道教に取り入れられた輪廻転生システム

現在の日本のラノベや漫画、アニメで大きな勢力を誇っているのが異世界ものと呼ばれる作品群です。これは「小説家になろう」という誰でも小説を投稿できるサイトで異世界をテーマにした作品が量産されたのがきっかけになっています。
多くの異世界ものの作品で、主人公は現代日本から転移、もしくは転生します。転移はその本人のまま異世界に行く、転生は死後に異世界に生まれ変わるという違いがあります。
転移や転生がからまない昔ながらの異世界ファンタジーや、同じ世界の中での転生が行われる作品もあるけれど、日本から転移・転生する作品に比べれば少数です。それだけ、現代日本からどこか都合のいい世界に逃げ出したい願望が強くなっているのかもしれません。
転移はともかく、または異世界はともかく、転生は別に近年作られた概念ではありません。紀元前のインドで生まれた概念で、この概念があるからこそ仏教も誕生しました。
そして転生は仏教経由で道教にも取り入れられて独自の発展をしています。
輪廻転生とは
「転生」の思想は大雑把にわけて3つの類型があります。
まずアニメなどのフィクションに見られる「ご都合型」。主人公が事故や病気で死を迎え、非常に都合がいい立場、姿に転生するというものです。それは異世界の貴族だったり、スライムだったり、インテリジェンスソードだったりと、とにかく主人公にとって都合がいい姿に生まれ変わります。あまり都合がよくない低い身分に転生するような作品もありますが、結局王族だったり魔法の天才だったりするのでご都合型に入れていいでしょう。日本の蜘蛛が異世界の蜘蛛のモンスターに転生するやつはまた別口です。
リインカーネーション。19世紀頃にフランスで提唱された転生思想です。人間は死後に再び人間に転生し、その過程で魂が成長していくというもので、日本のフィクションで使われる「ご都合型」転生の雛形とも言えます。ただ、日本のフィクションの場合は必ずしも人間に転生するわけではないのでこれと分けました。
最後に輪廻転生。紀元前のインドで生まれた最も古い転生の思想です。人間は生前の行いによって死後どこに転生するかが決まり、ひたすらぐるぐると転生を繰り返していくといいます。お釈迦様は人が老いたり、病気になったり、死を迎えることを苦しみだと捉えました。そして、それは転生を繰り返す限りずっと続いていく。つまり生まれることが苦の根本だとして、生老病死が繰り返される輪廻から逃れる教えを説きました。これが後に仏教となります。
仏教ではその転生先として天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道を設定しました。天道が一番イージーモードで、以下だんだんハードモードになっていきます。ただ、天道に転生しても結局輪廻の中にある以上はやがて衰え死を迎えてまた輪廻することからは免れ得ないので、生前にいいことをして天道に生まれるならいいじゃないかとはなりません。生まれ続ける限りは苦しみから逃れられず、そこから逃れるためには悟りを得て解脱するしかない。その解脱に至った人が仏陀です。
アニメのご都合型や西洋のリインカーネーションとは異なり、仏教では転生自体を否定的に捉えています。
道教への転生思想の流入
道教は中国で生まれた宗教ですが、純粋な中国文化のみで形成されているわけではありません。それこそ仙人が住んでいるような深山でもなければ、人がいるところ常に外界との交流が生まれ、文化の衝突や融合が行われるのは当然のことです。
道教は中国という一つの大雑把な枠組みができる以前から存在した様々な信仰、思想が混ざり合い作られていった宗教です。神仙思想や陰陽五行説、老荘思想、方士のまじないや占い、古い土着信仰、養生法や医学まで、よく言えばおおらかに、悪く言えば無節操に取り入れてできています。だからこそ、深く知れば知るほど「道教とはこういうものだ」と明確に言いきれなくなります。もしそこを明確に定義する人がいたとしたら、それは浅学ゆえとはっきり言ってしまっていいと思います。
仏教は道教が形成される以前から中国に伝わっていました。伝来初期の仏教は中国では浮屠教と呼ばれます。浮屠はブッダの当て字ですが、文字のチョイスに悪意が感じられます。後に佛陀(仏陀)という字に直され、仏陀教が省略されて仏教と呼ばれるようになりました。
道教の、というより中国古来の死生観に転生という概念はありません。死んだ人間は魂と魄が分かれ、魂が天に登り、魄が地に降りていっていずれ消滅するとか、死んだ人間は泰山にある入口から地府に降りていくなどのように考えられていました。前者は儒教が、後者は道教が受け継いでいます。
魂魄が天地に分かれる方の死生観では、魂を位牌に閉じ込め、魄が体に留まるように玉で覆い、子孫が祭祀を続ければいずれ魂魄が再び結びついて死者が復活するという信仰が生まれました。この信仰が儒教の根本で、だから孔丘は子孫の祭祀が絶やされないために社会が安定しなければならないとしたわけです。でもこれは死者本人が甦るという信仰であって、別人や別の生き物に生まれ変わる転生とは違います。
儒教が甦りに期待したのに対して、道教、もしくはその中核思想である神仙思想では、生身の人間が不老長生となり仙人になることで死から逃れようとしました。後に死んだ(と見せかけた)人間が仙人となって天に登る尸解仙も考えられたとはいえ、道教が目指すのはやはり生身のままで仙人になる道です。
では、死んだら別のなにかに生まれ変わる転生はいつごろ道教に取り入れられたのでしょうか?
まず、漢の末に作られただろうと言われている『老子変化経』に、老子は神話の時代からそれぞれの帝王の前に名前を変えて現れたと説かれています。ただこれは神がその姿を変えて地上に降臨したというもので、転生とは少し違うもののように思えます。どちらかといえば、お釈迦様がガウタマ・シッダールタとして成仏する以前の過去生でも様々な功徳を積んできたという物語のパクりです。
明確に仏教からの影響で転生を取り入れたのは、おそらく道教の黎明期である晋から南北朝期ぐらいだと考えられます。その時期に成立した道教経典に『太上元始天尊說北帝伏魔神咒妙經』があります(ただし唐代に成立という説もあり)。地上の人間が邪教を信じ、そのため六天鬼神という魔王とそれに連なる陰魔邪鬼が力を得て暴れ出した。それを後に酆都北陰大帝となる太陰水帝北陰天君が鎮めるという内容です。ストーリー的にはラノベっぽいですが、魔鬼や瘟疫を避ける呪文が多く記された符籙派の要素が強く、また一部存思法と思える要素も含まれています。
その『北帝伏魔神咒妙經』は、明らかに「佛説~」という大乗経典の構成をパクっており、その時点で仏教の影響が強いことがわかります。そして経典中には「三界轉輪」「輪廻五道」と輪廻を表す文言が見られます。「三界轉輪」は欲界、色界、無色界の三界を輪廻転生すること。「三界」には他に天界、人界、地界の分類もありますが、ここは仏教的な「三界」をそのまま使っていると見ていいと思います。「輪廻五道」はそのままの意味で、五道は六道のうち修羅道が地獄道に合併されているバージョンです。
つまり早ければ晋代、遅くとも唐代には道教は輪廻転生を取り入れていたことになります。
さらに、唐代末期ごろに中国で『地藏菩薩發心因緣十王經』が作られました。これは中国仏教が作った偽経で、ここに阿弥陀如来のアバターとして「五道転輪王」が登場します。五道転輪王は地獄の裁判所を司る十王の一柱で、他の9柱の王による裁判と刑罰を経た魂が次に五道(六道)のどこに転生するのか決める役割を持ちます。
この十王の設定も道教は丸パクリして、「十殿閻羅」という地獄の裁判官が作られました。裁判官といっても死者の裁判をするだけでなく、罪がある魂への刑罰も執行します。
道教の「十殿閻羅」の中では五道転輪王は転輪王と呼ばれています。実はインド神話にも転輪王という概念があり、仏教にも取り入れられています。しかしそのインドの転輪王には死者の魂の転生先を決めるという能力はなく、中国で作られた転輪王とは別物です。
中国仏教の五道転輪王は、その名の通り五道のどこに転生をするのか決める役です。それに対し、道教の転輪王は罪に応じて何に転生をさせるかを決めるようです。転輪王のところにまわってくるのは罪人の魂だから、次は基本畜生道でいいんじゃね?というノリかもしれません。

新北市石門金剛宮
道教では記憶消去係がいる
巷にあふれる異世界転生もの。その共通設定とも言えるのが前世の記憶を保っている、あるいは成長途中で思い出すというものです。
前世の生涯に悔恨の念を持ち、よりよい人生を目指す『無職転生』。一国の王女に転生しながら、自分が本来の人格を乗っ取った偽物なのではないかと怖れを抱いて本来の自分を押さえつけて生きる『転生王女と天才令嬢の魔法革命』など前世の記憶をどう扱うかは作品によってそれぞれですが、中世欧州風のファンタジー世界で現代日本の知識で無双するような作品より、前世の記憶を持ちながらも転生先でもがいて奮闘する作品のほうが好きです。
『最果てのパラディン』のように「転生設定いらなくね?」と思える作品もなくはないけれど、どんな形であれ前世の記憶があることが異世界転生ものを名乗る上での最低限の条件だと言えるでしょう。
フィクションのみならず、現実世界にも前世の記憶を持っていると称する人がいます。本人が知りようがない異国の言葉を話したり、行ったことがない場所の記憶をたよりに探してみると実際その場所があったりといったことがあるようです。嘘か真か私には断定できません。
ところが、道教の地獄に堕ちた人にはそういうことは起こりません。なぜなら、転生の手続きで記憶を消去する係がいるからです。
転生前の記憶消去係を「孟婆」といいます。
孟婆は転輪王によって次の生が決まった魂に「孟婆湯」なるスープを飲ませて前世の記憶を消し去り、次の生へ向かわせます。
こうした設定ができたのは清代だと考えられるので、唐代には取り入れられていた輪廻転生の設定の中ではかなり後発ということになります。
孟婆の名前自体は明代に作られた『南海觀世音菩薩出身修行傳』に見られます。これは仏教の経典というよりは、西域の妙善という王女が修行を経て観世音菩薩になるという筋立てのラノベです。
ちょっと脱線すると、観世音菩薩は本来男性でした。これは国立博物館に収蔵される各種観世音菩薩像から見てもあきらかです。

こちらは国立博物館収蔵の「観音菩薩立像」。カンボジアのアンコール・トムにあったもののようです。明らかに男性の体をしています。
観世音菩薩が女体化するのは中国でのことです。しかし、実は中国にも男性として伝わっていたようです。

同じく国立博物館収蔵の「十一面観音龕」。8世紀の唐代に中国で作られたものです。こちらも体は男性のもの。
それが女性のイメージとなったのは、観音信仰と媽祖信仰が習合した結果だと言われます。日本でも観世音菩薩がなんとなく女性のイメージになっているのはその影響です。
で、『南海觀世音菩薩出身修行傳』にこのような一節があります。
十王曰 既然如此 今公主地府皆已游過 可著二十四對幢幡送公主過奈何橋 引到密松林屍所 著他還魂 往升上界 閻君與六曹俱在孟婆亭作別而去
十王が言った「そういうことなら、王女は地府を全てめぐられたことになる。ならば24対ののぼりを立てて王女を奈何橋に送り、密松林屍所に引き渡して魂を還し、上の世界に登らせよう」閻羅王と六曹はともに孟婆亭で別れを告げて去っていった。
ここに出てくるのは孟婆亭という場所の名前です。この一文から、地府に奈何橋という橋があり、そこを過ぎると地府の上だから人界とか天界に転生するという民間信仰があったことがわかります。そこに孟婆亭という場所があるという設定です。しかしそこで記憶を奪われるシーンはありません。
地府から戻って目を覚ました妙善はこうつぶやきます。
我記得先在地府無所不聞無所不見
さっき地府のことを聞き尽くし、見尽くしたことを覚えてるわ。
妙善が地府での見聞を覚えていることを意外そうにしているということは、その時代すでに地府から転生すると記憶を失うと考えられていたからだと推察されます。その上で、妙善が地府から戻ったのは転生ではなく、後に観世音菩薩になる特別な存在だから記憶が保たれていたということなのでしょう。ただ、直接的な孟婆の関与がないので明代にその設定が明確にあったかはわかりません。
それより時代が下って清代に著された『吳下諺聯』に「孟婆湯」の記述があります。
人死去第一處是孟婆莊 諸役卒押從牆外經過赴內案完結
生前功過 注入輪回冊內 轉世投胎 仍從此莊行過
有老嫗留進 升階入室 皆朱欄石砌 畫棟雕梁 珠簾半卷 玉案中陳
嫗呼女孩 屏內步出三姝 孟姜孟庸孟戈 皆紅裙翠袖 妙常筓金縷衣 低喚郎君拂席令之坐
小鬟端茶三姝纖指捧甌送至 手鐶丁丁然 香氣襲人 勢難袖手
才接杯便目眩神移 消渴殊甚 不覺一飲而盡
到底有渾泥一匙許 抬眼看時 嫗及三姝皆殭立骷髏 華屋雕牆 多變成荒郊
生前事一切不能記憶 一驚墮地即是懵懂小孩矣
此茶即孟婆湯 一名泥渾湯又名迷魂湯
人が死んで最初に行くのが孟婆荘である。服役する者たちは壁の外から中に入れられ裁判が終わる。
生前の功過によって輪廻の中に封じられ、転生するのもこの孟婆荘を過ぎて行われる。
老女が進み入り、階段を登って入室する。朱の手すりに石の段。部屋中に彫刻がほどこされた梁がわたされ、玉の簾は半分まかれて玉のテーブルが中に並ぶ。
老女が娘を呼ぶと3人の娘、孟姜、孟庸、孟戈が入ってくる。3人とも赤いスカートに翡翠色の袖、妙なるかんざしに金糸の服を着て、部屋の客に低く挨拶してから席を通り過ぎる。
召使が茶を運んでくると、3人の娘は細指で器を捧げ持ってくる。ブレスレットがチンチンと鳴り、香りに襲われて、手を伸ばさずにはいられない。
一杯飲むと目がくらくらして頭がぼぅっとなり、渇きが消えて思わず飲み尽くしてしまう。
どれだけまどろんだろうか、顔を上げて見ると、老女と娘たちは硬い髑髏になっており、華やかな部屋や彫刻の壁は荒れ果てている。
生前の一切を覚えておらず、何もわからない子どものようで驚いてしまう。
この茶こそ孟婆湯、またの名を渾湯、迷魂湯である。
これはおそらく民間説話の一つです。閻羅王の十殿でなく孟婆荘という家に連れて行かれて裁判が行われ、生前の行いによって転生先が決められる。
その後茶をもてなされ、飲むと記憶がなくなってしまうという筋立て。孟姓の娘のお母さんだからおばあさんが孟婆ということになります。
おそらくは清代に転生の前に孟婆湯を飲まされて記憶が消えるという話が作られた。それが道教の中にも取り入れられたのだと思います。
罪人以外がどうなるかわからない
仏教では人が死ぬと必ず転生すると考えます。転生しないのは輪廻から解脱した仏陀だけです。死んでから転生するまでの期間が49日で、仏教の四十九日法要とは本来転生して別の存在になる故人との最後のお別れです。だから1周忌だの3周忌だのというのは仏教ではありえないことで、これは日本でただの営利団体に成り下がっている寺という業者が遺族から金をむしりとるための詐欺行為でしかありません。
では道教ではどうか?これがよくわからない。
地府に落ちた死者の魂は十王による裁きを受け、生前罪があった者は罪に応じた罰を受けてから転輪王に転生先を決められます。でも罪がなかった魂がどうなるのかがはっきりしてません。
日本の民間信仰では、閻魔大王の裁きを受けて罪があれば地獄、罪がなければ天国に行くという適当な設定があります。しかし、道教では天界は神仙の世界です。天界に住むのは、最初から神だった神、地上で信仰されて神になった元人間、修行によって成仙した仙人などです。後に神と仙人が混同されて、地上での成仙を経て神となるというパターンも作られました。いずれにしても、単に罪が無いというだけの一般の魂は天界には行けません。
儒教系の死者の魂は天に昇るという信仰でも、魂は天に昇って消滅するのであって、天界に行くのではありません。
道教経典ではありませんが、清代に作られた『聊斎志異』には、死者が地府に行ったものの何らかの儀式などを経て地上に帰ってくるようなエピソードがいくつか見られます。つまり死者は単に魂となって地府に移り住むだけというような認識があったのかもしれません。中国の民間信仰は道教と不可分のものですから、これは道教の認識と大きな乖離があったとは思えないです。
輪廻転生が根本にある仏教とは異なり、道教では転生は勧善の教えとして利用された可能性もあります。道教は張魯の五斗米道の時代から行いを正しくすることを説きました。転生についても、悪いことをすると死後十王の裁きを受けて虫や動物にされてしまうぞという脅しのために説かれたものであるから、逆に罪人以外の魂はどうなるかの設定が甘いのかもしれません。
あるいは、神や千人になるような特別な人以外、罪を持たない人間などいないということなのでしょうか?






