道教の神々:斉天大聖

清代の短編志怪小説集『聊斎志異』の第11巻に『斉天大聖』というエピソードがあります。
閩つまり現在の福建省あたりに許盛という商売人がいました。
客から「大聖にはご利益がある」と聞いたので、何の神様か知らずその廟に行ってみると、大聖とはなんと孫悟空。許盛は「孫悟空なんて寓話じゃないか、なにが神なものか」とバカにしました。
するとその夜、許盛は頭痛から始まって体中が痛くなります。兄から謝ったほうがいいと勧められるもののガンと拒否。
やがてその痛みは治りますが、今度はお兄さんが病気になって亡くなってしまいました。
死ぬ間際の兄に、お前への祟がこちらに向かったのだと言われた許盛は、大聖の廟に乗り込み「神だというなら兄貴を生き返してみやがれ、それができたら弟子になってやる!」と啖呵を切ります。
その夜、許盛の夢に斉天大聖が現れ「おまえのようなやつは舌を抜いてムチで打ってやるところだが、今は許して兄を生き返らせてやる」と告げました。
すると果たしてお兄さんが生き返ったので、それで許盛は斉天大聖を信じるようになりました。
小説のキャラクターが神として信仰されている
孫悟空は、その原型は諸説あるものの玄奘の仏教遊学を元にした『西遊記』が成立していく中で作られた架空のキャラクターです。
『聊斎志異』で孫悟空なんて寓話じゃないかと言っているのは作者の蒲松齢のホンネかもしれません。だとすれば、中国にも架空のキャラクターである孫悟空を信仰するなんてと考える人はいたのでしょう。
しかし、斉天大聖=孫悟空が信仰されているのはフィクションではありません。
現実世界で実際信仰され、福建省に大聖を祀る廟がある他、台湾やシンガポールなど中国以外の国々にも福建移民により伝えられ信仰されています。

台北市聖徳宮
斉天大聖を主祭神とする廟は台湾にもあります。
小説のキャラクターを信仰するなんてバカらしいと考えるのは日本人としては当然ではないかと思います。
とはいえ、明確なモデルがいる神以外の神はだいたい創作物です。
玉皇大帝だって西王母だって創作された神様。
日本の天照大御神だってスサノオだって、いくつかモデルとなった人物が想定されているとはいってもそれは後世の想像に過ぎず、架空の存在であることに変わりはありません。
成立した年代が早いか遅いかだけの違いでしょう。
だから、孫悟空が現実で信仰されていても、100年後ぐらいに一橋ゆりえ様が本当に信仰されていても驚くに値しません。
猿猴信仰と習合した説
ただまあ、福建や福建移民が渡った国々で斉天大聖が信仰されているのは、なにも小説で神仙として描かれたからとか、とても強いキャラクターだったからだったというような理由ではないようです。
どうやら東シナ海沿岸の閩や越などには古来猿猴を神として祀る信仰があったとか。
猿の信仰は日本にも伝わっています。
猿が馬の病気を治すという信仰は中国伝来のもので、近世まで厩(うまや)で猿を舞わせるということが行われていました。「一遍上人絵伝」(鎌倉時代)にも厩に猿がつないである場面が描かれています。猿まわしが芸能として確立するのは中世ですが、近世に入っていっそう大衆化し、大名家や貴人の屋敷で厩の祈祷や疫病退散の呪術を行いつつ、一方では猿と馬の組合せで芝居を仕組んで興行を行うこともあったようです。
日枝神社など山王信仰系、浅間神社系の神社にも猿神・猿の神使が祀られています。

千代田区山王日枝神社

台東区富士塚浅間神社(小野照崎神社内)
ウルトラ兄弟と共闘したヒンドゥー教の神ハヌマーンは白猿だし、猿猴を神様とすること自体は珍しくありません。
そのような猿猴信仰と孫悟空という強烈なキャラクターが習合した結果、上書きされる形で斉天大聖の信仰になったという説もあります。
小説の結末との矛盾は気にしない
台湾のいくつかの廟に斉天大聖の像が祀られているのを見ました。

台南市臨水夫人媽廟
頭に緊箍児をはめ、如意金箍棒を持ち、像によっては筋斗雲に乗っています。

台北市青山宮
手に持つひょうたんはおそらく金角銀角から奪った紫金紅葫蘆です。
しかし作中で紫金紅葫蘆は太上老君に返したし、緊箍児は闘戦勝仏として成仏したときに自ずから消えました。
『西遊記』は、道教を落として仏教をアゲている話と言われているけれど、如来は玄奘に経典を渡すと
「蓋此內有成仙了道之奧妙 有發明萬化之奇方也(この中には成仙了道の奥妙、万化を発揮する奇方がある)」
と言っています。
最終回のタイトルは「五聖成真」です。
三蔵一行は取経の旅を成し遂げ、玄奘は旃檀功徳仏に、孫悟空は闘戦勝仏に、猪八戒は淨壇使者に、沙悟浄は金身羅漢に、そして白馬は龍にもどって八部天龍馬になります。
でもこれ多分成仏したと言うより概念としては成仙に近いと思うのです。だから「成真」なわけで。
孫悟空はすでに天界で暴れていた時代に西王母の蟠桃と太上老君の金丹によって不老不死の存在にはなってはいるけれど、取経の旅によってやっと成道した本物の神仙になったということなのでしょう。
『西遊記』は仏教をアゲているかのように見せて、実は徹頭徹尾道教の話です。
『西遊記』研究で名高い中野美代子氏によれば、『西遊記』は煉丹術のメタファーが散りばめられているとか。
また、清代の道士陳士斌が、道教経典や易の理論によって『西遊記』を解説した『西游真詮』で、は『西遊記』を
此發明金丹大道真妙真傳
金丹の大道を明らかにする真に妙なる真伝としています。
そして、孫悟空の取経の旅の完了を
蓋金丹由五行攢簇而成 始雖有為 終則無為
金丹が五行により集められて成った。始めは有為だったがついには無為になった。
とあります。
ここにある無為とは無駄になったということではなく、老子が言う無為自然。つまり天地の法則である道と一体化したということです。
陳士斌は、
悟空者 五行之全也
と言っているので、つまり五行=孫悟空が金丹を作り上げたと言っているのですね。
金丹とは不老不死の仙薬です。
『抱朴子』に
服神丹令人壽無窮已 與天地相畢
神丹を服用すれば人の寿命は無窮となり、天地とともに終わるとあるこの神丹が金丹のこと。
道教的な解釈によれば、孫悟空は取経の旅を経て金丹を練り上げた。つまり不老不死になったのだということになります。
ということで、孫悟空が仏になっても道教の神とされること自体は別に問題ないと思うんですよ。
ただ、神像の姿が成仏前のビジュアルっていうのはどうなのよと思わずにはいられないです。
いや気持ちはわかりますけどね。仏になった姿より、取経の旅をしている時の姿のほうが孫悟空をイメージしやすいですから。
まあそこらへん、いんだよ細けえことはってことなのでしょう。







