道教の神々:武財神趙公明

仏教が究極的に目指すのが成仏であるように、道教が究極的に目指すのは成仙—羽化昇天して仙人になること—です。
とはいえ、例え死ぬ=成仏だなどと浄土教を極大解釈し、寺で葬式をして墓を拝むことが仏教だと思っているようなどこかの馬鹿な国の自称仏教徒を省いたとしても、全ての仏教徒が現世での成仏を目指してるわけではないように、全ての道教徒が成仙を目指しているわけでもありません。
例え毎日のように地域の廟に拜拜に行く熱心な道教の信徒だったとしても、その願いは成仙ではなく現世利益であることがほとんどです。
また、道教の側でもそんな信徒のニーズに応えるべく、様々なご利益を持つ神様を取り揃えています。
世俗を捨てて虚に至り、天に昇って仙人になるのを目的としているにもかかわらず、道教では世俗そのものの現世利益も肯定します。
それは別に懐が深いわけではなく、そのほうが商売になるだけだからであって、そこらへんは日本の寺や神社とたいして変わりません。
趙公明財神になる
胡孚琛著『魏晋神仙道教』(人民出版社)によれば、漢代に中国各地で「造神運動」が起こりました。それには秦の始皇帝に神仙の実在を吹き込んだ方士の他、方士の影響を受け方士化した儒生も関わっているといいます。
そうした運動の中で、古代のアミニズムより信仰されてきたような自然神に加え、過去に功績があった人物も神として祀られるようになりました。また、商人や職人、船乗りなどがそれぞれの職業の守り神を作り、信仰したと言います。
それら道教が形作られる以前に信仰され、あるいは作られた神々は、道教の成立とともに道教に吸収されていきました。当然、船の安全を守ってほしいとか、商売がうまくいってほしいというような現世利益を願う神々もその中に入っています。だから道教には最初から現世利益肯定の側面が内包されていたわけです。
元々芸術の神だったサラスヴァティーが、仏教経由で日本に入ると銭洗弁財天などという財神の職能が付与されてしまったように、道教でもそれまでまったく関係ない職能だった神が財神にされている例があります。その最たる例が武財神趙公明です。
趙公明はもともとは瘟神として信仰されていました。
古代では疫病への対応がより深刻な問題です。『黄帝内経』や『傷寒雑病論』などを見れば、古代中国でも高度な医学があったことがわかります。しかし医療とはあくまで王侯貴族や士大夫階層など今様に言えば上級国民のためのもので、一般人は神頼みにすがるしかなかったのです。
そこで、疫病を撒き散らす日本で言う疫病神「瘟神」が考え出され、瘟神を祀ることで疫病が拡散されないように祈るようになりました。
南北朝時代の南朝梁の道士陶弘景が著した『真誥』にこんな一文があります。
趙子都冢墓 百忌害氣之神盡來屬之 能制五土之精 轉禍為福
趙子都冢墓は百の忌みと害気の神がみな祀られており、それによって五土の精を制し、禍を福に転ずるものである。
災いを為す神を祭り上げて福と転ずる試みは、何も日本の神道だけの専売特許ではありません。
それに続いてこう記されています。
員三天題其文曰 天帝告土下塚中王氣五方諸神趙公明等
員三天が趙子都冢墓についてこう記している。天帝が土の下、塚の中に祀られる五方の諸神、趙公明等に王の気を告げる。
員三天は地方の役人の名前です。
ここで言う天帝は、陶弘景が属する上清派が天帝とする太微天帝君を指すと思われます。その天帝が、塚に祀られる諸神に王者の気をもって害気をもらすなと命じたというわけです。
ただこの記述からは、五方諸神とその他の神である趙公明なのか、五方諸神である趙公明等なのかははっきりしません。
陶弘景より前代の干宝が著した志怪小説『捜神記』には、散騎侍郎の王佑なる人物が病気で死にそうなときに、趙公明配下を名乗る鬼神が迎えに来たものの、兄弟もなく今死んだら年老いた母を世話する人がいないとの訴えを聞かされ、命の猶予を与えられるというエピソードがあります。
趙公明は天帝の下でこの鬼神たちの上にたつ将軍だと書かれています。ただ、ここでは害を為す神とはされていないので、害気の神とされたのはその後のことかもしれないし、地方によってそういう設定があったのかもしれません。
とにかく趙公明は少なくとも東晋のころにはその名が記録されている神であり、干宝が作ったのかそれともその時代に実際趙公明という神様が信仰されていたのかは不明ながら、実在のモデルがいない創作されたキャラクターでした。
南北朝時代以降は趙公明は瘟神として祀られるようになります。
その立場が大きく変わるのは『封神演義』がきっかけです。
『封神演義』において殷と西岐の戦いが激化する中盤、金光聖母を倒されて攻めあぐねる聞大師がふと思い出したのが峨嵋山の羅浮洞に住む趙公明でした。
聞大師が「この人がいれば事は片付くに違いない」と言うほどの剛の者で、聞大師自らが迎えに行きます。
いきなり前線に現れた趙公明は、黒虎に乗って鞭を持ち、あわや姜子牙を討ち取るところまで迫りました。ちなみにここで言う鞭とは硬鞭のこと。金属や木の棒で作られた打撃武器です。現代日本で「ムチ」と聞いて連想される猛獣使いが持っているようなものは武器として使われません。横山光輝先生はそのことを知らず『水滸伝』で双鞭を持つ呼延灼に長く軟らかいムチを持たせてしまいました。
趙公明は陸壓道人に負けて死に至ったものの、最終的には元始天尊の特敕により金龍如意正一龍虎玄壇真君之神に封じられ、さらに招寶天尊蕭諱昇・納珍天尊曹諱寶・招財使者陳諱九公・利市仙官姚諱少司を配下として与えられています。
とはいえこの時点ではまだ財神にはなっていません。玄壇は道教の祭壇を指すので、玄壇真君は祭壇の守護者的な意味を持ちます。これは『封神演義』が成立した明代に趙公明が道教の四大護法元帥の一柱とされていたのが反映していると思われます。
問題は趙公明の配下とされた四柱の神々。招寶=宝を招く、納珍=貴重なものを納める、招財=財を招く、利市=市を利する。どれもおめでたい名前でまずこの四柱が財神にされました。
そして、この四柱の財神の上司にあたる趙公明も財神にしちゃえということになってしまったのです。
いやいや東晋から続く壮大な歴史を経てきたわりには、ずいぶんとつまらん理由で財神にされてしまったものです。
文武財神
そんなこんなで財神とされてしまった趙公明。中国ではその後なぜか回族ということになり、お供えには豚ではなく牛肉が用いられることになっているとか。
台湾ではそんな設定は聞いたことがないので、同じ神様でも国によって違いはあるものです。
台湾では財神といえば基本的に趙公明を指します。ただ、廟によっては文武の財神が祀られ、その場合趙公明は武財神です。
一方文財神は殷の帝辛=紂王の叔父・比干が当てられています。
比干は『史記』殷本紀に紂王に諫言したところ怒りを買い「聖人の心には七竅があると聞く」として解剖されて死にました。これはまあ紂王を暴虐な王として自らを正当化したい周のプロパガンダの一つでしょう。
『封神演義』での比干は、紂王が狐狸妖怪のたぐいに騙されていることに気づき、仙人に化けていた狐を殺してその毛皮を服に仕立てて、紂王に献上しました。
その毛皮が自分の眷属のものだと知った妲己は怒り、まず雉の妖怪が化けた喜媚を紂王に差し出してから病気のふりをし、喜媚に妲己の病気を治すためには玲瓏心なる特殊な心臓が必要で、それは比干のみが持つものだと言わせました。
紂王は愚かにもそのために比干を殺してしまいます。
まさか古代のプロパガンダが後の時代にこんなにも影響するとは周公旦でも予測しえなかったことでしょう。
とまあ、比干は紂王の暴虐性が強調されるほど、その暴君に直言した清廉潔白な人物だと見られるようになりました。無私で公平というイメージから、比干はまず商売の守り神として信仰されるようになったようです。
中国人は清廉潔白で公平な人物、例えば比干の他には包拯などを好むわりには、自らが清廉潔白になろうという発想がないところがどうしようもないと思います。
それはそれとして、商売の守り神となったならば、あとは儲けをもたらしてくれるということで、大雑把に財神として祀られるようになりました。
比干が財神となったのはいつのことかははっきりしません。おそらくは趙公明が財神となった後ではないかと推測されます。
そこで、武神のイメージの趙公明は武財神となり、文官だった比干は文財神とされて、文武一対の財神とされました。
台湾に中国からの移民によって財神がもたらされたのは、すでに文武財神という形ができあがってからでしょうね。
台湾ではまた、比干の死後に玉皇大帝が心臓を抜かれて死んだならば、もう心が偏ることはなく常に公平であろうとして財神として封じたという設定も作られています。
歴史的にみれば玉皇大帝が作られたのは周商革命のずっと後のことです。しかし宗教的に見れば玉皇大帝は太古よりずっと天の主催者であったという設定なので、玉皇大帝が比干を神として封じても問題ないのです。
中国では、文財神は越王勾践の軍師范蠡だという設定もあります。
范蠡は越に攻め込む呉の軍のまえに罪人を並べ、罪人たちに自ら首をはねさせて進軍を抑えたというキチガイで、謀略に長けた人物。范蠡の場合は勾践が呉王夫差を討った後他国で名を変えて大商人になったという伝説があることから財神になったようです。
台湾では文財神といえば基本的には比干のことで、范蠡バージョンは見られません。
五路財神
趙公明が財神になったのは『封神演義』で四柱のめでたい神様を配下に与えられ、後にその四柱が財神とされた影響でした。
そこから五路財神という財神の戦隊が考え出されました。道教には五文昌とか五營神將とか五恩主とか、5人人まとまりの神様戦隊がけっこうあります。
ただこの五路財神にはいくつかの組み合わせがあります。
まず、趙公明を中路財神として、招寶天尊蕭諱昇を東路財神、招財使者陳諱九公を南路財神、納珍天尊曹諱寶を西路財神、利市仙官姚諱少司を北路財神とするもの。これは『封神演義』を引き継いだ設定です。
次に、東路財神を比干、南路財神を柴王爺、西路財神を関聖帝君、北路財神を趙公明、中路財神を王亥とする設定。
柴王爺のモデルは五代後周の2代皇帝柴栄のことで、養父が皇帝に即位する前は商売で成功し、2代皇帝として即位後は国内改革を推し進め、特に農村の復興のために減税を行ったことから、死後は農民の間で財神として信仰されていたといいます。
関聖帝君は、そのモデルである関羽の出身地・山西省の塩商人たちの間で守護神として信仰され、後に商売の神様とされました。公平な人物でそろばんを発明したという伝説もあります。わざわざ伝説と言っている意味がわからない人のために付け足しておくと、現実ではそろばんを発明したのは関羽ではありません。
王亥は夏王朝の時代の商地区の君主でした。その子孫に殷を興した湯王がいるため、殷朝の始祖とされている人物です。甲骨文や『史記』にも記される人物で、もしかしたら実在したかもしれません。そもそも商人とは商に住む商の人々を指す言葉で、商の人々が商売に長けていたことから、後に商売をする人のことが商人と呼ばれるようになりました。王亥はその商人の祖なので財神とされたのでしょう。
このパターンの組み合わせは、趙公明が財神になった後に各地で信仰されていた財神を集めて戦隊にしたもので、さすがに神話的存在の王亥を入れたからには中央は王亥にゆずるしかなかったということですね。
台湾独自の五路財神
台湾では、また独自の組み合わせの五路財神も見られます。
文比財神、武明財神、季倫財神、萬山財神の四柱に、上元天官賜福大帝紫微帝君を加えたものです。
紫微大帝が財神に入れられてしまったのは福を与える神だからだと思われます。
まず文比財神は文財神比干、武明財神は武財神趙公明のこと。
季倫財神は西晋の政治家石崇。字は季倫。司馬炎を皇帝に押し上げた石苞を父に持ち、父の財産を全て受け継いだ富豪でした。
その富豪ぶりは、平安時代末か鎌倉時代はじめごろに作られたとされる『唐物語』で
昔石季倫といふ人ありけり よろづの宝に飽きて世の貧しきを知らざりけり
などとまで言われています。
死後に天界の財宝を管理する神になったということで、財神とされました。
萬山財神は、元から明代にかけて活躍した豪商の沈萬山。父親の代から貿易で財を成し、その富は国すら上回ると言われていました。
朱元璋が即位して南京を首都に定めたとき、南京建設の1/3の費用を供出させられたという伝説まであります。
善行を好み、施しをして貧民を救ったなどという逸話から財神とされたようです。
季倫財神と萬山財神については台湾で独自に財神として設定されました。紫微大帝を財神として祀るのも台湾独自のものです。
廟によっては紫微大帝を天官財神として趙公明の下に置いてしまっているところもあり、三官大帝の一柱をそこに置いてしまっていいの?と疑問を持たざるを得ません。

基隆市基隆慶安宮

新北市蘆洲保和宮






