道教の山岳信仰と五嶽大帝

都内の神社を巡っていると、よく「富士塚」を見かけます。これは小高く積み上げた岩や小山などを富士山に見立てたもので、富士山を司る浅間大神を祀る浅間信仰の広まりによって、ミニチュア富士山として作られたものです。


富士塚:台東区小野照崎神社

あるいは、人工ではなく自然の山の山頂に浅間神社を置き、その山を富士山と称することもあります。そのような信仰上の「富士山」も日本各地にあります。


日光市富士浅間神社

もちろん日本一の富士山のみならず、山を御神体と見立てる、または神が降臨する依代と見立てるなどの設定の山はいくつもあります。やはり大地に高くそびえる山という存在は、古代人に畏怖を感じさせ、信仰の対象になりやすかったのでしょうか?

そのような山岳信仰、山に対する信仰は我が日本は言うに及ばず世界中に存在します。

道教にも、山に住む神や山そのものへの信仰が由来となる神々が存在します。その代表が五嶽大帝です。

道教以前の中国の山岳信仰

中国の山岳信仰について詳しく書くと、多分本が一冊できるぐらいの分量になってしまうと思いますが、私にそこまでの力はないのでごくあっさりと薄く触れてみます。

『礼記』祭法にこんなくだりがあります。

山林川谷丘陵 能出云為風雨見怪物 皆曰神

山や林、川に谷、丘陵に至るまで雲をわかせて風雨を作り出し、怪しいものを見せるのは皆神と言う

この「怪物」について唐の孔穎達は「慶雲に属するものだ」としていますが、ここは素直に怪しいものと受け取ってもいいと思います。

ここに、自然環境すべてに神を見出す古代のアニミズムの影響が見られます。

だから

万物に神が宿るという考え方、八百万の神という考え方は日本独自のものとも聞くが、しかし生物非生物を問わず、人間以外の何かに対する感情移入は、世界中にあるものだろう。

『憑物語』 西尾維新著/講談社刊

万物に神が宿ると考えるのは日本人だけなんて言ってるけどそんなことなくね?という、主人公の阿良々木暦の口を借りた西尾先生の認識は正しいと言えます。そういえば以前、確か『逆説の日本史』で有名な井沢元彦氏が、天照大御神のような、太陽神を女神とする信仰は日本独自のものだと書いていたのを読んだこともあるけれど、これもウソっぱちで女性の太陽神は日本以外にもいろいろいます。本当に世界で唯一なら誇ってもいいと思いますが、そうではないのに思い込みでドヤるのはやめたほうがいいです。

閑話休題。

『礼記』は儒教の経典です。儒教は「怪力乱神を語らず」だから神や超常的な存在は認めないのだなどとアホなことを言い出すアホもいるけれど、儒教は「鬼神は敬して遠ざける」霊や神は敬って高いところに祀っておくという立場ですから神を認めないなんてことはありません。

『山海経』には、鈐山から萊山に至るまでの17の山に住む10の神々とか、崑崙之丘に住む九尾の人面虎の神とか、輝諸之山から蔓渠之山に至る9つの山に住む人面で鳥の体の神とかいろんな山の神が登場します。ちなみに大荒西経では崑崙之丘に住むとなっている西王母は、西山経では崑崙之丘の西にある玉山に住むとなっています。『山海経』での西王母は明確には神とは記されておらず、どちらかというと妖怪に近い扱いです。

『山海経』に記される山の神々は山そのものに対する信仰ではないとはいえ、山の信仰の一つと言えると思います。もっとも『山海経』に記された山の神々を信仰していた人々を当時の「中国」の範囲に入れてしまっていいのかどうかは微妙なところです。

それら神々への信仰とは別系統のものとして泰山信仰があります。泰山信仰は、泰山を死者の魂が還る場所とする信仰です。泰山は現在の山東省にある山で、春秋時代だと魯にあたりますが、孔丘が生まれた魯にある山に対して、死者の魂は天に昇っていくという儒教の設定とは違う死後の世界の信仰があったのはおもしろいです。

五嶽大帝

道教が成立した後、古代中国にあった山の神、あるいは山そのものへの信仰はその一部が道教へ取り入れられていきます。そして山自体への信仰は、擬人化された神への信仰と変化していきました。

五嶽大帝もその一例です。

五嶽とは東嶽泰山、南嶽衡山、西嶽華山、北嶽恆山そして中嶽嵩山の5つの山のこと。この五嶽への信仰は古代からありました。

『周礼』春官宗伯に

大宗伯之職掌建邦之天神人鬼地示之禮 以佐王建保邦國 以吉禮事邦國之鬼神示 以禋祀祀昊天上帝 以實柴祀日月星辰 以槱燎祀司中司命風師雨師 以血祭祭社稷五祀五嶽

大宗伯は、建国の天神、人の霊、地祇への霊を職掌とし、それによって王が国を建て、保つのを補佐する。吉礼をもって国の鬼神を祀る、煙祀をもって昊天上帝を祀る、実柴をもって日月星辰を祀る、槱燎をもって司中・司命・風師・雨師を祀る、血祭をもって社稷・五祀・五嶽を祀る

とあります。昊天上帝は後に玉皇大帝と習合というか混同されて一体となる神です。実柴と槱燎はどちらも牛などの犠牲を盛大に燃やして天に捧げることのようですがどう違うのかはわかりません。血祭は血祀ともいい、動物を殺してその血を神に捧げる祭祀のことのようです。

とにかく大宗伯は、いろいろ神様を祀ることで国を守る役割なんだよってことです。その祀る対象に五嶽が入っていました。ただしこれは山そのものを祀ったということで、この時点では具体的な五嶽の神はなかったものと思われます。

『周礼』よりおそらく500年以上後、東晋のころになると『抱朴子』の著者・葛洪が『枕中書』に五嶽をそれぞれ治める神を記しています。

太昊氏為青帝治岱宗山 顓頊氏為黑帝治太恒山 祝融氏為赤帝治衡霍山 軒轅氏為黃帝治嵩高山 金天氏為白帝治華陰山。

太昊氏は青帝として岱宗山を、顓頊氏は黒帝として太恒山を、祝融氏は赤帝として衡霍山を、軒轅氏は黄帝として嵩高山を、金天氏は白帝として華陰山をそれぞれ治める

岱宗山は東嶽泰山、太恒山は北嶽恆山、衡霍山は南嶽衡山、嵩高山は中嶽嵩山、華陰山は西嶽華山の別名です。色は五行でそれぞれの方角と対応するものになっています。

一方そのような五嶽を治める神々とは別に、泰山そのものを人格神とする信仰もすでに西晋のころには行われていたようです。

西晋の張華が著したという『博物志』にそれらしい記述があります。

泰山一曰天孫 言為天帝孫也

泰山は天孫だとも言う。天帝の孫だと言われる。

もっとも同書には葛洪が著した『神仙伝』からの引用もあるため、実際に成立したのは東晋のころだという可能性もあります。

東晋代で言うと、葛洪とほぼ同時代人の干宝が著した志怪小説集『捜神記』には、泰山を擬人化した神「泰山府君」の名が見られます。

胡母班字季友泰山人也 曾至泰山之側忽于樹間逢一絳衣騶呼班云泰山府君召

胡母班は字季友で泰山の人である。かつて泰山のそばに行った時に突然木々の間から武人にこう呼ばれた「泰山府君のお召しである」。

ですから遅くとも東晋の頃には泰山は人格神化されて信仰されてはいたはずです。しかし、まだその姿で道教に取り入れられてはいなかったと思われます。

『枕中書』や『捜神記』より約200年後ぐらいに、茅山派道教の開祖・陶弘景が作った『真霊位業図』には、五嶽それぞれの名を冠する真人の名が記されています。ただ、五嶽そのもの、あるいは五嶽それぞれを治めるような神は記されていません。『真霊位業図』は神や仙人の設定にかなり独自性があるので、当時人格神化された五嶽の神がまだ道教に取り入らられてはいなかったとは言い切れないものの、道教神として広く認知されていたわけではないぐらいのことは言えると思います。

中文版wikiには『神異經』に「東嶽帝君」の名が記されていると記述されています。『神異經』は、漢の東方朔が撰したとされていますが、どうも後の世に東方朔に仮託して著されたようです。南朝宋の裴松之による『三国志』注に引用されているので遅くとも南北朝初期にはあった本なのは確かです。でも、現存する『神異經』には「東嶽帝君」の記述は見られません。中文wikiはよく嘘をつきます。どこから『神異經』に記されているなんていう情報が出たのかについては一応出典があるので後に触れます。

南北朝のころに南朝の道士がつくったという『上清洞真解過訣』には「五嶽諸真人」と見えます。これも山の神というよりは『真霊位業図』にあるような単に五嶽に住んでいる真人ということのようです。

では五嶽が人格神として道教に取り入れられたのはいつごろでしょうか?

『太上大道三元品戒謝罪上法』に、東嶽泰山青帝大神、南嶽衡山赤帝大神、中嶽嵩山黃帝大神、西嶽華山白帝大神、北嶽恆山黑帝大神という五嶽の神々が列記されています。『枕中書』にある五嶽の神々を受け継いだ神々のようです。ただし、東嶽名山大神ともあるので、山自体を人格神としているようにも思えます。

今日、道教側は『太上大道三元品戒謝罪上法』は東晋に作られたとしているけれど、どうも南朝のころに作られたようです。

つまり晋代に泰山などを人格神にする動きが生まれ、南北朝のころには五嶽の神として道教に取り入れられたと、おおざっぱに考えることはできそうです。

五代十国~宋代をすっとばし、元代に編纂された『新編連相捜神広記』には五嶽それぞれの神が記されています。そのうち東嶽を見ると

東方朔神異經曰昔盤古氏五世之苗裔

東方朔の『神異經』では昔の盤古氏の五世の末裔という

としてあって、そこに「東嶽帝君」の名も見えます。元代にあった『神異經』に本当にそう記されていたのか、ただそうでっちあげたのかは不明です。私はでっちあげだと思います。中文wikiに『神異經』に「東嶽帝君」記されているとなっているのはおそらくこれが出典です。つまり『神異經』原典にあたったのではなく、後世のでっちあげを参照しているわけです。

また

武后垂拱二年七月初一封東嶽為神嶽天中王

武則天の垂拱2年(西暦686年)7月1日に東嶽は神嶽天中王に封じられた

とも書いてあります。武則天の武周の時に朝廷が東嶽泰山を神に封じたというのが本当なら、南北朝か隋代ごろに山そのものが神として道教に取り入れられていた可能性は高まります。

他の山については、宋真宗の太中祥符(大中祥符)4年=西暦1011年に南嶽が司天昭聖帝、西南が金天順聖帝、北嶽が安天玄聖帝、中嶽が中天崇聖帝にそれぞれ追尊されたとなっています。大中祥符4年には東嶽も東岳天斉天仁聖帝に追尊されています。

ここで大中祥符という元号について触れておきます。

まず『宋史』真宗本紀の大中祥符から。

大中祥符元年春正月乙丑 有黃帛曳左承天門南鴟尾上 守門卒塗榮告有司以聞 上召群臣拜迎於朝元殿啟封號稱天書 丁卯紫雲見如龍鳳覆宮殿 戊辰大赦改元群臣加恩

大中祥符元年の春正月乙丑の日、左の承天門の南側の鴟尾の上に黄帛がかかっており、それを門番が上奏した。群臣が集められ、朝元殿にて迎え入れられて「天書」として封じられた。丁卯の日には紫雲がまるで龍や鳳のように宮殿を覆った。戊辰の日に大赦が行われ、大中祥符に改元されて群臣に加恩があった

大中祥符元年とはなっているけれど、実際にはまだ景徳年間のころ、宮殿の門にある鴟尾、つまりは門の装飾の上に帛書がかかっていた。これは天からつかわされたお告げの書だ!なんと瑞祥を表す紫雲まで宮殿を覆った!やあめでたいめでたい、大中祥符に改元しちゃうぞ!そのついでにめでたいから恩赦もするし、家臣にはボーナスも出しちゃうぞ!ってなことがあったというんですね。

まあ嘘だが!

この出来事は「天書事件」と呼ばれ、朝廷に取り入った道教の道士が仕掛けた茶番劇でした。

この事件の4年前、真宗は宋に侵攻してきた遼を迎え撃つために親征します。で、両軍にらみ合ったところで両者の利害が一致します。宋は戦争をしたくないし、遼も攻め込んでみたはいいものの、度重なる宋への侵攻やら周辺との攻防やらなんやらで懐具合が厳しくなっていました。戦争ってのは金がかかるのです。

そこで、和議が結ばれることになりました。遼の言い分は、おまえらが奪ったうちらの領土を返せ、宋の言い分は、いやいやそこはもともと我らの領土だからおまえらから奪え返しただけだし。ということで平行線です。で、その妥協案として、遼が領土の割譲をひっこめるかわりに、宋が遼に毎年金を払うってことになりました。これを澶淵の盟といいます。

遼のゴネ得とはいえ、宋も定額料金で平和状態のサブスクを購入したわけですから、金も人もどんどん失われていく戦争を繰り返すよりはまあマシなんじゃね?ってのがおおむね現在の評価だと言えます。

ただ、当事者にとってはどうでしょうね?この澶淵の盟によって、宋は遼の皇帝を正式に皇帝と認めなくてはならなくなりました。

本来皇帝は世界に1人だけというのが中華帝国の認識です。多利思比孤だか聖徳太子だかが隋に対して失礼ぶっこいた国書を出した時に煬帝がブチギレたのも当然なのです。だって世界に至高の存在は皇帝ただ1人。それと対等の存在などあってはならないからです。

もちろん、実際には三国時代とか五胡十六国とか五代十国とかに皇帝が複数併存したことはあります。でも中原の政権は他の国の皇帝を皇帝と認めていたわけではなかった。あいつら勝手に皇帝を僭称しているだけだよという立場です。ところが真宗は異民族たる遼の皇帝を正式に皇帝だと認めなければならなくなった。これは中華帝国の皇帝としては屈辱だったでしょうね。

そんなとき、真宗のココロのスキマに入り込んでいったのが道教勢力でした。道教の道士は喪黒福造のように真宗にドーンしたのです。

大中祥符元年の3月になると、朝廷にはいろんなところから封禅を行ってくださいという請願が届くようになります。封禅とは天地に対して我こそは皇帝なりと宣言を行う儀式です。『宋史』には、いかにも自然発生的に封禅を願う声が上がったように書いてあるけれど、常識的に考えてやらせです。要するに、真宗こそが本物の皇帝であると知らしめるために真宗は封禅の儀式をやりたかった。そこで臣民たちが封禅を望んでおりますぞというお膳立てをしたのです。

朝廷は「そんなに言うならしかたないなー」ってな具合に封禅の準備を推し進め、その年の11月に封禅が行われました。これは唐玄宗以来283年ぶりのことでした。

その舞台となったのが泰山です。真宗にとって、泰山の神を祀るのは、自身の権威を保つためにも非常に重要なことだったのです。

大中祥符4年に、泰山、つまりは東嶽と、その他の五嶽の神々に「帝」の号が追尊されたのは、このことと無関係なはずがありません。

帝号を追尊されたことで、五嶽の神々は「五嶽大帝」の地位を得たわけですね。言ってみれば遼が宋に攻め入ったおかげです。

「中嶽」がいるにもかかわらず、東嶽大帝が中心となっているのも、封禅を行った泰山の神だからと考えれば納得です。

その後東嶽大帝は地府を司り、十殿閻羅を主管するという設定が加えられました。十殿閻羅の泰山王は東嶽大帝のアバターということになっています。多分泰山の神を十殿閻羅に組み入れておいたら、その後泰山の神に帝号が与えられてしまったため、泰山王は東嶽大帝そのものじゃないよー、分身みたいなやつだから他の十殿閻羅と同列でも問題ないよー、という言い訳をするために作られた設定だと思います。

さて明代。また『封神演義』がやらかしました。

まず紂王の臣下として登場し、後に西岐の側に立って殷と戦った武成王黄飛虎が東岳泰山大齊仁聖大帝に封じられてしまったのです。

同時に北伯侯崇黒虎が南岳衡山司天昭聖大帝、崇黒虎について戦った聞聘、崔英、蔣雄がそれぞれ中岳嵩山中天崇聖大帝と北岳恆山安天玄聖大帝、西岳華山金天願聖大帝に封じられます。

この5人は、生前に揃った時になんでか「五岳」に相応するとして「五岳」と呼ばれていました。なんでそうなったのかわかりません。なんで「黄」飛虎が東嶽なのか、崇「黒」虎が南嶽なのかもわかりません。なんでほぼモブキャラの聞聘、崔英、蔣雄が五嶽大帝に封じられたのかもわかりません。なにもかもわかりません。作者の思いつき以外には考えられません。

なのに後世、現実の信仰の中にその設定が取り入れられてしまうのが、『封神演義』の困ったところであり、道教の困ったところでもあります。


慈心仁聖大帝:新北市石門金剛宮

三山國王

ついでと言っては失礼ですが、山岳信仰の流れで三山國王にも触れておこうと思います。

三山國王は元々は粵東=広東東部の主に潮州などで信仰されていた山岳信仰の神々です。


三山國王:台北市澤安宮
その名の通り、巾山、明山、獨山という三座の山の神格化で、この三柱の神は劉関張よろしく義兄弟の契を結んでいるのだとか。

1番の兄貴は巾山國王、2番めが明山國王、3番目が獨山國王という序列です。

この信仰は、どうやら隋のころにはすでにあったと考えられています。

唐代に潮州刺史として赴任した韓愈が、豪雨による水害に際してこの三座の山に祈ったところ、天が晴れて水害が収まったため神として祀ったという伝説もあるようです。ただ、韓愈といえば儒教原理主義者であり、潮州刺史になったのも仕えていた唐憲宗が、長安近隣の寺から仏舎利を迎えて供養しようとしたことに諫言したためでした。そんな人物が、流された地方のローカル神に祈ったりするものかなと思うので、これは単に韓愈が潮州刺史だったという事実にかこつけて作られたものでしょう。

この広東の一地方にあったローカルな民間神が道教に取り入れられた契機は、おそらく朝廷が神号を贈ったことだと思われます。

北宋代、宋太宗が南漢の劉鋹を討ったおり、三柱の神人が現れてそれを助けた。それゆえ太宗は巾山國王を清化威德報國王、明山國王を助政明肅寧國王、獨山國王を惠威弘應豐國王にそれぞれ封じた。てなことを書いてあるのを見つけはしたものの、南漢を滅ぼしたのは宋太祖で、太祖の弟の太宗は後方を守る留守番役だったので、これも三山國王を信仰する人が権威付けのために作った話ですよね。

朝廷が封じたなんて話は勝手に作って吹聴するわけにはいかないだろうから、潮州側から朝廷に金を積むなりして地元の神を封じてもらった。その後で伝説をでっちあげたというのかなと推測します。

太宗の次の真宗の代になると、朝廷に道教の勢力が浸透していきますから、その流れで朝廷が封じた神を道教に組み入れていったということはあったかもしれません。

まあそこらへんのことは全部推測です。なんせ資料が少ないので。

現在台湾にも三山國王を祀る廟が散見されます。三山國王を信仰していたのは主に潮州の客家で、客家人が台湾に移住したおりにその信仰を持ち込みました。本来は山そのものが見えている地域でしか信仰されていなかったはずですが、人格神とされたことでその神像を分霊として台湾に移すことも可能だったということでしょう。

広東系の客家人移民と福建系河洛人移民は清代には械闘を繰り返して殺し合っていました。それが日本の統治を経て文明人になったので、そういうアホな抗争もなくなり、三山國王の信仰も台湾道教の中に混じって今日まで伝えられています。

道教の神々

Posted by 森 玄通