道教と神像

道教の廟に行くと様々な神像が祀られており、信徒はその神像を神として礼拝します。
仏像を拝むことに慣れている日本人には、その光景は違和感がないものでしょう。
しかし、初期の道教は神像を置きませんでした。それが現在のように神像を拝むようになったのは、やはり仏教の影響があったようです。
※バレる前に先に申告しておくと、この記事の半分ぐらいは百度百科の道教造像の内容に依存しています。
道教は神像を置かなかった
道教は、その最初期では日本の神道と同様に神の姿をビジュアル化してはいませんでした。
初期道教の経典『老子想爾注』にこうあります。
道至尊 微而隱 無狀貌形像也
道は尊きに至り、微かにして隠れている。道には姿形はない。
『老子想爾注』は、漢代に流行した儒教経典を神秘化して解釈する緯書の道教版とも言えるもので、『老子』を独自解釈で神秘化し、五斗米道の教義として利用したものです。
老荘思想に言う「道」は、天地の運行を統べる法則のようなもので、神とはまた違う概念です。法則ですから明確な形もありません。
『老子想爾注』が『老子』を神秘化した経典だと言っても「道」の解釈においては大きな違いはなく、やはり尊いものではあってもその姿はないと考えており、ゆえに道を黄帝や九天玄女などに託して語るのは偽りであると批判しています。
だからこそ
一散形為氣 聚形為太上老君
道は散れば気となり、集まれば形を為して太上老君となる。
という部分は、老子が太上老君として神格化された後に差し込まれたものではないかと疑っているのですよね。
唐代に僧侶の釋法琳が撰したとされる『辨正論』にもこんなことが書かれています。
陶隱居內傳云 在茅山中立佛道二堂 隔日朝禮 佛堂有像道堂無像
王淳三教論云 近世道士取活無方欲人歸信 乃學佛家制立形像
『陶隱居内伝』では、茅山に仏教と道教それぞれのお堂を立て、1日ごとの朝に交代で礼拝していた。仏堂には像があり、道堂には像はなかった。と言っている。
また王淳の『三教論』には、近ごろの道士は節操なく信者集めをしており、仏教をまねて像を作っているとある。
『陶隱居内伝』は南北朝のころの道士・陶弘景の伝記です。陶弘景は茅山宗の開祖の道士だとはいっても、幼少時には儒教経典に親んでいます。また南朝梁の武帝が陶弘景のために茅山に建てた館に移ってから、つまり道士として名声を高めてからも仏教にも心を寄せました。いわば三教合一のはしりとも言える人物です。その陶弘景が1日交代で仏像と道教の神を礼拝していたけれど、道教のほうには像はなかったというのですね。ちなみにこの部分、現存する『陶隱居内伝』には見えないので、散逸したか『辨正論』で勝手に作られた文なのかはわかりません。
王淳の『三教論』というのも現存しないようですが、道教で神像をつくるのは仏教のパクリだと言っていたわけです。仏教が仏像を作るのもガンダーラ文化がギリシャのヘレニズム文化をパクったからですけど、当時の中国人はそんなことは知りますまい。
『辨正論』で引用する文章は現存しません。ただ、初期の道教は神像を礼拝するスタイルではなかったと推測はできます。
あるいは礼拝対象がなかったのではなく、儒教のように神位を記した位牌を礼拝していた可能性はあります。現代の道教廟でもまれに位牌を本尊にしているのを見ることができます。

玉皇大帝の位牌:台南市台湾首廟天壇
仏教をパクって神像を作るようになる
では道教ではいつごろ神像が作られるようになったのかというと、どうも陶弘景の時代より早かったようです。
陶弘景より半世紀ほど早く北魏で活躍した寇謙之は、新天師道を興して大層な威勢を誇っており、北魏の太武帝が自ら法籙を受けるほどでした。要するに皇帝を弟子にするほどの道士だったということです。
『隋書』にはその時寇謙之がこう言ったと記されます。
自是道業大行 每帝即位必受符籙以為故事 刻天尊及諸仙之象而供養焉
自らは道教の教えに從って国を経営し、後代に皇帝が即位するごとに法籙を受けることを慣例とし、天尊や諸々の仙人の像を作って供養しなさい。
寇謙之は、道教と儒教の兼修をすすめ、儒教的な忠孝の思想を取り入れた『老君音誦誡経』を作って道教の綱紀粛正を行いました。しかしこの戒律を定めるというのは仏教を参考にしたものだし、神像を作って供養せよというのも仏教のパクりでしょう。
道教と仏教を共に学んだ陶弘景とは正反対に、寇謙之は仏教の手法を取り入れつつ、太武帝をそそのかして仏教弾圧を行わせました。ここらへんは穏やかで開放的な南方人と狭量な北方人との性質の違いかもしれません。
ともかく中国が南北に分かれてごちゃあとなっていた時代、北方ではすでに仏教を真似して神像が作られ始め、南方ではまだ像は拝まない状態だったことがわかります。
隋が南北を統一し、その後唐朝の天下に入ると、社会は安定して分裂していた東西南北の交流も活発になりました。南北でそれぞれ発展していた道教はこの時にお互い影響しあい、神像はどこででも普通に作られるようになります。
唐代に作られたと思われる『太上洞玄霊宝国王行道経』は、諸国の王は信仰を国民に広めなさいみたいなことを説いている経典です。その中にこうあります。
天尊曰 次當造諸形像真應化身 過去未來見在三世十方三界得道天尊仙真聖品仙童玉女金剛神王左右香官龍虎君等隨其所有 金銀珠玉 繡畫織成 刻木範泥 鑿龕琢石 雕牙鏤骨 印紙圖畫
元始天尊はこう説いた。次に神仙の化身となる真に迫った像を作りなさい。過去未来現在の三世にわたり道を得た天尊、仙人、真人、聖人、仙童、玉女、金剛、神王、左右の香官、龍虎君等の像がどこにでもあるようにしなさい。金銀や珠玉、刺繍や織物、木彫りに陶器、石彫に歯や骨の彫刻、木版印刷(等で神を描きなさい)。
ちなみに木版印刷は唐代にはすでに行われていました。とにかく、表現方法はなんでもいいから神や仙人をビジュアル化して広めなさいと言っているわけです。コミケ的精神と言っていいでしょう。推しを布教する表現方法はなんでもいいのです。
こういう経典が作られたということは、すでに神像や壁面彫刻に神の姿を描くのは当たり前だったことを意味します。それどころか版画で印刷して配布しなさいとまで言っています。手彫りコピー本の薄い本の制作が推奨されていたのです。
様々な色の神像
道教で神像が一般的になると、今度は様々な色の像が作られるようになりました。
金色

玉皇大帝:新北市無極天元宮
まずは金色。
おそらく宋代に作られただろうと考えられている『太上三洞神咒』は、様々な呪文を集めた呪文集です。その中の『金光神咒』にこうあります。
天地玄宗 萬氣之根 廣修萬劫 證吾神通 三界內外 惟吾獨尊 體有金光 覆映吾身
天地の法則である玄宗は万気の根本であり、万劫にわたって広く修め我が神と通じ、一人我のみが尊いことを証す。体は金の光で包まれ、我が身を覆い映す。
まあ呪文なんで本来訳すようなものではないけれど、こんなような内容です。玄宗っていうのは唐の第6代皇帝のことではなく、道の別名としての玄であり、天地の根本という意味です。
道教では得道成仙すると体が金の光に包まれると言われます。それは確実に仏教のパクリです。
仏教では仏陀は後光に照らされ光り輝く存在だとされました。それを表現するために、仏像は金色になったのです。

台北市松山慈恵堂
奈良の大仏も鎌倉の大仏も、できた当時は金色でした。現代だと東南アジアあたりにはライトアップした仏像もあります。そういうのを日本人はめずらしがったりするけれど、仏の姿を表すならそちらのほうが正しいのです。仏の威光を示すなら、くすんだ地味な色の仏像はありえません。
道教の神のビジュアル化は仏教のパクりですから、神や仙人が金色に光るというのは金色の仏像を見てからの発想でしょう。
リアル彩色

台北市芝山巖惠済宮
次に、彩色技術の発展によるリアルな彩色。
いや神々は想像の産物なので何がリアルかはわかりませんけど。とにかくそれっぽい色のやつです。
特に肌の色は様々です。
人間っぽい肌色から、赤だの青だの緑だのいろんなカラーの顔色の神までいます。
例えば関羽を神格化した関聖帝君は赤い顔。これは関羽の顔が赤ら顔と伝えられていることにもよるし、関聖帝君が道教の四大護法元帥の中で南の守りとされたからでもあると思います。

関聖帝君:台中市霊聖宮
関聖帝君の位が上がったことで代わりに四大護法元帥に入れられた王天君も赤く塗られています。

王天君:新北市湧蓮寺
四大護法元帥では、他に東の温瓊が青、西の華光大帝馬霊耀が白、北の超光明が黒に塗られています。

四大護法元帥:坂戸市聖天宮
坂戸市の聖天宮の場合、東は温瓊ではなく、紂王の太子として作られたキャラクターの殷郊です。
黒面

黒面媽祖:台北市艋舺照天宮
台湾では方角とは関係なく黒面の神像が見られます。特に「黒面媽祖」が有名です。
これは、台湾に媽祖信仰を伝えた福建からの移民のうち泉州にあった黒面三媽が伝わったものだといいます。
それによれば、黒面の媽祖は民の苦難を救う相を表しているとかで、つまり黒面フォームになることで神威が増すという解釈なのでしょう。
他に、どれだけ篤く信仰を集めているかの証という説もあります。
古い道教廟に行くと、内部が線香のすすで黒く薄汚れていることがあります。すすで黒く汚れるというのは、それだけ多くの信徒が拝したことを意味します。道教では信仰を集めるほど神威が増すと考えますから、すすで汚れているのはいいことなのです。逆にきれいにしてしまうと神威も落ちるとさえ言います。
黒面の神像は、すでに多くの信仰を集めて黒くなっているのを表すのだともいいます。






