長春真人は不老不死を否定したか

『天幕のジャードゥーガル』(トマトスープ作/秋田書店刊)は、モンゴル帝国で初めてカアン号を名乗ったオゴデイ・カアンの第六皇后にして、オゴデイ亡き後に帝国を掌握し、息子のグユクを帝位につけた女傑・ドレゲネの懐刀ファーティマ・ハトゥンを主人公とした漫画。イランの奴隷の少女がモンゴルの侵略によって草原へ連れ去られ、ひょんなことから知り合ったドレゲネとモンゴルへの恨みを共有して暗躍していくという物語です。
作中では、草原の野営地に連れてこられた直後のファーティマが長春真人に相まみえるシーンがあります。その場には、長春真人の案内役として後にオゴデイ政権の丞相となるチンカイがいました。
ファーティマに聡明な知性を見たチンカイはファーティマに耳を寄せ「私は真人様から聞いてしまったのです 不老不死の秘儀を…」と告げます。その秘儀とは「ありません 健やかな死を受け取ることです」というものでした。長春真人は不老不死の秘儀など存在せず、ただ自然のまま死を受け入れよと説いた。不老不死などという荒唐無稽な話を否定し、あるがままの死を認めた賢者であるという演出になっています。
長春真人とは、全真教の創始者・王重陽の高弟で七真に数えられる丘処機のこと。
内丹派道教の重要な伝人である丘処機は、しかし本当に不老不死を否定したのでしょうか?今回はその点を考察してみようと思います。
丘処機の略歴
丘処機は、大雑把に言うと遼を滅ぼし宋を南へ追いやった女真族の国・金に生まれました。といっても女真族ではなく、金の支配領域に暮らしていた漢人の子です。
19歳のとき、その金国の地で全真教を興した王重陽の弟子となります。もっとも王重陽についたのは、王重陽が逝去するまでの3年程度。数年間喪に服した後、現在の陝西省のあたりで10年以上山ごもりの修行をしたといいます。
その後、王重陽が葬られた終南山で全真教の布教に従事したようです。
王重陽亡き後、全真教は王重陽の弟子の馬鈺、譚處端、劉處玄が継いでいき、劉處玄が逝去した1203年に丘処機が全真教の教主である掌教となりました。2代目の馬鈺から5代目の丘処機までが、王重陽の直弟子の掌教です。
掌教となった丘処機は積極的に金の領域をめぐり布教活動に努めます。1214年に起きた農民反乱では、金の将軍が丘処機の声望を頼って鎮圧したといいますから、10年程度でかなり大きな宗教団体に育っていたことがうかがわれます。金朝はこの功により丘処機に自然應化弘教大師の封号を与えました。
チンギス・カンに招かれ道を語る
国に封号を与えられるまでになった丘処機の名声は、金国の内部のみならず国外まで届くまでになりました。
そして帝王たちが相次いで丘処機と面会を望むようになります。
まず1216年に金の宣宗が召し出そうとします。金はその前年にチンギス・カンに大幅に領土を奪われていたので、丘処機の持つ組織力に頼りたかったのかもしれません。
さらに1219年に南宋の寧宗も丘処機を招請しようとしました。寧宗は困窮する民を思い自らも質素倹約を旨としたという実直な印象がある人物ではあるものの、臣下の専横にされるがままという力の無い皇帝でした。当時金は弱体化しつつあったにもかかわらず、南宋はそれよりも弱く何度も侵攻を受けています。あえて敵国にいる丘処機を召し出そうとしたのも、漢人として金の内側から味方してほしかったという思惑があったのでしょうか?
しかし丘処機はそのどちらにも行きませんでした。『元史』にはただ
金 宋之季 俱遣使來召 不赴
金と宋の季全がともに使いを派遣して召し出そうとしたが行かなかった
とだけ記されています。
丘処機の弟子が著した『長春真人西游記』によれば、南宋からはその後も何度も招待が届いたが招きに応じることはありませんでした。その理由としてこうあります。
師乃言曰 我之行止天也
お師匠様はこうおっしゃった。「私が行かないのは天意である」
そこへチンギス・カンから謁見の要請が届き、側近の劉仲祿を迎えによこしました。
断りきれなくなった丘処機は、当時滞在していた今で言う山東省にある東萊から西域まで赴くことになります。
約1年をかけて、現在のウズベキスタンにあるサマルカンドに到着。そこで数ヶ月滞在した後、チンギス・カンが遠征していたアフガニスタン付近まで呼ばれ、やっと面会することになりました。
他国の招聘には応じなかった丘処機が自分のところには来たことをチンギス・カンは非常に喜びます。そして宴会の席でこう問いかけました。
問真人遠來有何長生之藥以資朕乎
長春真人が遠くから来てくれたからには、何か長生の薬で朕を助けてくれるのだろうか?
それに対して丘処機は
有衛生之道 而無長生之藥
あるのは衛生の道で、長生の薬はありません
そう答えました。
チンギス・カンは丘処機の答えに気を悪くするでもなく歓待し、神仙とまで呼ぶようになりました。
冒頭に紹介した『天幕のジャードゥーガル』で長春真人が不老不死の秘儀などないと言ったというシーンが作られたのは、このチンギス・カンとの対話が元になっているのだと思います。しかし、それは誤解から来る飛躍です。
耶律楚材の『玄風慶會錄』には、丘処機がチンギス・カンに説いた道の内容が詳しく記されています。
まず、チンギス・カンは丘処機に長生の道とはどのようなものか聞いたようです。それに対して丘処機は、非常に真摯に答えました。長い内容なので、ポイントをいくつか拾っていきます。
學道之人以此之故 世人愛處不愛 世人住處不住 去聲色以清靜為娛 屏滋味以恬淡為美 但有執著 不明道德也
道を学ぶ人はこのゆえに世の人が愛するものは愛さず、世の人が住む所には住まず、声色を捨てて清静を楽しみとする。滋味を避けて恬淡を美味とする。しかし執着もあります。それは道徳が明らかではないということです。
これが即ち「衛生之道」の具体的な内容です。全真教は禅宗の影響により出家主義をとりました。日本の出家とは名ばかりの僧侶のコスプレイヤーとは違い、中国の出家は本当の意味で家や家族を捨てて修行の道に入ることをいいます。声色とはエンタメとか性的なこと。それを捨てて身を清め静かに内丹を練る。滋味に満ちた美食ではなく、恬淡とした生き方そのものを味わうといったこと。これはかつては日本にもいた道元や良寛のような本物の禅僧の姿に通じるし、また『老子』の思想にも通じます。
ここで言う道徳とは現代日本語的な社会でのモラルではなく、天地を統べる法則である道に備わっている徳のことで、一般人のような執着は捨てているものの、道徳を解き明かして道と一体となることには執着があるということでしょう。
夫男陽也屬火 女陰也屬水 唯陰能消陽水能剋火 故學道之人首戒乎色
男は陽で火に属し、女は陰で水に属します。ただ陰だけが陽を消すことができ、水だけが火を剋すことができます。それゆえ道を学ぶ人はまず色欲を戒めるのです。
夫學修真者如轉石上乎高山 愈高愈難跬步顛沛
真を修め学ぶのは、まるで石を転がして高山に運ぶようなもの。その山が高ければ高いほど難しくなり、足を進めるのも難しくなるのです。
これらを見れば、「有衛生之道 而無長生之藥」とは、長生は薬を飲めば得られるような簡単なものではなく、覚悟と厳しい修行が必要なのだという意味だということがわかります。
そしてチンギス・カンにこう突きつけます。
陛下宮姬滿座 前聞劉仲祿中都等揀選處女以備後宮
竊聞道經云 不見可欲使心不亂 既見之戒之則難 願留意焉
陛下の宮殿には姫が満ちていますな。前に劉仲祿中都などに聞いたところでは処女を選んで後宮に備えているとか。
私が耳にした道教の経典ではこう言います。見なければ心が乱されることはなく、見てしまったならばこれを戒めるのは難しい。
どうぞこのことご留意ください。
長生をしたければ、薬なんかに頼らず、女を遠ざけ欲におぼれるなよと、天下のチンギス・カンに言ってのけたわけです。
「有衛生之道 而無長生之藥」は、『玄風慶會錄』も読まなければその真意はわかりません。
丘処機は不老長生を否定していない
丘処機が長生の薬の存在を否定したのは当然のことです。
長生の薬は丹薬とも呼ばれる秘薬で、道教の勃興期である三国時代末から晋代にその製造法が研究されていました。これを外丹法と言います。しかし、そのために水銀を含む丹砂、ヒ素を含む雄黄などが使われ、長生きどころか逆に寿命を縮める結果を招きました。
そうした悲劇だか喜劇だかわからない結果を受けて唐代ごろから盛んになっていったのが、呼吸法によって体内に丹薬のような成分を生み出して長生になることを目的とした内丹法です。
丘処機の師匠・王重陽は、その内丹法に禅宗の思想を加え、座禅による内丹法と身を清め善行を積んで輪廻から解脱することが即ち成仙であると説きました。
だから「有衛生之道 而無長生之藥」はその全真教の思想をそのまま伝えただけであって、不老長生を否定したわけではありません。
丘処機の思想は丘処機撰の『磻溪集』にも表れています。
一念無生即自由 千災散盡複何憂
不堪下劣衆生性 日夜奔馳向外求
無生を一念すれば自由である。千の災が尽きるまでふりかかっても何を憂うことがあるか。
下劣な衆生の性は耐え難い。日夜必死にかけまわって自分の外に向かって何かを求めているではないか。
無生とはつまり輪廻から解脱して転生することがなくなるということ。
お釈迦様は病気、老化、死という苦しみはそもそも生まれてくるからあるのだとして生老病死を四苦としました。死んでもまた輪廻によって生まれ、苦しみを繰り返すことがないように輪廻から解脱した人。これが仏陀です。全真教では成仏を成仙へとすり替えました。
他人之言不可聽 自己之心但可正
若憑他口是非言 壞卻自身功德性
他人の言う事は聞いてはいけない。自分の心こそ正しいのだ。
もし他人の言葉を頼りにし、それが間違っていたならば、自分の功徳を壊してしまうことになる。
ここで言っている心とは正しい修養を経た心であって、なんでも自分勝手に思うままにして他人の言うことは聞かないでいいということではありません。
大道元無極 長生豈有涯
大いなる道は元は無極であった。長生にはてなどあろうものか。
世界の始まりは陰陽の別がない無極であり、そこから陰陽が分かれ、四象となり、八卦となって陰陽が調和した太極に至って万物が生じるというのが中国の伝統的な世界観です。その天地陰陽を統べる法則たる道も、もとは無極から生まれ、悠久の時を経て終わることなどない。ならば道と一体となった長生にだって終わりはないのだ。と言いたいのだと思います。
つまり、丘処機は「長生の薬」を否定したのであって、長生そのものは否定していません。長生とは心を清め、欲を消し、修練を積まなければ得られない。内丹派道教の道士としてそこははっきり言っておかねばならなかった。それが例えチンギス・カンであっても己を曲げなかったのは見事としか言いようがありません。






