道教の神々:文昌帝君

学問は自分の努力で積み重ねていくものだし、何かの試験でもその結果は実力次第です。

とはいえ人事を尽くして天命を待つという言葉もあるように、努力を重ねた末に結果を神に祈らずにいられないのも人間というものなのかもしれません。

日本で学問の神様といえば、天神さま=菅原道真公です。朝廷の権力闘争で左遷した人物が失意のまま亡くなった後、たまたま起きた落雷事故を祟りだと騒ぎ立てて慌てて神様として祀ったというのはほんとどうしよもなくバカすぎるわけですが、そうして作られた神様を祭り上げて合格祈願などしてしまう後世の人間の厚顔無恥さにも呆れるばかりです。

それはさておき、道教で学問の神様というと、その筆頭に挙げられるのが文昌帝君です。

文昌帝君に融合した三柱の神々

文昌帝君は古代中国の星辰信仰から生まれた神様です。

ただし、最初から学問の神様だったのではなく、星辰信仰で生まれた神と、その後に作られた二柱の神が融合して作られた神格です。

文昌

古代中国では、夜の天空に紫微垣、太微垣、天市垣の3つの区画を作りました。これを三垣と言います。

三垣の中には、現代日本でよく知られる星座とは違う星座が見いだされ、それを星官と呼びました。

このうち紫微垣の中に文昌という星官があります。これはおおぐま座にある6つ、もしくは8つの星から構成されています。

文昌は、当初文学の神として信仰されていました。おそらくそれは、単に文昌という名称からの連想で特に根拠もなく信仰されていたに過ぎないのではないかと思われます。

蜀王張育

三国時代は、魏、蜀、呉全てが滅んで、曹操に仕えた司馬懿の孫・司馬炎がタナボタ的に晋を建てることで終焉しました。

しかし、司馬氏には英明君主が出ず、国が乱れて内乱が起こり、同時に北方遊牧民の侵攻もあって、晋は東方、というか実際には南方に逃れて、北方にはいろんな勢力がごちゃあと集まってはそれぞれ国を建てる五胡十六国の時代となりました。

五胡と呼ばれる北方遊牧民の一つ・氐族は、現在の中国の北西部に秦を建てます。これは始皇帝の秦と区別するために前秦と呼ばれます。

蜀の益州を統治していた前秦に対して反乱を起こしたのが張育です。

張育は東晋からの援軍を得て前秦を打ち破ります。しかしここで調子乗ってしまった張育くん。蜀王を名乗って「黒龍」という年号まで作ってしまいました。年号を立てられるのは基本皇帝にのみ許されていますから、いずれ東晋を滅ぼして皇帝になったるわ!ぐらいのつもりでいたのかもしれません。

ところがここで仲間割れが起きました。

張育は、仲間割れで戦っているところを前秦に攻められ討ち死にします。

張育は、死後に蜀の梓潼に祀られます。地元の人には意外と人気があった人だったのかもしれません。

やがて張育は龍神の化身だったと言われるようになり「雷澤龍王」という神様として信仰されるようになりました。

梓潼神亞子

さて張育が祀られた梓潼では張亞子という神も信仰されていました。来歴がまったくわからない神様ですが、とにかくそこらへんで信仰されていた民間信仰の神様だったのでしょう。

張育が死んだ10年ほど後に後秦を建てた羌族の姚萇が、まだ前秦の将軍だったころに姚萇の前に現れて「秦には今君主がいないゆえ、お主が戻って君主となるがいいぞ」とお告げをしたのがこの張亞子だという伝説もあります。

張亞子が張育が死ぬ以前に信仰されていたことは確かなようです。

文昌帝君が誕生するまで

張亞子という神様が信仰される梓潼に張育が祀られたのは偶然です。しかしどちらも張姓の神様ということで、張育は張亞子の生まれ変わりだったという話が作られて、やがて両者は同一の神とされるようになっていきました。

まずこれが第一の融合です。

唐代となり、安史の乱のおり蜀に逃れた玄宗は、夢に張亞子を見て「お主はほどなく太上皇になるぞよ」とお告げされたといいます。でまあ、息子が勝手に即位してしまったので、なし崩し的に太上皇となった玄宗は、張亞子を「左丞相」に封じたといいます。玄宗にとって譲位は本意ではなかったと思うので、実際には違う理由で祀ったんだと思いますけど。

安史の乱から100年ちょっと後に黄巣の乱が起こると、今度は僖宗が蜀に逃げて張亞子を祀り、濟順王に封じました。

玄宗も僖宗も、とにかく逃げてきたから守ってくださいという必死の思いだったのかもしれません。

とにかく2人の唐の皇帝からの追封を受けたということで張亞子の名声は非常に広まり、蜀を超えて信仰されるようになっていきました。

宋代になると、蜀でいくつかの一揆やら反乱やらが起きました。それが鎮圧されると、時の皇帝は張亞子に英顯武烈王、忠文仁武孝德聖烈王、神文聖武孝德忠仁王といった封号を与えています。つまり北宋のころには張亞子は張育のイメージが強い武神として信仰されていたということです。

しかし神は信仰が広まるほどその職能の範囲が広がります。要するに人々は力がある神だと思えばなんでもかんでもお祈りするわけです。この点は日本人も似たようなものです。

当時の人々の中でも読書人にとっては科挙に合格することは人生の一大事でした。科挙は試験に合格しさえすれば官職に就くことができる制度ですから、ある意味民主的です。

しかし科挙は非常に狭き門。どれだけ努力したとしても神様に合格を祈らずにはいられなかったのでしょう。蜀の地では唐、宋の皇帝が追封を行った力のある神様である張亞子が科挙への合格を祈願する対象となりました。神様の属性より、神様がもつパゥワァーに頼ったということだと思います。

しかし、きっかけはどうあれ張亞子は次第に合格祈願の神様という認識になり、それに伴って学問の神様に変化していきます。ここまで来るともう張育のイメージはありません。

それどころか、学問の神様になったことで文学の神である文昌と混同されるようになり、張亞子は文昌の化身であるなどとも考えられるようになって文昌神と呼ばれるようになります。

そして元になり、4代皇帝仁宗は張亞子を輔元開化文昌司祿宏仁帝君に封じました。五代十国から元まで、長い時間をかけて三柱の神々が融合し、文昌帝君になったのです。

同じく元代、文昌帝君の誕生を受けて『文昌帝君陰騭文』が作られました。この経典では、文昌帝君に、我は17回目の転生で士大夫となり、民を苦しめる酷吏になったことはなく、人々を救ってきたなどと言わせています。また忠主孝親という儒教的な部分と、拜佛念經という仏教的な部分が混在しつつ、善人と交わり悪人を遠ざけていれば神の加護が受けられるとしています。

この時点ではまだ道教の中には取り入れられていなかったようです。

文昌帝君は、科挙の合格を祈願する神様であるため、儒教の神と言われることもあります。しかし、実際には儒教の中の神ではなく、科挙の合格を願う人々が信仰する神といったところでしょう。

とはいえ、文昌帝君になってから明確なキャラ付けがされた時点で、道教に取り入れられる準備はできたと言えます。

早ければ元代、遅くとも明代には、道教の中に組み込まれていたのではないかと思われます。

こうして学問の神様となった文昌帝君は、今でも合格を祈願する神として信仰されています。

ただ文昌帝君の出どころである四川では、まだ武神としての性格も残されているらしく、瘟神を取り締まる台湾で言う王爺千歳のような性格が与えられているようです。

台湾の文昌帝君信仰

文昌帝君は台湾でも人気の神様です。受験シーズンの6月ともなれば、文昌帝君を参拝する受験生やその家族で廟が賑わいます。

文昌帝君の神像の前には箱が置かれていることがあって、その中には受験票のコピーが入れられます。

受験に使う筆記用具を持ってきて、文昌帝君の力が宿るように祈願するということも行われているようです。

文昌帝君の前には文昌筆と呼ばれる筆をかたどった像が置かれていることも多いです。


文昌筆:台北市木柵集応廟

ほとんどは筆の形をしただけのモデルですが、芝山巖惠済宮には本物の大きな筆が掛けられています。


文昌筆:台北市芝山巖惠済宮

中国の一部地域では瘟神を取り締まる職能を持つ文昌帝君。台湾では他にそうした役割を持つ王爺千歳がいるためか、純粋に学問の神様として信仰されています。

道教の神々

Posted by 森 玄通