道教の神々:北極紫微大帝

道教の廟に行くと、神話や歴史物語、『封神演義』のような道教世界が描かれる小説などに題をとった壁面彫刻を目にします。こうした壁面彫刻を壁堵、もしくは石堵と言います。

様々な壁堵の中でも出会う頻度が高いテーマが、天官大帝、つまり北極紫微大帝が福を授ける「天官賜福」です。


天官賜福の壁堵:台北市關渡宮

北極紫微大帝は正式の神名を「中天紫微北極太皇大帝」。

玉皇大帝直下にあって天帝を補佐する四御の一柱であり、かつ三官大帝の一柱・天官大帝でもあります。天官大帝としての正式の神名は「上元一品九炁賜福天官曜靈元陽大帝紫微帝君」です。

つまりは玉皇大帝に次ぐとても偉い神様で、福を与える福の神としても広く信仰されています。

天帝が住む紫微垣

古代中国は天文学の研究が非常に盛んでした。

現存する中では最古の中国伝統医学の書『黄帝内経』に曰く

上知天文 下知地理 中知人事 可以長久

上に天文を知り、下に地理を知り、中に人事を知れば久しく長らえるであろう。

天文学が盛んになったのは、天の運行が人間界とリンクしていると考える「天人相応」の思想から、国の命運を推し量るためでした。

日本神話の岩戸隠れは、一説には卑弥呼治世の西暦247年に起きた皆既日食と、それに伴う女王交代劇が神話化したものだといいます。弥生時代の日本人は、日食が単なる太陽と月の配置による天文現象だということを知らず「おひさまが消えちまっただー日の巫女の力が衰えたせいだー!」とパニックに陥り、日の巫女である卑弥呼を殺して、壹與だか臺與だかを立てたというわけですね。

西暦247年に日食が起きたのは、現代では遡って計算することができるとかで事実です。この日食は『三国志』魏書斉王紀に

八年春二月朔 日有蝕之

と記されています。八年というのは魏の正始8年。つまり西暦247年です。

日本ではもしかしたら神話の元ネタになったかもしれない日食は、中国では普通に観測されて普通に記録されていたことがわかります。中国ではこのころすでに日食を予測する技術もできていたので、邪馬台国では女王の弑逆が起こるほど大騒ぎだった日食が起きても「あ、日食だね」程度のことだったのかもしれません。知識と教育って大切ね。

さてそんな天の運行を観察するのに熱心だった中国では、当然のことながら夜空の星々もよく観察されていました。

まず、古代中国では星座のことを星官と呼びました。地球上から見た太陽が1年かけて通るルートを黄道といい、黄道に並ぶ星々を28種類の星官に分けました。これを二十八宿と言います。二十八宿は7つずつ4つに分けられ、青龍、朱雀、白虎、玄武の天の四象となりますがそれはここでは別の話なので省きます。

二十八宿に囲まれた中央の部分には、北極星を中心として紫微垣、太微垣、天市垣のエリアが作られました。この3つのエリアを三垣と言います。

これらの三垣二十八宿は本来天体の座標を把握するためのものでしたが、次第に宗教的な脚色もされるようになっていきました。

特に北極星を含む紫微垣は天の中心で、天帝が住む宮殿があると考えられるようになりました。そのため紫微垣を紫微宮とも呼びます。『淮南子』天文訓には

紫宮者 太一之居也

とあります。

紫微垣は天帝が住むところ

天の中心紫微垣を統べる神として作られたのが紫微大帝です。

紫微垣を神格化した紫微大帝という神様がいつ作られたのかはっきりしません。

ただ、道教が道教として形成されだした魏晋南北朝のころには、すでに紫微大帝につながる神格は作られていたようです。

東晋のころに作られたと考えられている、『上清大洞真経』に「玉清紫微帝君」が記されています。

とはいえ、『上清大洞真経』は自身の体内の各所に神をイメージする「存思法」を説いた経典ですから、これは体内にイメージする神であって、現在の信仰対象となっている神とは違います。

『上清大洞真経』より後に作られた陶弘景の『真霊位業図』には「左聖紫晨太微天帝道君」という『上清大洞真経』に記される「太微帝君」を採用されたと思われる神が記されているものの、紫微大帝、もしくは紫微帝君の名は見られません。

陶弘景、あるいは当時の上清派道教では天帝は太微帝君で、元始天尊は天帝のさらに上に存在する神であるという認識だったかもしれません。

では道教から離れるとどうだったか?

唐代に太宗が作らせた『晋書』天文志の中宮の項にこうあります。

紫宮垣十五星其西蕃七東蕃八在北斗北 一曰紫微 大帝之坐也 天子之常居也

紫宮垣には西蕃に7つ、東蕃に8つの15の星があり、北斗の北にある。紫微とも言って大帝が座しており、天子が常におられる。

この部分は「一曰紫微大帝之坐也」とくっつけて紫微大帝が座すとも言うととることも可能かもしれないけれど、それだと文章的にも文脈的にもおかしい気がするので、はやりここでは紫微大帝という神名があったのではなく、紫宮の別名が紫微で、そこに大帝が住んでいると読むほうが自然だと思います。ただし、この記述から「紫微大帝」という神名が作られた可能性はあるかもしれません。

中宮の項には他に

鉤陳口中一星曰天皇大帝

とあるので、紫微にいる大帝とは天皇大帝のことだと思われます。ちなみに天皇大帝は日本の天皇号の元ネタ候補の一つです。天の皇大帝ですから天帝だと見られていてもおかしくありません。

『真霊位業図』では左聖紫晨太微天帝道君、『晋書』では天皇大帝が天帝と認識されていたことにより、紫微垣はあくまで天帝が住む宮殿とされていて、すでに天帝の役目を持つ神が設定されてるのだから紫微垣の神を置く必要がなかったということなのかもしれません。

『上清大洞真経』に登場した「玉清紫微帝君」は、作られてからしばらくは注目されなかったか、あるいは天帝が住む宮殿に別の神はいらんだろうとスルーされていたのか、とにかく道教信仰の中で紫微垣の神として紫微大帝が設定されるのは唐以降まで待たねばなりませんでした。

天帝を補佐する四御になるまで

唐から宋に至るまでの間に作られたといわれる『玉清無上靈寶自然北斗本生真經』に紫微大帝の神名が見られます。

在昔龍漢有一國王其名周御 聖德无邊時人稟受八萬四千大劫 王有玉妃明哲慈慧號曰紫光夫人 誓塵劫中已發至願願生聖子輔佐乾坤以裨造化
後三千劫 於此王出世 因上春日百花榮茂之時 遊戲後苑至金蓮花溫玉池邊 脫服澡盥忽有所感蓮花九包應時開發化生九子 其二長子是為天皇大帝紫微大帝

龍漢の時代に周御という国王がいた。その聖徳は無辺で、国民は8万4千大劫にわたってその徳に浴した。王には王妃がいた。明哲で慈悲と知恵を持ち、紫光夫人と号した。紫光夫人は塵劫の中で乾坤の補佐となる聖子を生み、卑しき身分から神を造化する請願を立てていた。
三千劫の後、王が現れた。春に百花が生い茂るころ、紫光夫人が後苑の金蓮花温玉池のほとりに遊んだ時、服を脱いで沐浴をしていると突然蓮花の9包に感応して9人の子を生んだ。その次男と長男が天皇大帝と紫微大帝である。

そして天皇大帝と紫微大帝の2帝は紫微垣の太虚宮にある勾陳の位に住むとされました。

龍漢は元始天尊を作り出した南方道教の霊宝経典群で元始天尊治世下の年号として設定された架空の時代です。

唐から宋というと間に半世紀の五代十国をはさみますから、けっこう長い期間です。この経典ではまだ元始天尊を最上の神としているため、晩唐以降、玉皇大帝が天帝に据えられる以前の北宋初期までの間に作られたと考えていいと思います。

これ以降、紫微大帝は一柱の道教の神として信仰されるようになりました。

たぶん北宋のころに作られただろうという『無上九霄玉清大梵紫微玄都雷霆玉經』には紫微大帝が天帝だと記されています。これは「道君皇帝」を自称した唐玄宗以上の道教オタ徽宗が信仰した神霄派道教の経典だと考えられています。

まずこの経典では元始天尊の第9子に「高上神霄玉清真王長生大帝」がいるとします。長生大帝は別名南極仙翁。福禄寿の寿星です。別の経典では元始天尊の長男だともされています。

その長生大帝がこう言います。

大帝曰 吾為高上神霄玉清真王長生大帝 其次則有東極青華大帝 九天應元雷聲普化天尊 九天雷祖大帝 上清紫微碧玉宮太乙大天帝

長生大帝が言った。我は高上神霄玉清真王長生大帝である。その次席は東極青華大帝、九天応元雷声普化天尊、九天雷祖大帝、上清紫微碧玉宮太乙大天帝である。

どうもここでの紫微大帝は、太乙真人と混じった設定のようです。「大天帝」などと付けられているわりには、長生大帝の下に置かれています。ここでは長生大帝は元始天尊の第9子という設定なので、当然長生大帝の上にはさらに元始天尊がいます。イメージとしてはCEOが元始天尊、社長が長生大帝で、紫微大帝はその下の本社役員かつ傘下の紫微垣の社長って感じでしょうか。

『紫微玄都雷霆玉經』ではこうも述べます。

大帝曰 北極紫微大帝統臨三界掌握五雷 天蓬君 天猷君 翊聖君 玄武君分司領治

長生大帝は言った。北極紫微大帝は天界、地界、水界の三界を統治し五雷を掌握する。天蓬君、天猷君、翊聖君、玄武君にその統治権を分けている。

天蓬君、天猷君、翊聖君、玄武君は後に天蓬大元帥、天猷副元帥、翊聖真君、祐聖真君とちょっと神名が盛られて、紫微大帝を守護する「北極四聖」となっています。

南宋のころに作られたという『上清霊宝大法』ではまた違った地位に置かれています。

北極大帝 則紫微垣中有帝座是也 按天文志 南極入地三十六度北極出地三十六度 天形倚側半出地上半環地中 萬星萬?悉皆左旋 南極北極為之樞紐惟此不動故天得以轉也
世人望之在北 而實居中天為萬星之宗主 三界之亞君 次於昊天 上應元? 是為北極紫微大帝

北極大帝は紫微垣の中に帝王の座を持つ。『天文志』によると、南極は地に入ること36度、北極は地から出ること36度。天は傾いて半分は地上、半分は地中にある。万星万気はことごとく皆左に旋回するが、それは南極と北極が軸となって不動ゆえに天が回転できるからである。
世人が北を望み、その中天にあるのが万星の宗主、三界の準君主、昊天上帝に次ぎ、上に元気に通じる。これを北極紫微大帝と為す。

『上清霊宝大法』では元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三清を上位に置きます。南宋にはすでに玉皇大帝の信仰が高まって、天帝の位についているはずですが、この経典には不思議と玉皇大帝の名前はありません。ただし、北宋末に徽宗が玉皇大帝を「太上開天執符御?含真體道昊天玉皇上帝」に封じ、本来別の神格だった昊天上帝と玉皇大帝が混同されてしまったので、南宋の時点では昊天上帝=玉皇大帝として書いてある可能性はあります。

三清の次に昊天上帝、次に太一救苦天尊、6番目の神として北極紫微大帝が挙げられています。

同じく南宋に作られた『無上黃籙大齋立成儀』には、

量事為之正奏三清 玉帝 勾陳 紫微 后土

事をはかるに三清、玉皇大帝、勾陳大帝、紫微大帝、后土娘娘に奏上する。

と四御とは記されていないものの、玉皇大帝、勾陳大帝、紫微大帝、后土娘娘という三清の補佐をする四御の神々が記されています。

おそらく北宋が立つか立たないかぐらいのころに紫微大帝の道教の中での地位が高まり、北宋から南宋にかけての間に三清に準じる四御の中に入れられたのだろうと思います。

紫微大帝の追加設定

紫微大帝は紫微垣を統べる四御の一柱という基本設定以外に、三官大帝の一柱の天官賜福大帝、斗母元君の息子、そして地府を支配する?都大帝を化身として持つという追加設定も持ちます。

まず、元代に作られたという『道法會元』ではいろいろ設定が盛られました。

例えば天罡生煞大法にある「祖師北極天罡大聖萬真節度紫庭真人威光上帝」もおそらくは紫微大帝の化身の一つだと思われます。その姿は

仰啟天罡大聖者 上司天令顯威神 化現巍峨萬丈身 九目三頭分六臂

仰いで天罡大聖者に申し上げる。上は天令顯威を司る神であり、化して万丈の偉大な姿を表し、目は9つで三頭六臂

三頭六臂は哪吒も変身する戦闘フォームでその由来は仏教にあります。これは摩利支天が道教に取り入れられた斗母元君の息子とされたことにも影響されていると思われます。

斗母元君の息子

斗母元君は、仏教の天部に属する摩利支天を道教がパクった神です。摩利支天は日月の光を神格化した神で、斗母元君もその設定を受け継いで左右の手に日月の光を掲げますす。

摩利支天は三面六臂、あるいは三面八臂の神です。摩利支天が斗母元君として道教に取り入れられてからもその設定は受け継がれ、斗母元君も三面六臂か三面八臂になっています。


斗母元君:台中市順天宮輔順将軍廟

中国に入ってきた摩利支天が斗母元君という道教の神になったのは、おそらく南宋から元にかけてのころだと考えられています。そのころ作られた『太上玄靈鬥姆大聖元君本命延生心經』では太上老君が長々と斗母元君がどんな神かを紹介する中、こう言います。

生諸天眾月之明 為北斗眾星之母

諸天衆月の明を生み、北斗衆星の母となる。

そしてこうも言います。

是九章生神 應現九皇道體 一曰天皇 二曰紫微 三曰貪狼 四曰巨門 五曰祿存 六曰文曲 七曰廉貞 八曰武曲 九曰破軍

九章にわたって神気を生み、それに応じて9皇の道体が現れた。顯現した道体の1は天皇大帝、2は紫微大帝、3は貪狼星、4は巨門星、5は禄存星、6は文曲星、7は廉貞星、8は武曲星、9は破軍星である。

九章はおそらく19年を1章とする古代の単位で、その解釈が正しいなら171年になります。

『玉清無上靈寶自然北斗本生真經』では周御王の王妃紫光夫人が母だったのが、ここで斗母元君が母となり、以降はその設定が主流です。

北陰酆都大帝フォーム

紫微大帝の化身とされる神として、地府の支配者北陰酆都大帝フォームがあります(ただし現在の道教の設定では地府の支配者は東嶽大帝で酆都大帝はその配下)。


酆都大帝:台南市東嶽殿

『道法會元』の「北陰酆都太玄制魔黑律靈書」の項にこう語られます。

昔北極紫微玉虛帝君 居紫微垣中為萬象宗師 眾星所拱為萬法金仙之帝主 上朝金闕下領酆都
起於龍漢元年 有北陰酆都六洞鬼兵神靈魔王遊行人世殺害生靈 莫能制御玉帝召北帝統率神將吏兵 演大魔黑律 行酆都九泉號令符 紏察三界鬼神印 降伏魔群驅蕩妖氛救護黎庶 功成行滿昇入北極中天自然總極紫微大帝之位

昔北極紫微大玉虚帝君は紫微垣の中に住んで万象の宗師となり、星たちが礼拝する万法金仙の帝主として上は天界の金闕宮を拝し、下は地府の酆都を領有していた。
龍漢元年、北陰酆都の六洞鬼兵と神霊魔王が人間界を襲って命を奪った。それを抑えられなかった玉皇大帝は北帝を召し出し神将神兵を率いらせ、大魔黒律を演じ、酆都九泉號令符を行い、紏察三界鬼神印をもって魔物を降伏させ、妖気を駆逐して人々を救わせた。その功が満ちたので北極中天自然總極紫微大帝の位に昇級した。

北陰酆都の六洞鬼兵云々は、唐の末から宋になるぐらいまでに作られた『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙經』にあるストーリーです。しかしこの経典に出てくるのは「太陰水帝北陰天君」で、北帝に魔物討伐を依頼するのは元始天尊です。この経典では?都を「北極酆都羅山」としています。しかしこの北極は天の北極星ではなく北の極みという意味です。

天界正北方過此太溟無鞅里數窮 北方之極有一世界名曰五氣玄天洞陰朔單欝絶之國中有帝君名曰太陰五靈玄老黑帝靈君

天界の真北、ここから太溟を過ぎ限りない距離が窮まった所、北方の極みに五氣玄天洞陰朔單欝絶之國があり、そこに太陰五靈玄老黑帝靈君という帝王がいる

天界の真北とは言っても宇宙ではなく、ニュアンスとしてはあくまで地上の北のどん詰まりと受け取れます。

また北帝のセリフとしてこうあります。

北帝曰北極殿上有高上玉皇紫微帝君仙都

北帝は言った。北極殿の上に高上玉皇紫微帝君の仙都がある。

ここから、北帝と紫微大帝は別の神格として意識されていたのだと思われます。

ただ『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙經』の〆には、この経典を誦読するときは祭壇を清めて紫微大帝の図案を掲げなさいと書いてあり、北帝と紫微大帝の繋がりも匂わせています。

おそらく太陰水帝北陰天君が北帝と略されたことで、北極紫微大帝の略称だと勘違いされて混同されたのだと思います。道教の神では例えば元始天尊と元始天王、南斗星君と南極仙翁など別の神格なのに名前が似ているせいで混同されてしまっている例があります。

でまあ結局どういう扱いになったんかいなというと、上に挙げた「北陰酆都太玄制魔黑律靈書」に書いてあります。

北帝制伏群魔 行九泉號令符 紏察鬼神印及制黑律 命御史魏伯賢掌之領酆都官將 北帝即紫微大帝之分化也

北帝は魔物の群れを成敗し、九泉號令符、紏察鬼神印、制黑律の法を行って御史の魏伯賢に命じ酆都の官将を掌中におさめた。北帝とはすなわち紫微大帝の化身である。

まあ、マハーカーラを訳した大黒が、音読みの音が同じだからとダジャレで大国主命と同一神にされたっていうのよりはまだ紫微大帝のアバターだと設定されたほうがましではないかと思います。

天官賜福大帝

三官大帝は、1月15日の上元を誕生日とする上元大帝、7月15日の中元を誕生日とする中元大帝、10月15日の下元を誕生日とする下元大帝よりなり、現代の道教では上元大帝が天を司る天官、中元大帝が地を統べる地官、下元大帝が水を統べる水官として四御に次ぐ地位になっています。


三官大帝:新北市板橋慈恵宮

そのうち上元の天官賜福大帝は紫微大帝だということになっています。つまり紫微大帝は四御でもあり三官大帝でもあります。

三官大帝については別の記事を作る予定なので、詳しい解説はそちらに譲りますが、大雑把に言えば「三官の神」はすでに五斗米道によって祀られており、南北朝のころには三元と結びついていました。

問題は、紫微大帝がいつその三官大帝の中に組み込まれたかです。

すでに述べたように、道教の中で紫微大帝が広く信仰されるようになったのはおそらく宋代からで、そのころにはすでに三官大帝に組み入れられていたと思われます。

多分宋代に作られたんじゃないかなと言われている『太上說玄天大聖真武本傳神呪妙經』にこう記されています。

因緣經云正月十五日上元宮主品加羅賜福天官紫微大帝於是日分遣十天雷管神伸兵馬上聖高真妙行真入無鞅數眾同下人間校定罪福也

因縁経には正月15日に上元宮の主である賜福天官紫微大帝が十天の雷管と神の兵馬を派遣し、上聖高真と妙行真人が無数の仙人とともに人の世に降りて罪と福を定める。

この因縁経とは南北朝から隋の間に作られたと考えられている『太上洞玄靈寶業報因緣經』のことと思われます。

ただし『太上洞玄靈寶業報因緣經』では

正月十五日為上元 十天靈官神仙兵馬與無鞅數眾 上聖高尊妙行真人同下人間考定罪福

正月15日を上元とする。十天の霊官、神兵兵馬と無数の仙人、上聖高尊、妙行真人がともに人の世に降りて罪と福を定める。

となっており、紫微大帝の名前はないので「賜福天官紫微大帝」は『太上說玄天大聖真武本傳神呪妙經』か、その同時代に作られたものでしょう。

ではなんで紫微大帝が上元天官に選ばれたのかというと、これがまったくわかりません。単に天の中心である紫微宮の神だから天官担当ねってなったのでしょうか?

宋から元の間ぐらいにできた『新編連相搜神広記』には「三元大帝」の項があり、そこで上元大帝は

上元一品九氣天官紫微大帝 即延生之符始陽之氣結成至真 處玄都元陽七寶紫微上宮總主 上宮諸天帝主 上聖高真參羅萬家星君

上元一品九気天官紫微大帝は、延生之符により始陽の気が結ばれ真に至って成ったもので、玄都に住み、元陽七宝紫微上宮の総主にして上宮の諸天帝の主であり、上聖高真參羅萬家の星君である

と説明されています。延生之符は『新編連相搜神広記』に増補した『三教源流捜神大全』では誕生之符になっています。誕生之符によって気が結ばれて誕生したという方が合っている気がします。

「諸天帝の主」とあるので、天帝は複数存在し、紫微大帝もその一柱で、それら天帝の一番えらい神になっています。元ぐらいになるといろんな系統の神が混ざり合い、天帝の資格がある神が複数いたためこうした設定にされたのかもしれません。

しかし、それでは天宮の皇帝である玉皇大帝も紫微大帝の下につくことになってしまわないか?

ということで玉皇上帝の項を見てみると、宋の真宗が天禧元年の正月に太初殿を詣でて「玉皇大天帝」の聖号を差し上げたと書いてあります。これは事実で、真宗は玉皇大帝を「太上開天執符御曆含真體道玉皇大天帝」に封じています。

つまり、玉皇大帝は「大天帝」なので「諸天帝」より偉いし諸天帝の主である紫微大帝より偉いんだぞということだと思うのですよね。発想が小学生男子だ。嫌いじゃない。

とまあ、紫微大帝は紆余曲折を経てノーマル天帝の主の地位に登りつめたけれど、やはり一番偉い地位にはしてもらえませんでした。

道教の神々

Posted by 森 玄通