができました。

東漢末にはその実在は不確かながら、左慈などの方士もおり、左慈の教えは葛玄から鄭隠を経て葛洪に伝えられ、葛洪は『抱朴子』や『神仙伝』を著して道教の発展に寄与しています。だから、もし太平道や五斗米道が完膚なきまでに消滅されていても、道教のような宗教は生まれたかもしれません。でも、現代まで続くほど広まったかどうかはわかりません。

そう考えると、曹操が道教成立に与えた影響は非常に大きかったと言えます。

魏を簒奪した晋が天師道により滅びる

曹操の死後、その長男の曹丕は漢の献帝より禅譲を受けたという建前で漢朝を簒奪し、魏を建国します。しかし魏は建国からわずか45年、5代皇帝の元帝のときに、曹操の臣下であった司馬懿の孫・司馬炎に簒奪されて滅びます。

ところが、司馬炎が建てた晋は、東漢末から三国時代に至るまでとは比べ物にならないほど混乱し、晋は50年ほどで滅んで国の北半分を異民族に奪われ、司馬懿の4男の子孫である司馬睿があらためて南方に晋朝を再建しました。便宜上先に滅んだ方は西晋、再建されたほうが東晋と呼ばれます。

西晋もたいがいごちゃあっとなっていたけれど、東晋になってもあいかわらず反乱続きでごちゃあっとなっていました。それでも北方の五胡十六国よりはましだったのでセーフです。

西晋、東晋通してごちゃあっとなって戦乱が続いていたわりには、東晋には北方から逃れてきた文人も多数いたため、文化面ではだいぶ発展しています。書聖王羲之も東晋で生まれました。

その王羲之が深く信仰していたのが五斗米道から発展した天師道でした。この頃には『黄庭経』なども生み出されて、存思法など道教の修行法も整理されていきました。道教は東晋で大きく発展します。あまりにも国がごちゃあっとなっていたため、儒教が掲げる理想論は人気を失って、士大夫層にも遁世的な道教や仏教が受け入れられるようになったという説もあります。

司馬氏にとって不運だったのは、皇帝が即位するたびにコロコロ死んでいったことです。そのため、皇室の力はどんどん弱まり、代々の家臣が専横するようになります。ここらへんは東漢末の朝廷を煮詰めてもっとひどくしたような状況です。もっとも、実権を握った家臣の中には皇帝よりずっと有能でうまく国の運営をした人もいました。

なんとかごまかしごまかし続いていた東晋は、第9代孝武帝の時に決定的にダメになります。

国をほっぽってアル中になった皇帝のかわりに弟の司馬道子が実権を握ったものの、こいつも国の財産を私物化して遊興にふけり、国は最悪に乱れました。

そんな乱れによる社会不満が蓄積し、また反乱が起こります。江南の天師道を私物化してオウム真理教のようなテロ集団にしていた孫恩が起こした孫恩の乱です。といっても、孫恩が支配していたのはこの時代にいくつかあった教団のうちの一つです。正統天師道の教団には天師の称号を持つ張家の子孫がいたはずですから。

この孫恩の乱討伐に活躍したのが劉裕でした。そして劉裕は東晋の帝位を簒奪し、宋(劉宋)を建てます。

つまり、曹氏の魏を簒奪して建てられた晋は、曹操が五斗米道を滅ぼさなかったために発展した天師道の反乱をきっかけに滅んだことになります。これは因果応報なんてバカバカしいものではなく、偶然起こった歴史の皮肉です。